2008年05月31日

相倉久人さんの『重力の復権』

 相倉久人さんのパフォーマンスジョッキー『重量の復権』が、きのう行われた。会場は、中野富士見町のライブスペースPLAN−B。
 相倉久人さんは、音楽を中心にさまざまなジャンルの批評をされている評論家である。
 PLAN−Bは、1982年に多くのアーティストのみならずアートやライブ表現に関心のある人が集まって設立したライブスペースだ。僕もその一員だった。PLAN−Bの設立には、踊り、音楽といった特定のジャンルのスペースではなく、ジャンルを横断しアートをより広い視野でとらえ直し、実践しようという目論見があった。そこで、さまざまなジャンルのアーティスト、批評家、学者の方々からも、アドバイザーとしてご意見を頂戴した。相倉久人さんもそのお一人である。 
 相倉さんにはいくつかのシンポジウムにもご参加いただいた。相倉さんの発言は、いつも刺激的だった。そこで、アドバイザーという枠を超えパフォーマーとしてのご登場をお願いをすることとなり、僕が担当することになった。
 1983年の5月20日、『相倉久人パフォーマンス・ジョッキー 重力の復権』第1回目が開催された。以来ほぼ毎月、今日に至るまでこの企画は続いている。
 僕自身、PLAN−Bでさまざまな企画を立案実行し、自分のパフォーマンスを行ってきたが、ここしばらくそういった活動はしていない。だが、相倉さんのパフォーマンスジョッキーはずっと担当し続けている。自分がパフォーマンスをせず、相倉さんのサポートだけをしているのは心苦しいのだが、毎月相倉さんのお話を聞けることは大変な刺激だ。
 相倉さんは50年代からジャズを出発点に、演劇、映画、ロックの現場で活動し、思考してきた方なので運動感覚が強い。高みから批評するだけの評論家とはわけが違う。この、現場性と運動感覚に裏打ちされた視野の広さと思考の柔軟性は、『重力の復権』でも遺憾なく発揮されている。されているのだが、相倉さんの語り口があまりにもサラッとしているので、うっかりすると聞き流してしまいそうになる。ものすごく刺激的なことを、まるでどこそこのラーメンがうまかったという話のようにサラッと喋る。もっとも相倉さんは、ラーメンに限らず、食べ物の話はほとんどしない。あくまで譬えである。
 さらには、いろいろのジャンルの話題が縦横無尽に飛び交う。きのうも、アニメ、源氏物語、バレエ、翻訳の問題、ハムレット、デヴィッド・ボウイ、ピーター・パン、映像と音楽などなど、トークのフリー・インプロヴィゼーション。
 PLAN−Bが掲げたジャンルの横断性といったねらいを、まさに体現している。
 さて、『相倉久人パフォーマンス・ジョッキー 重力の復権』、来月は6月25日水曜日、19時30分より、会場PLAN−Bの詳細は下記PLAN−Bのサイトからご覧ください。
http://www.i10x.com/planb/
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2008年05月30日

吉村公三郎『源氏物語』の空間感覚

 仕事の関係で、『源氏物語』が絵画や映画などの視覚芸術でどう表現されてきたかを調べている。きのうは、吉村公三郎の『源氏物語』を見た。近所のビデオショップにDVDはなくVHSを借りてきた。
 ところどころ、はっとするような空間感覚に出会う。なつかしいというか、すっかり忘れていたような身体的な感覚である。一度見ただけなので、具体的にシーンを示し説明することができない。今ここでは、思いつく言葉で当たりをつけておくに留めよう。
 舞台は平安時代の宮中あるいは家屋。ヨーロッパや現在の日本の家屋とちがい、建物の内部に壁が少ない。すだれや垂れ下がった紗といった曖昧なパーテーションで空間が区切られている。極端な場合、柱と梁といった枠だけが、境界を示す。
 光源氏はそういった空間を、あるときはひっそりと、あるときは堂々と通過し、女の下へ通う。
 内と外が開かれているようで、閉じられている。カメラはそういった空間内の視線や心のやり取りを繊細に映し出す。
 たとえば、源氏の顔の後ろに見えるすだれ越しの風景のボケ味。 
 絵巻物を意識してか、カメラが上手斜め上から舞台や人物をねらうショットがいくつか散見される。もっともこのアングルは、絵巻物というより、単に映画的なもののようにも感じられる。ただし、上からねらうときのカメラの高さがあまり高くない。 
 また、道路を移動するカメラが、塀の少し上から屋敷の中をのぞき見るようなショットがあった。背の高い人なら、実際こう見えるだろというような映像である。極端なカメラワークは避けられ、身体的な空間感覚の延長上にカメラは据えられているように思う。
 現在の私たちの居住空間では忘れられたが、かつてみんなが持っていた空間感覚である。
 意図的なものなのか、時代がなせる業なのか。たぶん両方だろう。時代といっても作られたのは1951年である。平安時代ではない。映画という近代テクノロジーによって平安時代を描こうと、考えられたさまざまな意図が働いているのは当然だろう。また、当時のフィルムや機材の特性も関係しているように思う。同じようなカメラ位置や露出や照明で撮っても、現行のフィルムやハイビジョンではこうは撮れないような気がする。ハッキリ映り、細部の曖昧さに潜む空間感覚が消滅してしまうのではないか。
 蛇足かもしれないが、DVDではなくVHSというのも私の鑑賞体験には幾分影響していたかもしれない。
 
