2008年10月25日

道具の一生

 「いまは、もう、動かない、おじいさんの、時計」。
 古くなった道具には、独特の魅力がある。
 よく古道具屋やフリーマーケットで、動かなくなった時計やカメラなどをアンティークな置物、ディスプレイとして売っている。もちろん値は安いが、それでも買う人はいる。動かないくせにあまり大きなものは邪魔になるが、テーブルの上に置けたり壁にかけられる程度の大きさの物は装飾品になりうる。
 電化製品になるとちょっと怪しくなる。古くなった洗濯機、冷蔵庫、ステレオ、うんと古くてよほどデザインに魅力があればともかく、古いだけでは魅力がない。
 冷蔵庫は、棚代わりにはなる。古いデザインに面白いものがありそうだが、ただの四角い冷蔵庫では邪魔になるだけだ。
 うんと古い洗濯機には脇にハンドル式の「絞り機」がついている。そのぶん今と違った形になるが、あれをディスプレイとして部屋に置く気にはなれない。
 コンポーネントステレオは場所を取り過ぎる。蓄音機一個ならなかなかいいインテリアになる。
 ビデオデッキなどになるといくらデザインが優れていても、基本的に四角い箱なので飾っておこうという気にはならない。
 コンピュータはどうか。これも難しいなあ。アップルUぐらいならディスプレイの価値はあるのかなあ。
 こんなことを考えたのは、愛用していたビデオの編集ソフトが古くなったことを実感させられたからだ。サポートが終わりトラブルが発生したときに対処法を簡単に調べられなくなってしまった。数ヶ月前まではソフトウェアのメーカーのホームページに「Q&A」のコーナーがあり、簡単に調べられた。今は、サポートセンターでもアシュアランス契約をしていないと購入2年後の問い合わせは受け付けないという。プロ用のソフトウェアなので、メーカー側も強気だ。
 結局、購入先に問い合わせて調べたもらったが、そこでも社内にその製品がすでになく、しばらく時間をくださいといわれた。調べて後日連絡をくれたので助かったが、浦島太郎の気分だった。
 古くなったソフトウェア、これはディスプレイにはならない。なにしろ物ではないので。CDやマニュアルの入った箱はあるが、あんなもん飾ってもダサいしなあ。ソフトウェアは物ではなく情報であり記号だ。
 作業内容だけを考えると、古いコンピュータとソフトウェアでも充分仕事はできる。ワープロソフトなんて、数年前に完成しているだろう。ソフトによっては、古いバージョンのほうが使い易い場合もある。
 だが、コンピュータを買い換えるとソフトウェアと合わなくなったり、ソフトウェアを買い換えるとコンピュータと合わなくなったり、やっかいだ。
 コンピュータというものはハードとソフトの組み合わせなので、一個一個ばらばらに組み合わせることも取り替えることも可能なはずだった。それは短い期間での話であって、長い時間の中では結局全体を変えないとうまく機能しなくなる。メーカーの考える期間と個人が使用する期間に大きなズレがある。仕事で頻繁に使うものと、それほどでもないが使うものとの間にもズレがある。
 以前クイズ番組で、どうしても冷蔵庫を当てたいという老齢のご夫人が登場した。タレントではない。視聴者の方だ。その生活ぶりが紹介されていたが、質素にくらし冷蔵庫を何十年にもわたって愛用しているという。故障しては直し、外装が痛んだ箇所は自分で補修して大切に使っている。だが、ついに修理不可能になったのでどうしても冷蔵庫を当てたいというのだ。
 クイズの結果、冷蔵庫を当てた彼女は泣いていた。それを見て私はちょっと感動した。今のような使い捨ての時代に、こんなに物を大切にし愛情を持って使う人がいるのか。
 長い間使い続けられるものと、古くなると使えなくなるものがある。私の使う映像機器でいえば、フィルム用のものは長い時間使えるものが多かった。ビデオ用のものはすぐに古くなってしまった。
 また、使えなくなっても物としての魅力を持ち続けるものと、魅力を失うものとがある。
金融という記号の危機が騒がれるなか、物と人間について考えた。
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2008年10月24日

