チャン・イーモウ演出によるセレモニーというかパフォーマンスというか何というんだかわからないが、選手入場以前の部分を見て不思議な気分になってきた。
ライブパフォーマンスなのだが、まるでインフェルノやフレームで作られた映像を見ているような感覚になってくる。
紙、筆、墨、活版印刷と中国が生んだ発明品からはじまり、メディアと文明の歴史を辿りながら、モノクロから極彩色の世界へとパフォーマンスは展開してゆく。
何より舌を巻いたのは、ダンスや音楽、ヴォーカリゼーションなどのライブパフォーマンスとセットと映像がシンクロするように、緻密に構成されている点だ。
会場となっている鳥の巣の中心に巨大な巻物が現れ、その上で様々なパフォーマンスが行われる。ダンサーが自分の体を筆に床面に線を引くような動きをすると、動きに添って巻物の上に線が描かれる。巻物が絵画のように埋め尽くされ、やがてゆっくり消えてゆく。
パフォーマンスとセットがシンクロしているだけならば、この不思議な感覚は生まれないだろう。そういったものは過去にもたくさんある。映像がシンクロしていることが、この不思議な感覚を生み出している。
映像は、ついこの間までは、あくまで実体とは別に映すしかできなかったのが、少なくとも国家予算をかけたイベントでは、実体と同等の存在感で映すことが可能になった。実体と映像の境界が曖昧になったことで、実態から映像へ、映像から実体への転移が楽になった。イリュージョンを生み出しやすくなったのだ。
ところでひとつ気になったことがある。開会式をテレビで見ながら、ライブパフォーマンスを見ているのではなく、プログラムを見ているような気になってくるのだ。パフォーマンスが何かに向かって開かれているのではなく、閉じているような感じが強いのだ。
これは、CGを使った映画でも同じだ。最近のハリウッド映画もそうだ。
そして、その結果逆転現象も起こしている。以前、東京都写真美術館に展覧会を見に行ったら、たまたま古い友人の森岡祥倫君にばったり会い、今からレクチャーをするから聞いていけというので、聞いたことがある。そのとき彼が紹介していた作品に、『ピタゴラ装置』のように動きが連鎖して、つながっていく海外の乾電池のCMがあった。そのとき森岡君は「これを見て、CGだと思ってしまったけれど、実写でした。動きがうまく連鎖せず、何度も撮り直しをしたそうです」と言っていた。印象的だったのは「これを見てうまくできてるからCGだと思ってしまう感性ってだめですね」という言葉だった。
一生懸命実写でやっても、うまくできてるからCGだと思ってしまう感性。その辺の危うい問題が、2次元の映像の問題だけではなく、立体的な3次元空間の問題としも浮上しつつある。
オリンピックの開会式を見て、そんなことを考えた。本当は、もっといろいろ分析し、じっくり論じてみたいが、きょうのところはここまで。

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