 今のところ思いつきの覚書なのでこの辺にしておくが、他の源氏ものとも見比べてみたい。
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2008年05月29日

日記と幻影

 先日のあがたさんや鈴木さんの映画を見て以来だろうか、日記鞄という言葉が頭に浮かび、ずっと離れない。なんだか分からないのだが、とにかく浮かんだのだ。 
 仕方がないので、自分で解釈してみよう。日記の詰まった鞄。あるいは日記が鞄になっている。それを持ち歩く。
 生まれてからその日までの日記が詰まった鞄を持ってあちこち旅をしながら移り住むような放浪の人生を想像してみる。たとえば、フーテンの寅さんは日記をつけていたのだろうか。つけていたとしても、それまでの生涯の日記すべてを持ち歩いてはいなかったろう。
 タオルやパンツや歯ブラシに混じって日記帳が入っている鞄は旅行鞄である。だが、私の頭の中にあるのは日記鞄なのだ。
机の上に目をやる。黒革のシステム手帳が目に入った。こいつが巨大化したら日記鞄になりそうだ。私は日記に関しては三日坊主をなんどもくりかえしている。だが、システム手帳はメモやスケジュールなどに愛用していて、毎日開き何か書き付けている。
 日記をつけることは長続きしないのに、日記という言葉は好きである。私的な記録というものには強く惹かれるのだろう。歴史は権力の物語であり、日記は個人の物語を記すものだから。生涯の日記を持って放浪する人生というのは、自己同一性の幻影かもしれない。
 でも、なんか重たいなあ。日記帳が重たいのではない。過去を背負っているようで、精神的に重ったるい。
 ブルルルル…、ブルルルル…、携帯がなっている。
 そうか、携帯だ!
 いまなら一生分の日記でも電子化してサーバーの中に保管しておける。携帯やパソコンがあれば、日記を持ち歩かなくとも、日々書き込み、必要に応じて読むことができる。持ち歩くのと同じことが、持ち歩かずにできるのだ。軽いじゃん。精神的にも。
 ブログと携帯電話やパソコンは仮想の日記鞄だ。
 だが、一つ心配がある。電子化されたデータは一瞬にして消えるかもしれない。
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2008年05月28日

柏餅

 道端に柏餅が落ちていた。何でこんなところに、と革靴のつま先でつついてみた。固い。蝋細工だ。誰が、どんな事情でここに落としたのだろう。
 その瞬間、フラッシュバックが起きた。
 柱の傷はおととしの、いや、今年の子供の日のことである。
 突然おふくろが言いだした。
 「きょうは子供の日だけど柏餅買わなくていいかね」
 「えっ、子供いないけど」
 「考えてみたらお前も私の子供だし、男だから」
 「………子供の日って、そういう意味じゃないでしょ」
 子供の日は、50代のおっさんを子供として祝う祭日ではない。母の日は子と母がいくつになっても同じ意味を持つ、続柄としての母に感謝する日だ。だが、子供の日は続柄としての子供を祝う日ではないだろう。
 もともとは男の子の成長を祝う日だった端午の節句。蓬を軒に挿し、菖蒲湯に入り、鯉幟を上げ、柏餅を食う。だが、あくまで男の子であっておっさんの成長まで祝うことは無かったはずだ。そんなことを言ったら、三月三日にはお雛様を飾って桜餅を食い、83歳のお袋の成長を祝わなくてはならない。
 だいいち俺は糖尿病だ。柏餅は寿命を縮める。
 「いらないよ、体に悪いし」
 「それもあって、相談したんだけどね」
おふくろはちょっと残念そうにこういった。そうか、おふくろにしてみれば俺はいくつになっても子供なんだな、と柄にも無く遠くを見つめそうになったその時……。
 「じゃ、わたし食べたいから一人分だけ買って来るね」
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2008年05月27日

