2009年04月08日

土方巽さんの誕生日で思い出したこと

 このブログを休んでいる数ヶ月の間に間に色々なことがあった。
 そのひとつ、3月9日にはPLAN−Bで『土方巽81回目の誕生日』という催し物があった。出演者と観客という関係はなく、きりたんぽなどをご馳走になりながら、参加者みんなが土方さんについて何か語る会だ。私も土方さんの思い出を語った。
 80年代初頭にPLAN−Bで土方さんの業績を映像で紹介する会を行ったとき、私は膨大な数の写真の複写や写真を8ミリで再撮影して映画化する仕事を担当した。
 「土方さんの業績を映像で紹介する会」という言葉で連想するのとはまったく違った内容の会だった。 静止画だからといってパシャッパシャッとスライドを切り替えていくようなおとなしい会ではない。スライド一枚一枚をピン送りしたり、映写機を振り回して映像を乱舞させたり、シングルスクリーンからマルチスクリーンに切り替わったり、一度固定し、定着してしまった映像に息を吹き込むライブパフォーマンスだった。
 そのころ、レゲエにおいてダブとかDJというものがというものが重要な役割を持っていることがわかり始めていた。何枚かの音盤を聞いて、なるほどこういうことかと納得した。スクラッチなどのDJ文化が炸裂するヒップホップは、まだ目立ってはいなかった。
 私は実験映画やビデオアートの制作以上に映像パフォーマンスにのめりこんでいた。それは、パッケージ(ソフト)とライブということを意識していたからだ。一度パッケージ化した映像を、もう一度ライブパフォーマンスの場で蘇生すること。そんなことを考えていた。
 その時に出会った土方さんの記録映像への向き合い方は、非常に刺激になったことを覚えている。
 『土方巽81回目の誕生日』で私が話したことはもっと別の話だが、ここ数日映像パフォーマンスということを考えていたら、土方さんのことと当時自分が映像パフォーマンスについて考えていたこと、どんなところから刺激を受けていたかなどなど思い出した。
 いまや歌謡曲のバックでもDJがいたりするが、当時はDJ自体が目新しかった。
 土方さんがスライドや写真に息を吹き込んだのと、DJが行うスクラッチなどの技法とはまったく違う。だが、一度完成したソフトを、もう一度生々しく蘇らせようという意識は共通している。
 このあたり、もう少し考えてみよう。


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2009年04月07日

イメージフォーラムフェスティバルでパフォーマンスをする

 来る4月28日、イメージフォーラムフェスティバルでパフォーマンスを行う。新宿パークタワーホールで、19時30分からのFプログラム。
 私は美術家の大串孝二さんとのデュオパフォーマンス『Body Scan』の第三弾だ。このプログラムでは他に万城目純さんの『Nyo Nyum』、足立智美さんの『マイクロフォンとしてのカメラ』と合計3組がライブパフォーマンス行う。
 イメージフォーラムフェスティバルでのパフォーマンスは、過去に2回行っているが、今回はひときわ感慨がある。先日も書いたが、大串さんとのデュオをきっかけに、パフォーマンスというものについて再び考えることになったのだ。
 美術と映像、イメージと物質と身体、などなど、書きたいことは色々あるのだが、いまは言語化するよりもパフォーマンス化するほうに専念したい。とりあえずカタログ用に描いたコメントだけ、ここに掲載しておく。

Body Scan
肉体、死体、胴体、固体、液体。
体で走査する、体に走査する、体を走査する、体は走査する。
情報、イメージ、観念は本来物質や身体を基盤にしている。
このパフォーマンスは、観念を物質と身体の次元に引き摺り下ろし、場と体内に情報が運行を始め、イメージが立ち上がってくるさまを目撃する行為の場である

 やれやれ、まるで60年代だなと思う反面、まさに2009年の問題意識だという自負もある。あらためて、言葉でもきちんと展開したいがその前に行動だ。見るまえに跳べ、なんてまたまた60年代だな。