カップヌードルきのう食ったぜ

 きのう、まともに食事をする時間がなくカップヌードルを食った。いい年してとんだ食生活だが、平らげた直後に横須賀の事件を知った。「ウソだろ」ゲップとともにぼやきが口をついて出た。と思ったら、いまニュースで野田聖子消費者行政推進担当大臣が「私も時々いただきます」といっていた。ホントかな。
 食に対する不安などといまさらいっても始まらない。毒入り餃子だの産地偽装だのと事件が続く。ここまで世の中が複雑化すると、一個人ができることは、「何が起きてもおかしくない」と腹をくくることぐらいかもしれない。
 完全に安全を確保することなどできない。われわれは店に並んでいるものを買うしかないのだから。自分で野菜を作り豚や牛を飼い魚を取りのでなければ。完全な自給自足でなければ100パーセント安全が確保されるわけはない。だからこそその危うさを払拭し、安全神話の信頼感を高めようと、システムは躍起になる。なっているフリをする。
 その昔、知人の怪人フジオカさんが、「文明の問題は、自分でできないことまでできるようにしたことだ」といったことがある。聞いていたわれわれはフムフムと納得したのだが、次に怪人が言ったことにはたまげた。「電車を作れない奴が電車に乗るからおかしくなるんだ」、すかさずイケノ君が「じゃフジオカはどうなんだよ」と畳み掛けた。すると怪人あわてることなく「だって俺、電車作れるもん」。
 その場の結論は、でもやっぱり自分にできないことまでできるのが文明だということにおさまったのだが、他人任せは常に危険を孕んでいるわけだ。
 カップ麺一個食うのも大変だ。地雷を踏まずに戦場を歩くようなものか。すべてが間接化した社会では、安全も間接的に確保するほかはない。それが文明の知恵のはずだが、本質的には危うい綱渡りだということは肝に銘じておくべきなのだろう。ズルズルズル。
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2008年10月22日

相倉久人パフォーマンスジョッキー『重力の復権』

 相倉久人パフォーマンス・ジョッキー『重力の復権』
日時:10月28日(火曜日)19時30分より
料金:800円(予約、当日とも)
会場:Live Space plan−B
住所:東京都中野区弥生町4−26−20モナーク中野B1
アクセス:東京メトロ丸の内線(方南町線)中野富士見町駅より徒歩7分
JR中野駅南口より京王バス、 渋谷行きか新宿駅西口行、富士高校前下車 徒歩1分
会場への連絡:03-3384-2051(公演当日のみ)
問合せ先:090-5385-9631(石原)
会場への地図等はplan-Bホームページからhttp://www.i10x.com/planb/

 音楽評論家から音楽をとって評論家と呼ぶのがふさわしい相倉久人さんのパフォーマンスジョッキーが近づいてきた。そう、相倉さんの守備範囲というか攻略範囲というかは広い。
 ネット上に情報があふれ、あちこちにフリーペーパーが置いてあってただでもらえる時代に、評論だの批評だのというものがなぜ必要なのか。
 なぜ必要なのかといえば必要ない。音楽も映画も文芸もスポーツも必要ないように。だが、評論や批評は面白いのだ。音楽も映画も文芸もスポーツも面白いように。面白いというのは、わくわくして刺激があっていろんなものが深く味わえるようになるということだ。
 評論なんて七面倒くさくて無駄に屁理屈こねてるようなもんだろう、という人はぜひ一度『重力の復権』に来てみてください。評論や批評が、ばらばらに見ていた映画や音楽や絵画のつながりを見せ、新しいもののなかに古いものを発見し、いろいろな作品の背後で変貌する社会の姿をあぶりだす魔法の鏡であることがわかるはずだ。
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2008年10月21日