ハイビジョンカメラと記憶喪失

 学生が家庭用のハイビジョンビデオカメラを持ってきた。
 ところがカメラの映像が、コンピュータに取り込めない。
 コンピュータにつなぐIEEEケーブルの入り口が見当たらない。USBの入り口はあるのでつないでみてたが、取り込めない。データを記録しているSDカードを取り出し、カードリーダーをつないでもだめ。
 調べてみると、ハイビジョンビデオカメラでは、テレビとつなぐときはHDMIミニ端子、コンポーネント端子あるいは従来の映像・音声信号の端子で、パソコンとつなぐときはUSBということらしい。これまで使われていたIEEE(ファイヤーワイヤー/iリンク)の端子はないカメラもあることを初めて知る。
 というとややこしいが、つまり今まで使っていた線は使えず、違う線を使わないといけないという本当にややこしい話だ。
 カメラに付属している専用ソフトを使えば、コンピュータへの取り込みや簡単な編集ができるが、複雑な編集はできない。
 今の学校の設備を導入した時、ハイビジョンは無視していた。過渡期なので。だが、2011年も近づき、これから学生がカメラを買うとなると、当然ハイビジョンになる。もう対応を考えないといけないときが来ているのだ。もちろん、しばらくは現行のフォーマットも使えないと困る。現行フォーマットがいつまで使えるかも重大な問題である。
 ああ…、データのやり取り等、煩雑な事が増えそうだ。創造性教育とはまったく関係がない。また、学校の機材をすべてハイビジョン対応に切り替えると莫大な金がかかる。
 ベータ、VHS、8ミリビデオ、その前にVHS−Cというのもあった。そしてミニDV。業務機でいえば、Uマチック、Mフォーマット、ベータカム、ベータカムSP、DVCプロ、DVカム、記録のフォーマットが現れては消えた。
 こういったことは、2011年が過ぎれば収まるのだろうか。たぶん収まらないだろう。
 先日のフィルムによる映像の保管の問題とも絡むが、記録フォーマットが変わり、過去のテープが再生機がなくて再生できなくなるという事態は文化的な記憶喪失である。

 学生が持ってきたハイビジョンビデオカメラという玉手箱のおかげで、私は浦島太郎になったような気分である。
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2008年05月26日

コピー&ペーストの呪文

 今日もまた新聞ネタだが、金沢工業大学の教授が、「コピペ」を見抜くソフトを開発したという記事が朝日新聞の朝刊に載っていた。面白い。
 学生のレポートなどで、コピー&ペーストが横行し教育現場で問題になっているということは、以前にも新聞で話題になっていた。この教授も学生のレポートを読んでいて、2人の学生の文章が似ているのでネットで検索し、あるブログからのコピー&ペーストであることを発見したことから、このソフトの開発に乗り出したという。
 記事によると、「文章を単語や文節に分解」し、「ネット検索し」て出典を探し出すソフトだという。これはいわば、編集作業を逆に辿るわけで、そのプロセスを想像するだけで刺激的だ。安易なコピー&ペーストの発見にとどまるようなソフトであれば問題はない。うんと高度な脚色や編集作業によって作られた文章を、どこまで逆に辿ることができるだろうか。それができればできるほど、迷路に入り込んでいくような気がする。想像するだけでワクワクする。
 言葉を喋ったり書いたりすることは、100パーセントオリジナルということはありえない。単語や慣用句はもちろん、遠い記憶であっても誰かの言い回しやどこかで読んだ言い回しをコピー&ペーストしている可能性はある。完全に独創的な言語体系は誰にも通じない。
 これまで書かれた万巻の書物がすべてネット上にアップロードされていたとして、ある文章を入力するとそのルーツを探り始める。出てきた結果はその文章を書いた本人の、まったく覚えのないものかもしれない。
 このソフトを使って悪戯すると言語のマニエリスティックな時空間が広がってくるかもしれない。
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2008年05月25日