とりあえず、こうご期待。

イメージフォーラムフェスティバル2009の詳細についてはこちらをクリック。

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2009年03月24日

映像と物質と身体

ずいぶん休んでしまったが、再開する。
まずはメモランダムでストレッチ。

去年のことになるが、『横浜トリエンナーレ』に行くと、映像を使ったインスタレーション作品が山ほどあった。何か違和感を感じた。
映像は簡単に時空を編纂する。時空を俯瞰して、作り手が操作できる。そして、ビデオプロジェクターはかなりのスペースを映像で埋めることを可能にした。インスタレーションの道具としては実に手ごろだ。

子どもの頃、『2001年宇宙の旅』で、類人猿が投げた骨が宇宙船になったのを見た。宇宙や時間が小さくなるようないやな感じがしたことを思い出す。

世界観という言葉の変貌も、このことに関連しているのだろう。自分を取り巻くこの世界をどうとらえるかということが世界観だが、いまはガチャガチャの中に入っている世界観を気分で交換できるような感じがする。

先日、美術家の大串孝二さんとパフォーマンスを行った。『Body Scan』というタイトルで、2007年に続き今回で2回目になる。2007年にこのタイトルをつけたときはあまり意識していなかったのだが、私にとっては、いまの映像のあり方を考えるキーワードになっている。

映像について今考えていることは、映像が時空の編纂を簡単に行えるのだとすると、むしろその細部に、より細部に入っていく必要があるのではないかということがひとつ。もうひとつは、映像の問題を物質や身体を使って展開してみるということだ。

とりあえずきょうはここまで。
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2008年10月25日

道具の一生

 「いまは、もう、動かない、おじいさんの、時計」。
 古くなった道具には、独特の魅力がある。
 よく古道具屋やフリーマーケットで、動かなくなった時計やカメラなどをアンティークな置物、ディスプレイとして売っている。もちろん値は安いが、それでも買う人はいる。動かないくせにあまり大きなものは邪魔になるが、テーブルの上に置けたり壁にかけられる程度の大きさの物は装飾品になりうる。
 電化製品になるとちょっと怪しくなる。古くなった洗濯機、冷蔵庫、ステレオ、うんと古くてよほどデザインに魅力があればともかく、古いだけでは魅力がない。
 冷蔵庫は、棚代わりにはなる。古いデザインに面白いものがありそうだが、ただの四角い冷蔵庫では邪魔になるだけだ。
 うんと古い洗濯機には脇にハンドル式の「絞り機」がついている。そのぶん今と違った形になるが、あれをディスプレイとして部屋に置く気にはなれない。
 コンポーネントステレオは場所を取り過ぎる。蓄音機一個ならなかなかいいインテリアになる。
 ビデオデッキなどになるといくらデザインが優れていても、基本的に四角い箱なので飾っておこうという気にはならない。
 コンピュータはどうか。これも難しいなあ。アップルUぐらいならディスプレイの価値はあるのかなあ。
 こんなことを考えたのは、愛用していたビデオの編集ソフトが古くなったことを実感させられたからだ。サポートが終わりトラブルが発生したときに対処法を簡単に調べられなくなってしまった。数ヶ月前まではソフトウェアのメーカーのホームページに「Q&A」のコーナーがあり、簡単に調べられた。今は、サポートセンターでもアシュアランス契約をしていないと購入2年後の問い合わせは受け付けないという。プロ用のソフトウェアなので、メーカー側も強気だ。
 結局、購入先に問い合わせて調べたもらったが、そこでも社内にその製品がすでになく、しばらく時間をくださいといわれた。調べて後日連絡をくれたので助かったが、浦島太郎の気分だった。
 古くなったソフトウェア、これはディスプレイにはならない。なにしろ物ではないので。CDやマニュアルの入った箱はあるが、あんなもん飾ってもダサいしなあ。ソフトウェアは物ではなく情報であり記号だ。
 作業内容だけを考えると、古いコンピュータとソフトウェアでも充分仕事はできる。ワープロソフトなんて、数年前に完成しているだろう。ソフトによっては、古いバージョンのほうが使い易い場合もある。
 だが、コンピュータを買い換えるとソフトウェアと合わなくなったり、ソフトウェアを買い換えるとコンピュータと合わなくなったり、やっかいだ。
 コンピュータというものはハードとソフトの組み合わせなので、一個一個ばらばらに組み合わせることも取り替えることも可能なはずだった。それは短い期間での話であって、長い時間の中では結局全体を変えないとうまく機能しなくなる。メーカーの考える期間と個人が使用する期間に大きなズレがある。仕事で頻繁に使うものと、それほどでもないが使うものとの間にもズレがある。
 以前クイズ番組で、どうしても冷蔵庫を当てたいという老齢のご夫人が登場した。タレントではない。視聴者の方だ。その生活ぶりが紹介されていたが、質素にくらし冷蔵庫を何十年にもわたって愛用しているという。故障しては直し、外装が痛んだ箇所は自分で補修して大切に使っている。だが、ついに修理不可能になったのでどうしても冷蔵庫を当てたいというのだ。
 クイズの結果、冷蔵庫を当てた彼女は泣いていた。それを見て私はちょっと感動した。今のような使い捨ての時代に、こんなに物を大切にし愛情を持って使う人がいるのか。
 長い間使い続けられるものと、古くなると使えなくなるものがある。私の使う映像機器でいえば、フィルム用のものは長い時間使えるものが多かった。ビデオ用のものはすぐに古くなってしまった。
 また、使えなくなっても物としての魅力を持ち続けるものと、魅力を失うものとがある。
金融という記号の危機が騒がれるなか、物と人間について考えた。
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2008年10月24日

