2011年06月02日

コンクリ打ちの記憶

 20代のころ、土方をしていた。
 コンクリ打ちと呼ばれる仕事があった。
 鉄筋コンクリートのビルを建てるとき、鉄筋屋さんが壁を鉄筋で組み、大工さんがそれを板で囲み壁を作る。さらに天井になる部分に板を張る。板は下の階の床との間を何本ものジャッキ状の太いパイプで止める。その板の上に鉄筋屋さんがさらに鉄筋を組む。上の階の床になる。
 大工さんが組んだ板は型枠と呼ばれ、型枠で囲まれた中に鉄筋が組まれている。その中にコンクリートを流し込んでいくのがコンクリ打ちだ。コンクリ打ちはポンプ車が来て、オペさん(オペレーター)がホースの先端をもって、壁の隙間や床にコンクリを流し込んで行く。俺たち土工はバイブレーターや木槌やスコップやカッパギと呼ばれる道具を持って、コンクリがきれいに流れ込むように振動を加えたり、壁の板を叩いたり、コンクリ均等にを引き伸ばしたりする。カッパギとは算木と板で作ったT字状の道具で、どろっとしたコンクリの塊をそれで伸ばすのだ。
 床部分はスラブと呼ばれる。スラブにコンクリを流し込むとき、奇妙な感覚に襲われた。何もないところにコンクリートが流れてきて、それを伸ばそうカッパギを持ってコンクリをひっぱる。そのとき足にもコンクリが流れてきて、圧力がかかる。ところで足元は鉄筋が組んであり、往々にしてその隙間に足首を入れているので自由が利かない。自由が利かないところに、コンクリという流動体の圧力がかかり、さらに上体はコンクリを引っ張ろうと力を入れる。体全体がバランスを崩しそうになる。
 何度か、コンクリ打ちの夢を見たことがある。夢の中でも、体はバランスを崩し、足はとられ足mことからずるずると流される感覚に襲われ、はっと起きたことが何度かある。
 足場から落ちる夢と、コンクリ打ちで足がとられる夢、それが土方時代の思い出だ。
 きょう永田町が液状化した。
posted by 黒川芳朱 at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月02日

商店街の喫茶店

 近頃街から減ったもの、そのひとつが喫茶店だ。
 喫茶店には二種類ある。珈琲を飲むための喫茶店と、椅子を確保して長時間過ごすための喫茶店。もちろん後者の店の珈琲が美味しければいうことないが、そうなると混むようになる。珈琲一杯であまり粘れなくなる。一定時間たつと帰ってくれといってくるプライドの高い店もあった。かといって、あまり珈琲が不味くても行く気はしない。
 珈琲はそこそこの味で、比較的広くて店員の目を気にせずにすみ、長時間粘れる喫茶店。打ち合わせや原稿を書くために、長時間ねばれる喫茶店は何箇所かは確保しておきたい場所だ。ところが、最近そういった喫茶店が少ない。みんなスタバのようにカフェ形式になっている。
 昔国立にあった「アフリカ」という喫茶店は何の気兼ねもなく長時間いさせてくれるいい店だった。だだっ広くはないが、いつもマスターに見られている感はなく、珈琲も普通だった。友達とだべったり、芝居の台本を書くにはちょうどよかった。
 新宿駅の目の前の「シミズ」なんてのもあったなあ。
 こういったいわゆる名店とは違った喫茶店を思い出すと、街の微妙なディティールが思い出される。
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

決定的瞬間はアマチュアが撮る

 決定的瞬間ということばがある。
 フランスの写真家アンリ・カルチェ・ブレッソンが1952年に『決定的瞬間』という写真集を発表した。ブレッソンがいう決定的瞬間とは、そこで何が起きているかを鮮明にとらえながら、しかも構図が美しい写真である。
 いま広く使われているのは、構図の美しさまでは問わず、出来事を鮮明にとらえている映像という意味だ。構図が問われるのは写真の場合だが、今はテレビやビデオの分野で使われることが多い。瞬間をとらえるには時間のある動画のほうが有利だ。日本テレビ系列で不定期に放送される『世界の決定的瞬間』という番組があるが、事故や事件といったものから動物がこけた瞬間といったようなものまで、珍しい出来事映像の総称となっている。
 ブレッソンの掲げた美学とは、かなり異なったものであることがわかる。
 ところで、きのうの創形美術学校の「卒業生による作品展」のオープニングパーティで、写真家の薄井崇友さんと話していたときに、写真や動画のデジタル化の話題になった。いまの報道写真は、多くがデジカメで連写で撮影し、データを送ってデスクが選択するようになっている。写真の選択をするのはカメラマンではなくデスクであり、カメラマンはシャッターを押す役割に限定されてきているというようなことについて話していた。「決定的瞬間ってなくなるのかな」と僕が言うと、薄井さんは「いま決定的瞬間を狙っているのは素人でしょ」といった。
 ここでちょっと話題は飛躍しているのだが、会話ってこんなもの。この言葉はなかなか面白かった。
 彼が言うには、突発的な事件が起きても多くの場合それを撮っている映像があって報道されるというのだ。素人がビデオや携帯で撮影し、それが報道に利用されているケーをよく目にする。報道されない映像といったらそれこそ計り知れない。
 ブレッソンの「決定的瞬間」から静止画と構図という限定を取り除くと、写メール文化になる。
 このテーマちょっと面白いな。また考えよう。
posted by 黒川芳朱 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ひろった名言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月31日