フジカシングル8とフィルム文化

 きのうから雨がふり昼にはやんだが、一日中曇りで時々小雨がぱらついた。だが、夕方総武線が荒川の鉄橋を渡るとき、きれいな夕焼けが見えた。
 若く才能ある友人が映画を撮るというので、早朝から撮影に付き合うつもりだったのだが、あいにく中止となった。8ミリフィルムで撮り、自家現像するという。8ミリといっても一昔前の8ミリビデオではない。それよりずっと古い、8ミリフィルムである。だが、8ミリビデオは過去のメディアだといえるが、8ミリフィルムはかけがえのない現役のメディアである。
 ハイビジョンが使いやすく手ごろになりキネコの精度が上がるまでは、映画といえばフィルムだった。そのもう少し前、家庭用のビデオカメラが普及するまでは、運動会や子どもの成長記録など動画で記録しようと思ったら8ミリフィルムだった。そして、8ミリフィルムはホームムービーだけでなく、自主映画のメディアだった。今活躍中の映画監督の多くが8ミリの自主映画出身だ。
 では、8ミリは35ミリで撮れない若者がその代用として使ったメディアにすぎないかというとそうではない。8ミリカメラの機動性や、フィルムの独特の画質に注目し、8ミリにしかできない独自の表現を切り開いた実験映画、個人映画の作家たちがいる。
 それらに優劣をつけるのではなく、ホームムービー、劇映画、実験映画、といった目的も規模も違うジャンルが8ミリというメディアを共有したところが重要である。
 8ミリには、16ミリを裁断したダブル8、コダックのスーパー8、富士フイルムのフジカシングル8と、3つのフォーマットがある。それぞれに機能や画質の特徴があり、できることも多少違ってくる。フジカシングル8は日本独自のフォーマットである。
 2006年に富士写真フイルム工業(現、富士フイルム工業)が、シングル8の生産および現像サービスの中止を発表した。友人の呼びかけで映像作家や批評家が集まり「フィルム文化を存続させる会」を発足、私もその一員として活動した。私たちの交渉だけでなく、多くのユーザーからの声もあったのであろう。結果的に、去年の1月に富士フイルムから、フィルムの販売と現像は数年延長するという発表があった。だが、生産そのものは中止であることに変わりない。
 私たちが会の名称を「シングル8を存続させる会」ではなく「フィルム文化を存続させる会」にしたのは、銀塩写真を含め、メディアとしてのフィルムがデジタルに押されて、産業的には消滅してしまうのではないかという危機感からだった。
 そんななか、きのう(5月24日)の朝日新聞の夕刊に映画史家で東京国立近代美術館フィルムセンター主観の岡島尚志さんという方が『映画、フィルムで保存を/万能でないデジタル』という記事をお書きになっていた。内容は国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)の70周年記念年次会議で行われた「映画フィルムを保管し続けること」に関する議論の報告である。デジタル化した後もフィルムは保管すべきであるということだ。記事の中ではFIAFがまとめようとしている「70周年記念マニフェスト」の素案も紹介され、保管すべき理由も書かれている。やや長いので、私なりに言い換えて要約すると@フィルムは文化財である。Aフィルムには目に見える画が記録されているので簡単に元の情報を読み取り複製することができる。Bフィルムは保管条件がよければ100年以上保存できることが実証済みである。Cデジタル時代には簡単にコンテンツの改変がなされる可能性があるので元の状態を知るためにもフィルムを保管する必要がある。ということになる。
 多くの部分が「フィルム文化を存続させる会」のでの議論とも重なり、意を強くした。私たちが重視したのはフィルムは物質であり、デジタルは記号であるという点だ。物質で描かれた絵と記号で描かれた絵では感じるものが違う。また、記録メディアとしてもフィルムはストック型のメディアだが、デジタルはフロー型のメディアということになる。
 0と1の記号で描かれた絵はデータであり再生機という翻訳機がないと読みとれない。物質で描かれた絵は肉眼で読みとれるし、光源とレンズという簡単な装置があれば増幅できる。
 フィルムの重要性が広く議論され認識されて欲しい。
 DVDはロゼッタストーンに及ばず。???
   