カップヌードルきのう食ったぜ

 きのう、まともに食事をする時間がなくカップヌードルを食った。いい年してとんだ食生活だが、平らげた直後に横須賀の事件を知った。「ウソだろ」ゲップとともにぼやきが口をついて出た。と思ったら、いまニュースで野田聖子消費者行政推進担当大臣が「私も時々いただきます」といっていた。ホントかな。
 食に対する不安などといまさらいっても始まらない。毒入り餃子だの産地偽装だのと事件が続く。ここまで世の中が複雑化すると、一個人ができることは、「何が起きてもおかしくない」と腹をくくることぐらいかもしれない。
 完全に安全を確保することなどできない。われわれは店に並んでいるものを買うしかないのだから。自分で野菜を作り豚や牛を飼い魚を取りのでなければ。完全な自給自足でなければ100パーセント安全が確保されるわけはない。だからこそその危うさを払拭し、安全神話の信頼感を高めようと、システムは躍起になる。なっているフリをする。
 その昔、知人の怪人フジオカさんが、「文明の問題は、自分でできないことまでできるようにしたことだ」といったことがある。聞いていたわれわれはフムフムと納得したのだが、次に怪人が言ったことにはたまげた。「電車を作れない奴が電車に乗るからおかしくなるんだ」、すかさずイケノ君が「じゃフジオカはどうなんだよ」と畳み掛けた。すると怪人あわてることなく「だって俺、電車作れるもん」。
 その場の結論は、でもやっぱり自分にできないことまでできるのが文明だということにおさまったのだが、他人任せは常に危険を孕んでいるわけだ。
 カップ麺一個食うのも大変だ。地雷を踏まずに戦場を歩くようなものか。すべてが間接化した社会では、安全も間接的に確保するほかはない。それが文明の知恵のはずだが、本質的には危うい綱渡りだということは肝に銘じておくべきなのだろう。ズルズルズル。
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2008年10月22日