創形美術学校『卒業生による作品展』と『今井和雄+田中泯デュオ』

 創形美術学校の創立40周年記念「卒業生による作品展」が学校のエントランスにあるガレリアプントで開かれている。きょうの17時からオープニングパーティーが行われた。一期生から去年卒業した同窓生まで、たくさんの作家が集まった。作品の傾向はまちまちながら、見応えがある。卒業生による作品という点だけが共通項なので、開かれた展覧会としては限界はある。だが、在校生が卒業生の作品に触れることがこの展覧会の最大のポイントだろう。
 久しぶりに会う人、初めて会う人、在校生、何人かと談笑し、90分ほどでPLAN-Bに向かう。
 PLAN-Bでは今井和雄さんと田中泯さんのデュオの公演がある。田中泯さんとも私は創形で出会ったのだが、それから30数年立つことになる。
 今井和雄さんはギタリストだが、ギターだけではなく様々なものを楽器として使う。ボールのような食器にゴムを張ったものや、水、板などを弾いたり叩いたりして演奏する。楽器として作られているものではないので、音を出すこと自体が身体的なパフォーマンスとして見えてくる。そんなわけで、泯さんより今井さんを見る瞬間が何度かあった。
 公演はデュオといいながら2人が相手を目で確認するわけではなく、音や気配やエネルギーで確認しながら、即興的に進行していくさまがスリリングだった。この広さ、音の響き、二人の演者の間に通うものが見えるような距離感、PLAN-Bならではの公演だった。
 踊りの終わったあとに、出演者と残った観客とスタッフが歓談。泯さんが育てた大根がうまい。
 2月のダンス白州の下見に来月行くことを約束して帰宅。
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月30日