フィルム文化を存続させる会http://filmmover.exblog.jp/
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2008年05月24日

創形美術学校『GOOD STAFF展』が終わる

 創形美術学校でおこなわれていた教職員のグループ展『GOOD STAFF展』が今日終わる。以前にもふれたが、この学校は僕の母校であり勤務先でもある。
 創形の入口はガレリオプントというギャラリーになっている。ここではいつも、卒業生や講師、地域の作家、地域の小学生の作品、学校のコレクション、招待作家の展覧会などが開かれ、通りがかりの人も鑑賞できるようになっている。
 小さな学校だが、入口がギャラリーというのが素敵だ。
 そして、創形の職員は講師はもちろん事務局長も受付嬢も事務職員も副手も、みんなみんなアーティストばかり。新入生へそんな職員を紹介するための展覧会だ。
 作品もイラストレーションあり、オブジェあり、版画あり、油絵あり、映像あり、とさまざまだ。非常勤講師の私も最新作の『殻騒ぎ』(ビデオ、6分)を出品した。
 ふだん顔を合わせている同僚の作品をじっくりと見るのは愉しい。授業をしている講師だけでなく、学生の面倒を見たり、給料や経費の計算をしたりしている人たちが、実はアーティストなのだ。みんな作品は真剣だ。学校のスタッフとして同僚なだけではなく、アーティストとして仲間なのだ。
 作品そのものから感じる豊かさと同時に、その人が学校で見せている顔と作家としての顔の間の幅から感じる豊かさ、人間としての豊かさを味わうことができた。
 そのことは、学生にも伝わったようだ。
 僕も学生時代、先生の作品を見たり、助手の先輩の作品を見ることで、美術館や美術史の教科書からは学べない芸術の在り方、人が生きて行くうえでアートがいかに大切か、いかに生きる原動力になっているか、なぜ表現するのかを学んだように思う。
 先生に反発を感じながら作品には惹かれたり、人柄には惹かれながら作品には反発を感じたり、もちろん両方に惹かれたり。作品は記憶に残り、自分の中での感じ方や評価は長い年月の中で変化し、身近な基準となった。
 学校というものに存在価値があるとしたらたら、学校というシステムをはみ出す部分においてだろう。
そんな、あたりまえだが複雑な豊かさに満ちた展覧会だった。

出品者
飯田 淳/山田隆志/パルコ木下 /大沼正昭/小山愛人/宇治野宗輝/新川貴詩/鹿島 寛/工藤礼二郎/黒川芳信/佐藤三千彦/高橋輝夫/古谷博子/松田幸三/八木なぎさ/奥野正人/田村和稔/松田智明/杉山綱/大橋恵介/片山芙美/長嶋一孝/木村将人/鈴木吐志哉/相澤一貴/柴田真弓/上園美和


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2008年05月23日

『All Together Now』って何の歌

 今日は高校で映像制作の授業。
 いま取り組んでいる課題はビートルズの『オール トゥゲザー・ナウ』をモティーフに映像を作るというもの。当然、著作権の問題があるので、出来た作品は学外に発表せず授業の中で鑑賞するのみだ。
 曲を聞き、歌詞を読みそこからイメージを膨らませてゆく。専門学校の授業でも、僕はこの曲をよく使う。理由は曲のテンポがよく、歌詞が言葉遊びで、はっきりしたメッセージ、ストーリー、視覚的イメージがないからだ。これがたとえば『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』のように強烈な視覚的イメージがある曲だと、それに引きずられてどことなく似たような作品が生まれてくる。ところが、この曲でいままで20本以上の作品を作らせたが、同じような作品は一本もない。
 歌詞は「1,2,3,4」「A,B,C,D」「black,white,greeb,red」と数字、文字、色を羅列したり、「ボンボンボン」という掛け声の合間に「sail the ship(船を出そう)」「skip the rope(なわ飛びしよう)」「I love you」などの言葉が、これといった脈絡もなくちりばめられている。そして「all together now(みんないっしょ)」というリフレインが何度も繰り返される。
 発表当時は当然「ラブ&ピース」という気分で聞いてはいたが、同時期の『オール・ユー・ニード・イズ・ラブ』のような明快なメッセージソングとはちがい、遊び心に満ちた童謡のような楽しい曲だ。
 あるグループは、海賊船の上で海賊たちがパーティーを始めるというアニメーションを作り始めた。また、あるグループはいろいろな人の顔をリズミカルに登場させ、次第に人数が増えていくというコンセプトがまとまった。
 ところが、あるグループの目茶目茶明るい女の子が突然こう言った。
 「これ、引きこもりで友達いない子の歌じゃないの」

