以前にNHKが放送した『赤ちゃん 〜成長の不思議な道のり〜』(NHKスペシャル)という番組の中で、興味深い実験が紹介されていた。赤ちゃんが、どれだけ正確に顔を見分けているのかを調べる実験である。
椅子に座り眼の前のモニターを見る。モニターに男の顔が写る。しばらくして別の男の顔があらわれ、前の顔と左右に並ぶ。このとき、視線はどこに集中するか。次に一匹の猿の顔が現れる。しばらくするともう一匹猿が現れ、二匹が左右に並ぶ。このとき、視線はどこに集中するか。これを、生後半年ほどの赤ちゃんと大人で実験する。
対象が人間の場合、視線は二人の顔の上を行き来するが、新しい男の方に長くとどまる。これは、大人も赤ちゃんも同じだった。つまり、赤ちゃんは大人と同じように二人の顔を識別しているのだ。
次に猿の写真を見せたときはどうだろうか。大人は二匹の猿を同じように見る。区別している様子がない。ところが赤ちゃんは、人間の顔のときと同じように新しい顔に集中し、二匹の猿の顔を識別しているのだ。大人の被験者はインタビューに答え、「猿はどちらも同じ」「サルのほうが区別しずらい」と答えている。
大人は猿とわかった段階で興味を半減させているのに対し、赤ちゃんは人の顔と同じように注意深く観察しているのだ。大人は猿という概念によって、見る対象としての興味を失ってしまう。赤ちゃんは見ることへの欲求が持続する。
実験を行ったイギリスの心理学者オリビエ・パスカリスは、猿の顔を見分けることにおいては、大人より赤ちゃんの方が勝っている、眼が二つ口と鼻が二つの顔ならどんな顔でも赤ちゃんは見分けるだろうと結論付けている。ブラッケージが語る「ものの名前にただ反応するのではなく、生の中で出会うものたちを視覚の冒険を通して知っていく眼」だ。
この優れた識別能力はいつごろから大人のように劣ってしまうのだろうか。幼年期の終わり、学校に上がる頃だろうか。番組では衝撃的なデータを紹介していた。それよりずっと早く、生後9ヶ月を過ぎると、猿の顔ひとつひとつの識別が曖昧になってくるのである。
赤ちゃんの成長過程では、認知能力や運動能力が必ずしも右肩上がりで成長するのではなく、一度後退することがしばしばあるという。番組ではこれを、「できることをいったん減らして、新たな飛躍にそなえる」と解説していた。
それにしても、生後九ヶ月とはなんと早い時期に、「視覚の冒険を通して知っていく眼」は失われてしまうのだろう。
比較行動学者正高信男の『子どもはことばをからだで覚える』(中公新書)という本の中にも、九ヶ月という数字が出てくる。これは、生まれたばかりの赤ん坊がどのようにして言葉を習得するのかを描き出す、実に刺激的な本である。ブラッケージがいうところの「緑色なんて知らずに這っている赤ん坊」が、ものの名前を覚えるプロセスが明らかにされるのだ。
正高は、われわれが赤ちゃんのとき、「周囲から入力される情報は最初、メロディとしてやってくる」という。そのメロディから特定の音素の組み合わせを切り出し、記憶する。語彙の記憶である。いったん語彙の記憶ができ、あとからそれを喋るようになる。そして語彙の記憶が生まれると、メロディには注意を払わなくなる。その時期がちょうど生後九ヶ月だというのだ。
素人考えは避けるべきだろうが、生後九ヶ月という時期に、どうしても因果関係を詮索したくなるような二つの出来事が起きている。一方で、メロディという流れから語彙を切り出し流れは捨てる。もう一方で、猿の顔の識別が曖昧になる。これは、人間と猿という分類が、赤ちゃんの中で生まれたことを意味するのだろうか。
一般論として、人間のものの見方が感覚を通した詳細な観察から、概念的な把握へ移行するということはいえる。そして、概念(言葉)の誕生の背後には非常に豊かな感覚体験があったのだということも。
これらの事例を引くことによって、私はブラッケージの正しさを実証しようとしたわけではない。
何度もくりかえすが、『幼年期の情景』は言葉を知らない時期、言葉を覚え始める時期、言葉を覚えた時期の人間の知覚や認識を映画で再現しようとした映画といえるだろう。ブラッケージ自身が「胎児、赤ん坊、子供の内的世界の視覚化」と言っている。
ブラッケージがなぜ言葉以前の世界にこだわるのか、言葉と感覚についてどう考えていたのか。そのことを考える手がかりをつかみたいがために、これらの事例を引いたのだ。
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