『小学六年生」休刊に思う

 いまさらの話題だが、この26日に小学館が『小学五年生』と『小学六年生』を来年の3月号(『六年生』は2.3月合併号)で休刊にすると発表した。報道によると、休刊の理由は「学習から生活まで幅広く網羅する編集方針が読者のニーズに必ずしも合致しなくなった」ということらしい。部数の落ち込みは半端ではない。1973年の『小学五年生』63万5000部、『小学六年生』46万部が過去の最高部数だが、現在は、5、6万部だという。
 『小学五年生』や『小学六年生』は学習雑誌と呼ばれてきたが、子どもの総合雑誌ともいえる。大人の世界でも同じだが、趣味やニーズが多様化し、メディアも多様化した時代に総合雑誌は人気がないらしい。
 俺は、低学年の頃『小学○年生』をとっていた。『小学二年生』には『二年ねたろう』という白土三平の漫画があった。あと、横山光輝の『鉄のサムソン』というロボット漫画も覚えている。『二年ねたろう』は絵がかわいくて大好きだったが、題名の意味がよくわからなかった。もう少し大人になって、『三年寝太郎』という民話があることを知った。小学二年生対象の学習雑誌だからそれをもじってこんな題名をつけたという大人の事情がわかれば何ということのない題名だが、まさに小学二年生にはさっぱり意味のわからない題名だった。はじめは小学二年生の自分にひきつけ、大人が主人公に「もう二年生ね、太郎」といっているのかと思った。でも時代劇だし、主人公は学校に行っているわけでもない。謎だった。
 他には、学研の『学習』と『科学』があり、これもとってもらった。『科学』は付録が本格的な実験器具や観測器具だったのが魅力だった。高学年になると『小学五年生』も『小学六年生』もとらず漫画雑誌『少年』をとってもらった。『学習』と『科学』はどうしたか覚えていない。
 『少年』は『鉄腕アトム』と『鉄人28号』が連載されていた。それだけで輝いていたが、他にも『ストップ兄ちゃん』など面白い漫画がたくさん載っていた。漫画雑誌だったが読み物も多く、付録に雑学の手帳のようなものが毎号ついていた。『少年』の組み立て付録は構造がこっていた。戦艦を機関銃で撃つと戦艦が真っ二つに割れるというような複雑な模型を、紙と割りピンと輪ゴムだけで毎号作るのだ。単なる漫画雑誌というより、総合雑誌の趣があった。
 中学に入ると『中1コース』『中1時代』という2冊の雑誌があった。学習雑誌の場合、学校での授業の進行と並行するように学習関係の記事が組まれており、参考書の役割も果たしつつ、漫画や小説、さらに中学生の男女交際はどうあるべきかというような記事もあった。
 学習雑誌は学年が上がるのと並行して、雑誌もいっしょに2年生や3年生に繰り上がってくれているという実感があった。記事の中に継続するものがあったかどうか覚えていないが、学校の先生の何人かがいっしょに繰り上がってくれるように、雑誌も成長を見守ってくれている感じがした。2年生になって『中1コース』を見ると自分の知っている『中1コース』と漫画や小説が違い、違和感を持ったりした。
 もう何年も前から、マーケティングの世界では大衆から分衆へというようなことが言われている。個人の好みや趣味関心が多様化し、十把一絡げにとらえられなくなっているというわけだ。たとえば歌謡曲でも老若男女誰もが口ずさむ歌というものがほとんどなくって久しい。美空ひばりのような国民的歌手という存在がいない。ジャンルの名称そのものが歌謡曲とJ-POPに分かれている。お年よりは安室奈美恵を聞かないし、うんと若い子もまた聞かない。ある限られた世代のアイドルだ。
 総合学習雑誌が難しいことはわかる。わかるのだが、自分自身の成長過程を考えると、学習記事もあり、スポーツもあり、漫画もあり、小説もあり、付録もあり、という雑誌のあり方は「総合」という概念を形成するのに一役買ってくれたような気がする。「総合」と名づけられたメディアがなくなり、パーツだけになっていく。それはそういう流れなのだろう。いろいろなものを自分で体験して楽しみつつも「総合」という概念を形成するメディアがなくなっていくのかなあ、と思ってしまう。「総合」という概念はまだまだ重要に思うのだが。
posted by 黒川芳朱 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月29日

『この惑星』の記事がアップされた

 『この惑星』の連載『アーティスト・アイズ』の記事がアップされた。ぜひご笑覧ください。URLはhttp://www.konohoshi.jp/index.html
 今月は松本人志監督の『しんぼる』を取り上げた。『しんぼる』は封切られたときから取り上げようかと思っていたのだが、何回目に取り上げるかは少し悩んだ。
 『アーティスト・アイズ』はアート関係のイベントを取り上げることになっている。私の興味としては古典や近代ではなく、新しいものを取り上げたい。古典や近代芸術はわざわざ私が取り上げなくとも、ふさわしい研究者や評論家がいる。『アーティストアイズ』というタイトルのとおり、現役のアーティストが同時代のアーティストの作品を見て感じたことを書くというのがコンセプトだ。こういったコンセプトで書く以上、私としてはたとえ反発を感じたとしても何かを共有している感じが持てるものを取り上げたいのだ。
 『しんぼる』は絶対に取り上げようと思っていたのだが、一応アート情報ということになっているので、現代美術か実験映画かダンスか演劇を2、3本取上げた後に、と思っていた。ただし、封切りが終わってしまっては情報コーナーとしての役割を果たさないので、ギリギリ3回目かなと予定していた。
 今月取上げようかと思っていたのは森美術館で開かれている『アイ・ウェイウェイ展 ―何に因って?』だったのだが、いってみてがっかりした。2回目にして他人の批判を書いてもしょうがないので、他の対象を探すことにした。いろいろ探したがピンと来るものがなく、となれば2回目だが『しんぼる』しかない。
 このあたりが難しいところなのだが、レビューを書いて読者が見に行ける程度の期間開催されているイベントとなると、新しいといってもある程度評価の固定したアートが多くなる。『アイ・ウェイウェイ展』はまさにそのつまらなさが出ていた。こういってはわるいが欧米の美術市場の支配下にあるような印象だった。
 少し前に、対象を選ぶ苦労をこのブログに書いたが、ちょうど『アイ・ウェイウェイ展』を観たあとだった。あの記事を読み『この惑星』の大島編集長から、読者が見に行ける対象にこだわらなくてもいいという電話を貰った。だが、この基準によって生まれる苦労は現在のアートのいろいろな面を考えるきっかけとなるので、私自身は無駄な努力とは思っていない。
 ちょっと整理してみよう。