 いまどきの子は、と言う気はない。僕もいまどきのオヤジだから。
 しかし、この歌を聴いて今までそんなイメージは一度も持ったことがなかった。少なくとも内向きの歌ではなく外向きの歌として聞いていた。だが、考えてみればビートルズもそういった感情と無関係ではない。『オール・トゥゲザー・ナウ』が『エリナー・リグビー』の心のうちを歌った歌といった解釈も可能だ。
 歌は世につれ、世は歌につれというが、明るいポップスが時代によってクルクルと表情を変えて聞こえてくることだってある。
 それを教えてくれたあの生徒は、万華鏡の目の少女……のわけではない。
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2008年05月22日

あがた森魚さんと鈴木志郎康さんの映画

 近所で、だだっ広い畑につぎつぎと集合住宅を建てている。今日は2階建のアパートの3棟目が建てられた。最終的には9階建てのマンションも建ち、景観が一変するはずだ。変化する風景を、デジカメで毎日定点観測的に撮影している。 
 日々変化する風景を撮影しながら、ゴールデンウィークに新宿のパークタワーホールで開催された実験映像の祭典『イメージフォーラムフェスティバル』で見た3本の作品を思い出した。
 あがた森魚さんの『もっちょむぱあぷるへいず』(38分)、『うすけしぱあぷるへいず』(60分)という2本の作品と、鈴木志郎康さんの『極私的にコアの花たち』(ビデオ・50分)という作品だ。
 あがた森魚さんの2本はあがたさん自身がハンディカメラを持って毎日撮り続けた映像を、若手映像作家が編集し完成させた作品である。『もっちょむ〜』は岡本和樹さん、『うすけし〜』は中縞信太郎さんが編集を担当し共同監督としてノミネートされている。毎月1本の作品にまとめ、DVDにしてライブの時に配る、ということが1年以上続いているというから驚きだ。
 鈴木志郎康さんの作品は、自宅の庭を一年にわたり毎日撮り続けたもの。さまざまな花が咲き、枯れてゆく。こちらもカメラはハンディでかなり自由なカメラワークだ。毎日数分ずつに編集され、私たちは365日の変化を見届けることになる。場所を庭に限定し時の流れを浮かび上がらせる。撮影テープは10時間ほどあり、本当はそれを全部見るといいんだよね、と鈴木さんは語っていた。 
  2人の作品には違いもあるが、長時間の撮りっぱなしで可能な限り何かを記録しようという強い意志が働いている点では共通している。単に映像を記録しようとしているのではない。それ以上の何かを記録しようとしている。
 カメラの小型化と記憶容量の増大が、映像や記録というもの、そして生というものを変質させるかもしれないということを最近時々考えるのだが、この3本の作品はそういった変質をリアルに予感させるものだった。
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2008年05月21日

都丸志帆美展を見た

 
 先日、北沢の 現代HEIGHTS Gallely DEN というカフェ・ギャラリーへ、都丸志帆美さんの絵画展をへ見に行った。
 彼女の絵は雑に描き飛ばしたように見えて、よく見ると丁寧に描かれている。人物や街をモティーフにトボけた感じをかもし出しているが、話を聞くと意外と深い。
 街の風景といっても写実的ではない。電気のコードがグニャグニャうねっている先に、コードに沿ってビルがニョキニョキ建っている。都市のイメージだ。
 妊婦さんと、赤ちゃんを抱いた母親を描いた二枚の絵がひとつの額の中に並べてあり、その周りに「1 2 1 2」「3 6 5 4」と数字がちりばめてある。
 「あの数字は何なの」と聞くと、カレンダーのように時が過ぎてゆくことや、人間が数字で表現されることが多いことから、数字がというものが気になっているのだという。いろいろな意味があるのだ。そういえば、クレジットカードの会員番号や、電話番号、はては住基ネットの住民票コードなどと、人間を数字で表現することは多い。この指摘はちょっとドキッとする。そう思って改めてみると、二枚の絵のうち母子像だけビニールにパックされていることも、いろいろ解釈できる。
 