相倉久人パフォーマンスジョッキー『重力の復権』

 相倉久人パフォーマンス・ジョッキー『重力の復権』
日時:10月28日(火曜日)19時30分より
料金:800円(予約、当日とも)
会場:Live Space plan−B
住所:東京都中野区弥生町4−26−20モナーク中野B1
アクセス:東京メトロ丸の内線(方南町線)中野富士見町駅より徒歩7分
JR中野駅南口より京王バス、 渋谷行きか新宿駅西口行、富士高校前下車 徒歩1分
会場への連絡:03-3384-2051(公演当日のみ)
問合せ先:090-5385-9631(石原)
会場への地図等はplan-Bホームページからhttp://www.i10x.com/planb/

 音楽評論家から音楽をとって評論家と呼ぶのがふさわしい相倉久人さんのパフォーマンスジョッキーが近づいてきた。そう、相倉さんの守備範囲というか攻略範囲というかは広い。
 ネット上に情報があふれ、あちこちにフリーペーパーが置いてあってただでもらえる時代に、評論だの批評だのというものがなぜ必要なのか。
 なぜ必要なのかといえば必要ない。音楽も映画も文芸もスポーツも必要ないように。だが、評論や批評は面白いのだ。音楽も映画も文芸もスポーツも面白いように。面白いというのは、わくわくして刺激があっていろんなものが深く味わえるようになるということだ。
 評論なんて七面倒くさくて無駄に屁理屈こねてるようなもんだろう、という人はぜひ一度『重力の復権』に来てみてください。評論や批評が、ばらばらに見ていた映画や音楽や絵画のつながりを見せ、新しいもののなかに古いものを発見し、いろいろな作品の背後で変貌する社会の姿をあぶりだす魔法の鏡であることがわかるはずだ。
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2008年10月21日

朝日新聞を読んで宗教について考えたA

 きのうの朝日の朝刊に載っていたもうひとつの宗教に関する記事は、「仏像盗難30体」という見出しで、静岡県のあちこちの寺で地域の人が守ってきた寺から仏像が消え、フリーマーケットやオークションで売られる事件が多発しているというものだ。
 住職のいない無人の寺で、檀家が管理しているところがねらわれる。檀家も本尊を見たことがないことが多く、偽物にすりかえられていても気づかないこともあるという。
 あるお寺では、檀家の方が厨司を掃除したところ本尊の如来像に、違和感を覚えた。住職に確認しても確証が得られず、寺にも記録がなかった。ところがよく見ると、如来像の台座は円形なのにほこりの跡が六角形だったので、すりかえられたと判断し被害届けを出したという。ミステリーのような話だ。
 墓泥棒という言葉もあるように、この手の泥棒は大昔からいたのだろう。そういえばインディー・ジョーンズなどというヒーロー物もある。だから、「時代が変わった」「世も末だ」などと嘆くのはあたらないのかもしれない。ただ、静岡県内で30体というのはひどい。新聞にはいつからとは書いていなかったが、気がついたらということなのだろう。
 私が関心を持ったのは、本尊がすりかえられていても宗教という形は成立している点だ。わかった時点で信心も薄れるかもしれないが、気がつかない間はそのまま宗教は成り立っている。先ほどのほこりの跡で判明したケースでは、住職も厨子はめったに開けないので偽物かどうか確認できなかったという。そういうものを厨子の奥に入れ、蓋をして拝んでいたのだ。
 お寺では本尊が精神的な中心である。そこに向かってあらゆる精神性が集中する。遠近法でいう消失点のように。中心であるがゆえにふだんは人目にさらさない。いってみれば、本尊という消失点が盗難によって消失してしまったのが今回の事件だ。
 本尊といっても彫刻である。仏様ではない。その彫刻を仏様に感じるように寺という空間はデザインされている。本尊は奥に奥に安置され、ふだんは人目にさらさないのも、そのための方法かもしれない。だが、そうなると、本尊を奥に奥に配置し、訪れた人々にその姿を見せない空間を作れば、本尊はなくても信仰の空間は成立する。お寺という空間はこういったパラドクスによって成立しているのか。
 ということを、今回の自演は図らずも露にしてしまった。
 きのうのお布施の透明化といい、本尊の盗難といい、どちらも信仰を支えている仕組みが露になるような事態だ。そんな事態に、宗教が耐えられるのか、無責任にだがちょっと考えさせられた。
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2008年10月20日