1.新しいアートを取上げる。
2.ファインアートを中心に取上げる。
3.可能な限り、レビューを読んだあと読者が鑑賞できる期間があるイベントを取上げる。

1の「新しい」ということに関して言えば、作られた時代が古いもの、現在生きていても近代に分類されるアーティストの作品は避ける。問題は現在活躍中のアーティストであれば新しいわけではないのだが、その基準となると私の主観となる。つまり、この選定では私の見方が問われることになる。
2のファインアートということは、実はかなりやっかいだ。最近の現代美術はサブカルチャーのお尻を追っかけているところがある。また、fine(品質の優れた、純粋な、技術の優れた)という言葉は近・現代の芸術運動の標的でもあった。ファインアートという言葉自体かなり曖昧であり、その言葉で芸術の本質が衝けるのかという問題がある。それでいながら、欧米ならきちんと市場がある。つまり、ファインアートを中心にといった基準を立てるということは、ファインアートとは何か、それに意味があるのか、それを否定したら何が本質的に重要なことなのか、という堂々巡りの問いを抱え込んで執筆を続けるということになる。
3期間の問題は現在のアートの制度をかなりはっきりと映し出す。評価、興行、観客の問題、会場の問題などなど。

 この3つの基準は時々破りながらも、一応守って行こうと思う。守ることで、現在のアートシーンのいろいろな問題がが浮かび上がってくる。そうしたら、このブログに書いていくつもりだ。 
posted by 黒川芳朱 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | この惑星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月28日

折り紙の本を借りてきた

 折り紙や紙の造形と写真を組み合わせ、服を作りたいというという創形の学生がいる。まず、折りや紙で何ができるか、できることを増やし、アレンジを加えてみることを勧めた。
 この学生のアイディアに刺激され、私も少し折りや紙の造形について調べてみようと思い、今日図書館で本を借りてきた。私では絶対考えないようなことを学生は考える。これはけっこう刺激になる。こういうときは、そのアイディアにとことん付き合ってみると面白い。
 というわけで今日借りてきたのは、笠原邦彦著『おりがみ新発見1 半開折り・回転折り・非対称の形』、茶谷正洋・中沢圭子著『折り紙建築 世界遺産をつくろう!』、藤井あつ子著『折り紙ソーイングで女の子の服』。折りの技については『おりがみ新発見1』が一番詳しい。『折り紙建築』は一般的に考える折り紙ではなく、大きめのケント紙にカッターで刻みを入れ折ることで建築物を半立体、レリーフ上に作る本だ。『女の子の服』は借りるのがちょっと恥ずかしかったが、実際の子どもが着られる服を作る。これもいわゆる折り紙の概念とは少し違うが、学生がしようとしていることに一番近い。
 この機会のこれらの本をガイドに、一通り作ってみようと思う。
posted by 黒川芳朱 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月27日

東京メトロ東西線の月曜日

 きのうのことになるが、朝の通勤時間に東西線が遅れた。中央線の中の高円寺間で発生した車両点検の影響ということだ。東京メトロのアナウンスではこうなるんだが、「発生した車両点検」というのも変な感じがする。点検って発生するもんじゃなくてやるもんだろ。異常が発生したから車両点検を行ったんだろう。
 それはさておき、家から都心に向かうには4本の鉄道が利用できるがある。俺が一番多く利用しているのは東京メトロ東西線。これと並んで総武線。都心よりその手前の舞浜や新木場に行くときに使う京葉線。そして京成線。
 京成線はあまりないのだが、たの3本の線は、よく遅れたり止まったりする。東西線はその両端で、西船橋から津田沼までと中野から三鷹まで、総武線に乗り入れている。したがって、どちらかにトラブルが発生するともう一方にも影響が出る。
 そして、この2本の鉄道は江戸川、荒川、隅田川という3本の川を渡る。東西線は隅田川は地下を通っているが、他の2本の川は地上を鉄橋で渡る。海に近いので、天候の影響をもろに受けやすく雨や風に弱い。
 この日本よりさらに海よりの地上を走るのが京葉線だ。これもよく止まる。
 ところで、今年度になってから月曜日というと東西線が遅れることが多い。なぜだろう。何度か、某専門学校の授業に遅れそうになった。きのうは他の非常勤講師と、「月曜は遅れることが多いですねえ」と挨拶絵オ交わした。理由がわからないが「月曜には東西線が遅れる」というこの「マイ都市伝説」が定着しつつある。
posted by 黒川芳朱 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月26日