 このように、現代社会や人間への彼女の感じ方やイメージが絵画化されているのだが、単なる、あるいは大上段に振りかぶった文明批評ではない。言葉になったメッセージでもない。 
 自動車に乗ったでっかい顔のおばあさんの絵があった。同じおばあさんは前回の個展のときにも描かれていた。モデルがいるのか聞くと、亡くなった祖母だそうだ。車好きで、いつも乗り回していたという。愛情に満ちた眼差しで描かれている。
 おばあさんを見つめるのと同じ眼差しがとらえた人間や都市のイメージなので、単純なメッセージではなく、見ながらいろいろ想像したり感じたりできるのだ。
 ところで、彼女の夫君は美術とはまったく縁のない方らしいのだが、彼女が絵を描く理由に興味を持ち、理解しようとしているところが印象的だった。素敵なだんなさまである。
 言葉にならない衝動こそが、アートを作り出してきたのだとしたら、なぜ描くのかという彼の疑問はもっともであり、本質的な問いでもある。


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2008年05月20日

バイノーラル録音のできるウォークマンを思い出した

台風が来ている。
早朝、まだ暗いうちに風呂にはいる。
窓の外、雨音が聞こえる。電気を消してみる。
近くでぴちゃぴちゃはねる音。右、左、右、右、真ん中、左とあちこちから聞こえてくる。
ぴちゃん、ぴちゃぴちゃん、ぴちゃぴちゃぴちん、
音がゆれ、重なり、分かれ、遠ざかり、近づき、暗闇の中、音が点になり、線になる。
ザーーーー。
遠くで雨音が霧の様に立ち込める。その霧の中から、時々鮮明なしずくの単音が聞こえてくる。腕を動かすと自分が入っている湯船が水音を立てる。ドリフの歌では内が、天井からポタリとしずくが落ちる。
雨音と浴室の水音が織り成すサウンドスケープを味わいながら、そういえば昔バイノーラル録音・再生ができるをウォークマンを持っていたことを思い出した。

バイノーラル録音・再生というのは、簡単にいうと人間の両耳の位置にマイクを仕掛けて録音し、その音を専用のイヤホンを使い両耳で聞くシステムである。マイクとイヤホンの位置が耳と同じなので、現実に音を聞いているときの距離感や立体感が得られるというわけだ。音響工学的には高価で厳密なシステムが必要なのだが、僕が持っていたのはウォークマンのヘッドホンの両耳のところに小さなマイクがついている簡単な代物。ケーブルは二本でヘッドホン端子とマイク端子とがついている。ウォークマンは録音できるタイプで、ヘッドホン端子とマイク端子が入ればよく、専用である必要は無い。このヘッドホンが重要だったのだ。
通勤の途中などよく録音し遊んだ。通り過ぎる車の音、歩くにしたがって川の音が近づき遠ざかっていくようす、横切る人の話し声、カラスの声、頭上で蜂の飛ぶ音など現実の音空間がステレオでデフォルメされて聞こえてくる。夜、部屋でヘッドホンをして朝に駅へ向かう道のりの音を再生すると、鮮やかにそのときの光景が蘇ってくる。
友人勧めると、すっかりはまってしまい「つまらない人生が二度楽しめる」と喜んでいた。


残念ながら肝心のヘッドホンが壊れそれっきりだ。
また試してみたいな。どこかに売ってないかな。


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2008年05月19日

モンブランズを見た

 すでにきのうのことになるが、モンブランズの単独ライブ『さぞかしFANTASY』を見た。面白かった。
 モンブランズは相澤一貴と木多大介の2人組みお笑いユニット。2人組みだが漫才ではない。不思議なコントをつぎつぎと繰り出す。単独ライブは3回めとまだまだ新人だが、僕はこれからの活躍を期待している。
 実はこの2人、僕の母校であり勤務先でもある創形美術学校の卒業生だ。といっても僕が教え始めた頃は2人とも卒業していたので、教え子ではない。だが、相澤君は現在、創形のマックルームのスタッフとして働いているし、木多君もかつて副手として働いていて、僕の授業のサポートをしてもらったこともある。
 2人ともデザインを学んでいるので、コントにもアート感覚があふれている。今回は、真っ暗な中での「くらい」「どのくらいくらい」という言葉遊びに始まり、メルヘン国の話や、ティッシュというスポーツコント、地球と太陽の掛け合い漫才など面白いネタがたくさんあった。つぎつぎと予想外の展開をしていくところが魅力だ。
 アート感覚にあふれていることが狭い範囲でのウケ、狭い魅力に終わらず、より大きな笑いに変化していくさまを見せて欲しい。それを期待してもよさそうなユニットであり、今後が楽しみだ。
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posted by 黒川芳朱 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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