朝日新聞を読んで宗教について考えた@

 朝日新聞を読んで宗教について考えた。不真面目に。いい加減に。無責任に。
 今日の朝日の朝刊には宗教に関する面白い記事が二つ載っていた。
 ひとつは記事というより名物随筆の『天声人語』。青年僧ら30人ほどが「寺ネット・サンガ」という団体を旗揚げ、「お布施について、施主に充分説明し、使途も明示するなどして、信頼を得る道を探るそうだ」。
 お布施の透明化の試みというわけだ。こういう動きが出てくるということは、一般の人々お寺に対する不信感を、お坊さんの側も感じているということなのだろう。
 だが、使途を明示というがどんな細目になるのだろう。葬儀場などに来ていただいた場合は、お坊さんの交通費がかかる。お寺に行った場合はかからない。だが、寺使用料というものが発生するのだろうか。本堂使用料、待合室使用料、待合室ではお茶代やお茶菓子代が発生する。お坊さんの人件費、これは時給で計算するのだろうか。お経はひとつ当たりいくら、講話はひとつでいくらと決めるのだろうか。寺の維持費はここにはいるのか。
 実務的な金額を明示するというのも難しいだろうなあ。それらはあくまで周辺の経費で、お布施の価値の核となるものは信仰だ。突き詰めていえば、施主がいくら払う気があるかということ。施主が価値を認めなければ、お布施そのものがいらないということにもなりかねない。
 神社に行ってお賽銭を上げるとき、ほとんどがコインだろう。万札を賽銭箱に何枚も入れる人は少ない。そこに頼んでもいないのに神主さんが出てきて祝詞を挙げてくれたら、100円で得したと思うか少し御礼をしなければと思うかは人それぞれだ。だが、こちらからお願いして祝詞をあげてもらったなら、やはり万札を何枚か包まねばという心理になる。「使途を明示」することとこのあたりの心理はうまくなじむのだろうか。
 今年の夏、祖父の50回忌があった。母方の田舎である福井に行き、お寺さんでお経を上げてもらった。出発前、母は親戚に電話して、いくらぐらい包めばいいか相談した。地域ごとの相場のようなものもある。年寄りにしてこうなのだ。
 そういう意味では、「使途を明示」よりも相場というか金額を提示してくれたほうが払うほうも気が楽だ。金額のわかりにくい従来の寿司屋より、回転寿司のほうが気楽に入れるのと同じで、「一応常識的にはこのぐらい」ということを基準に、もう少し張り込もうとか考え易い。だが、お寺のほうが金額を提示するというのは「お布施」の考え方としては成り立つのだろうか。提示するとなると、根拠を示す必要が出てくる。信仰の「メーカー希望価格」を提示することになってしまう。
 友人に坊主がいる。彼のお寺に、霊感商法で買わされた壺だの印鑑だの仏像のようなものだのが持ち込まれことがあるという。持ち込む人はそれを処分したいのだが、やたらに捨てると罰が当たるような気がする。だから、お寺さんで何とかして欲しいというわけだ。仏教にこういう概念があるのか、正しくは何というのか知らないが、世に言う徐霊ということになるのだろう。お布施をいただいてお経を上げ処分する。そうすることで持ち込んだ人も安心するのだという。そのとき、お布施が1000円とか変に安いと安心できない。それなりの金額を払うことで、頼む側も徐霊できたと納得する。つまり彼によると、この一連の行為がセラピーの役割を果たしているというのだ。この場合は、払う側がそれなりの金額を払うことを欲しているわけだ。だが、このときそのお布施をセラピー料といってしまったら、セラピーの効果はなくなる。あくまでお布施という形をとることでセラピーが成立する。
 霊感商法といえば、霊感商法が流行ったころにも、お布施などの基準を宗教界で明確にすべきだという声が上がったという雑誌の記事を、読んだ記憶がある。ただ、これは諸刃の刃だとも書いてあった。数百円の交通安全のお守りも、数千万円の霊感商法の壺も、金額の根拠は買う側が信じるかどうかだけで、実際にご利益があるかどうかを保証できない。つまり、どちらも信仰以外に根拠のない、実態のないお金なのだ。余りに高いものは悪質だということは、少なければ許されるということであり、許されるということは本来悪いことというニュアンスを帯びる。お布施とご利益そのものを否定することにもなる。つまりこの問題に宗教界が踏み込むことは、自らの首を絞めることにもつながりかねない。
(明日へつづく)