ノーマン・マクラレンの『垂直線』と『水平線』を観た

 映像についてあれこれ考えるうち、次第に頭が煮詰まってきた。頭をすっきりさせるために、ノーマン・マクラレンの『垂直線』と『水平線』が無性に観たくなりDVDをプレーヤーに突っ込んだ。
 『垂直線』では、画面に一本の垂直線が現れ、左右に往復運動を始める。右の画面フレームに当たると左側に向かい、左の画面フレームに当たると右側に向かう。
 線からもう一本線が生まれ2本の線が移動する。線は次第に増え、それぞれが微妙に異なったスピードで動く。線は画面に粗密の関係を作り出し、また一本にまとまる。そしてまた増殖する。
 非常にシンプルな映画だが、そこから生まれてくるイリュージョンは豊かだ。解説によると、線は黒いフィルムに直接スクラッチしているという。たしかにスクラッチの線だ。ときどきエッジに斑ができ、それが作品に含みを作り出している。CGだったらもっと味気なくなったかもしれない。
 線の粗密な関係が立体感を生み出す瞬間がある。六角柱や八角柱の柱のように見えて、そこから神殿のイリュージョンが浮かんでくる。だが、全ての線は移動しているので、一瞬後にはその関係が違ったものになる。 
 線が生み出すのは、建物や空間といった外的なイメージばかりではない。線が交差したりぶつかった瞬間にもう一本線が現れる。たったそれだけで、ものの発生や成長といったイメージを引き起こす。そしてなによりも、単なる線の移動を観ながら、そこに様々なイメージを読みとっている自分自身の知覚やイメージのあり方といった内面に意識が向かう。
 『水平線』は『垂直線』を90度回転させ、背景と音楽を変えた作品だ。背景といっても色面で、何かが描かれたりしているわけではない。色味や透明度が少し違うだけだ。線の動きはまったく同じということだ。二つ並べて再生してみたわけではないが、解説を信じよう。
 ところが、『垂直線』と『水平線』では浮かんでくるイリュージョンがかなり違う。考えてみると当然だが、自分自身の目で感覚で体験すると、これは驚きだ。
 『垂直線』は建物や樹木や天から差し込む光といったイメージが浮かぶ。上昇、昇天といったイメージで、そこには人なり自然なり神といったものの力が関与しているイメージもある。人工物のイメージも強い。これに比べて『水平線』はまさに海の水平線や地平線のイメージが強く、また海の中のイメージもあった。人工物のイメージもあるにはあるが、自然とのつながりの強いイメージの方が多く浮かぶ。また、こちらの方がイメージが豊かな感じがした。『垂直線』で感じた発生や成長のイメージは『水平線』の方がはるかに強い。
 垂直と水平というのは、人間の空間感覚、空間認識の基本軸といってもいいだろう。私のインスタレーション作品でも、垂直と水平をモティーフにしたものがあるが、垂直と水平の根本的な違いを感じさせられた。
 人間の目が横に二つ並んでいること、重力との関係など考えるべきことはたくさんあるが、そろそろベッドの上で水平線になろう。
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月25日

相倉久人パフォーマンスジョッキー『重力の復権』

今月もまた『重力の復権』が近づいてきました。

相倉久人パフォーマンス・ジョッキー『重力の復権』
日時:10月29日(木曜日)19時30分より
料金:800円(予約、当日とも)
会場:Live Space plan−B
住所:東京都中野区弥生町4−26−20モナーク中野B1
アクセス:東京メトロ丸の内線(方南町線)中野富士見町駅より徒歩7分
JR中野駅南口より京王バス、 渋谷行きか新宿駅西口行、富士高校前下車 徒歩1分
会場への連絡:03-3384-2051(公演当日のみ)
問合せ先:090-5385-9631(石原)
会場への地図等はplan-Bホームページからhttp://www.i10x.com/planb/

 毎月のパフォーマンスジョッキーにおいても、ほんの数回しか語られたことはありませんが、重力の復権という言葉、いまキーボードを打っていてビーンと反応してしまいました。きのうもちょっと触れた松本人志の『しんぼる』の浮遊感覚が強烈だったので、重力という言葉にいつも以上に反応してしまったのです。
 ノンジャンル評論家と勝手に名づけてしまいますが、相倉さんの毎月の軽妙なトークの中には、重さや深さに向かうベクトルがさりげなく隠されています。別に隠しているわけではなく、あまりにさりげないので気づかないことが多いだけです。それを探しに、ちょっとお立ち寄りになりませんか。
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 重力の復権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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