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2008年10月19日

めがねめがね

 ずぼらな性格がどんどん加速している。ずぼらが加速すると行動は失速する。ずぼ、ずぼずぼずぼ。
 「めがねめがね」はやすきよ漫才の定番のネタだ。横山やすしが眼鏡を頭の方にずり上げ、一生懸命眼鏡を探す。スピード感はあったけど、今振り返るとのどかな感じがするなあ。
 この数日、めがねで困っている。私は3種類の眼鏡を使分けていた。遠距離用、中距離用、近距離用である。常用していたのは中距離用で、映画館などで遠くを観るときは遠距離用、本を読むときやコンピュータの画面を見るときは近距離用を使っていた。
 だいぶ前、まず常用している中距離用が見当たらなくなった。すぐに探せばいいものを、遠距離用と近距離用で済ましていた。これまではこんなことはなかった。すぐに探したはずである。だが、恐怖のB型人間なので、ひとつ気分のボタンを掛け違うとどうでもよくなってしまう。
 つぎに近距離用が見当たらなくなった。で、ここでまたあわてず騒がずどっしり構えてしまっている。なにしろ、近距離なら裸眼でも(うんと顔を近づければ)見えるのだ。
 結果遠距離用のみで生活した。 何しろここしばらくの関心事は、われわれは様々なズレによってものごとを認識している、ということだったのでピントのズレを楽しんでしまった。
 だが、しだいに心理的な影響が出始めた。遠距離用めがねと裸眼で生活すると、遠くとうんと近くは見える。逆に言えば、中距離はよく見えない。ところが、中距離こそ行動範囲なのだ。人と話すときに、顔の前まで顔をくっつけるわけには行かない。まあ2mも離れれば、顔ぐらい大きいものならはっきり見えるので顔全体では問題ないのだが、相手の目を見て話そうとするとうっすらとしてくる。1歩後ろに下がれば見えるのだがそれも失礼だ。さらに、自分の手を伸ばして何かをする範囲がうんと近くは見えるが、40cmぐらい離れると見にくくなる。その結果、現実感覚が薄くなっていることに気づいた。俺は今、ここではないどこかにいるのだという感覚。やばいぜこれ。
 さっきPCでビデオの編集をしていて、見にくさが進行している感じがした。細部に目の焦点を当てようとすると合うと思った瞬間にボケてしまう。カメラでいえば、バックフォーカスがずれているような感じで、ギリギリまで追い込んだ瞬間に細部はすり抜けていく。
 そろそろ眼鏡を探すか。
 つまりそれは、部屋の掃除をするか、ということなのだが。
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2008年10月18日

パティ・スミス『ゴーン・アゲイン』を引っ張り出して

 パティ・スミスの『ゴーン・アゲイン』を聴いている。一人の男のことを思い出しながら。
 このアルバムは、パティが夫のフレッドやバンド仲間や弟やカート・コバーンといった多くの人々の死を悼むアルバムだ。死者を弔いながら生きる勇気を与えてくれる。
 その男は私の先輩である。この3年ほどは毎週のように顔を合わせていたが、さほど親密にしていたわけではない。プライベートで会ったり飲んだりということはほとんどなかった。だが、彼は私に重要な仕事を与えてくれたし、わたしは彼を信頼していた。今振り返るとその男は私の中で、とても大きな存在になっている。
 この夏に亡くなったその男は、画家だった。横幅3mだの5mだのという巨大な絵を描いていた。サイズからして売りにくい絵だ。彼は一歩も引いていなかった。巨匠のような仕事振りだった。彼は絵筆を握って時代と格闘し生き抜いた。死の数ヶ月前に開かれた個展でも、巨大で緻密な絵が展示されていた。
 その男は、小さな美術学校の校長もしていた。校長に就任すると同時に、様々なアイディアを出し、学校を改革していった。彼が作った新しいコースに「表現コミュニケーション」というものがあった。
 これから団塊の世代が定年退職して地域社会に入っていく。地域社会が活性化する。そのとき、アートが重要な役割を果たすはずだ。アートの持つ力を社会の中で生かすような人材を養成したいんだ。彼は「表現コミュニケーション」の構想をそんな風に語ってくれた。
 彼は校長に就任する前から、自宅で奥さんと子どものための絵画教室を開いていた。それは絵画教室を越える絵画教室だった。一度、アトリエで影絵のパフォーマンスをするから来ないかと誘われて見に行ったことがある。大きなスクリーンに裏から光をあて、音楽を流し、子どもたちが自分の作った人形で影絵をする。時に子どもたちの影も映る。客席には子どもたちの家族や、大人になった絵画教室の卒業生たちも集まり、公演後のパーティは、世代を超えた地域コミュニティの感があった。「表現コミュニケーション」の構想の背景には、この絵画教室の実践による裏づけがあったのだろう。この絵画教室は、いまでも奥さんの手で続けられている。
 「表現コミュニケーション」の構想は、きわめて鮮やかな反面、余りに広い領域の問題を含んでいるために、実を結ぶのに時間がかかりそうだった。だが、講師の方々の協力も得て、「庭プロジェクト」「都電で展覧会」などいくつかの興味深いプロジェクトを行い、実績も残しつつあった。
 自らが癌であることを知ったとき、彼は軌道修正を計った。鮮やかな直感に依拠した未知の構想では、後に続くものが困惑すると思ったのだろう。このコースを現代美術寄りのコースにするという方針を打ち出した。新しさを失わずカリキュラムも考え易い堅実な路線である。
 未知の構想は道半ばで断念せざるを得なかった。悔しかっただろう。
 彼とこの構想を共有した何人かの学生たちがいる。もちろん彼らや彼女らに、彼の構想を受け継ぐべき義務などない。義務などないが、彼の蒔いた種が芽を吹くかもしれない。あるいは、種はまったく違った花を咲かせるかもしれない。
 彼の死を知ったとき、私はもっとこの構想のことを話しておくべきだったと悔やんだ。彼は私の中にも種を蒔いた。というよりずっと以前に芽吹いたまま成長の止まっていた芽を、そっと揺り動かした。おとといワークショップについて書いたが、私もアートがいわゆる表現とはちがった形で人々に働きかける力があるとずっと思っている。その実践にも興味がある。ただ、余りにも問題領域が広いため、呆然とせざるを得ない。彼はその実現のために船を出した。私はそれを横目で見て、シカトするフリをしながら注目していた。
 『ゴーン・アゲイン』は死者を弔いながら、死者を今に生き続けさせようとするアルバムだ。死とその背後にある時間や歴史や忘却と抗い、記憶の中で死者の魂と共生しようとする。
 明日、その男のアトリエでお別れ会がある。このCDを彼に供えよう。そういえば、彼の奥さんはパティ・スミスにちょっと似ている。
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