朝日新聞を読んで宗教について考えたA

 きのうの朝日の朝刊に載っていたもうひとつの宗教に関する記事は、「仏像盗難30体」という見出しで、静岡県のあちこちの寺で地域の人が守ってきた寺から仏像が消え、フリーマーケットやオークションで売られる事件が多発しているというものだ。
 住職のいない無人の寺で、檀家が管理しているところがねらわれる。檀家も本尊を見たことがないことが多く、偽物にすりかえられていても気づかないこともあるという。
 あるお寺では、檀家の方が厨司を掃除したところ本尊の如来像に、違和感を覚えた。住職に確認しても確証が得られず、寺にも記録がなかった。ところがよく見ると、如来像の台座は円形なのにほこりの跡が六角形だったので、すりかえられたと判断し被害届けを出したという。ミステリーのような話だ。
 墓泥棒という言葉もあるように、この手の泥棒は大昔からいたのだろう。そういえばインディー・ジョーンズなどというヒーロー物もある。だから、「時代が変わった」「世も末だ」などと嘆くのはあたらないのかもしれない。ただ、静岡県内で30体というのはひどい。新聞にはいつからとは書いていなかったが、気がついたらということなのだろう。
 私が関心を持ったのは、本尊がすりかえられていても宗教という形は成立している点だ。わかった時点で信心も薄れるかもしれないが、気がつかない間はそのまま宗教は成り立っている。先ほどのほこりの跡で判明したケースでは、住職も厨子はめったに開けないので偽物かどうか確認できなかったという。そういうものを厨子の奥に入れ、蓋をして拝んでいたのだ。
 お寺では本尊が精神的な中心である。そこに向かってあらゆる精神性が集中する。遠近法でいう消失点のように。中心であるがゆえにふだんは人目にさらさない。いってみれば、本尊という消失点が盗難によって消失してしまったのが今回の事件だ。
 本尊といっても彫刻である。仏様ではない。その彫刻を仏様に感じるように寺という空間はデザインされている。本尊は奥に奥に安置され、ふだんは人目にさらさないのも、そのための方法かもしれない。だが、そうなると、本尊を奥に奥に配置し、訪れた人々にその姿を見せない空間を作れば、本尊はなくても信仰の空間は成立する。お寺という空間はこういったパラドクスによって成立しているのか。
 ということを、今回の自演は図らずも露にしてしまった。
 きのうのお布施の透明化といい、本尊の盗難といい、どちらも信仰を支えている仕組みが露になるような事態だ。そんな事態に、宗教が耐えられるのか、無責任にだがちょっと考えさせられた。
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2008年10月20日

朝日新聞を読んで宗教について考えた@

 朝日新聞を読んで宗教について考えた。不真面目に。いい加減に。無責任に。
 今日の朝日の朝刊には宗教に関する面白い記事が二つ載っていた。
 ひとつは記事というより名物随筆の『天声人語』。青年僧ら30人ほどが「寺ネット・サンガ」という団体を旗揚げ、「お布施について、施主に充分説明し、使途も明示するなどして、信頼を得る道を探るそうだ」。
 お布施の透明化の試みというわけだ。こういう動きが出てくるということは、一般の人々お寺に対する不信感を、お坊さんの側も感じているということなのだろう。
 だが、使途を明示というがどんな細目になるのだろう。葬儀場などに来ていただいた場合は、お坊さんの交通費がかかる。お寺に行った場合はかからない。だが、寺使用料というものが発生するのだろうか。本堂使用料、待合室使用料、待合室ではお茶代やお茶菓子代が発生する。お坊さんの人件費、これは時給で計算するのだろうか。お経はひとつ当たりいくら、講話はひとつでいくらと決めるのだろうか。寺の維持費はここにはいるのか。
 実務的な金額を明示するというのも難しいだろうなあ。それらはあくまで周辺の経費で、お布施の価値の核となるものは信仰だ。突き詰めていえば、施主がいくら払う気があるかということ。施主が価値を認めなければ、お布施そのものがいらないということにもなりかねない。
 神社に行ってお賽銭を上げるとき、ほとんどがコインだろう。万札を賽銭箱に何枚も入れる人は少ない。そこに頼んでもいないのに神主さんが出てきて祝詞を挙げてくれたら、100円で得したと思うか少し御礼をしなければと思うかは人それぞれだ。だが、こちらからお願いして祝詞をあげてもらったなら、やはり万札を何枚か包まねばという心理になる。「使途を明示」することとこのあたりの心理はうまくなじむのだろうか。
 今年の夏、祖父の50回忌があった。母方の田舎である福井に行き、お寺さんでお経を上げてもらった。出発前、母は親戚に電話して、いくらぐらい包めばいいか相談した。地域ごとの相場のようなものもある。年寄りにしてこうなのだ。
 そういう意味では、「使途を明示」よりも相場というか金額を提示してくれたほうが払うほうも気が楽だ。金額のわかりにくい従来の寿司屋より、回転寿司のほうが気楽に入れるのと同じで、「一応常識的にはこのぐらい」ということを基準に、もう少し張り込もうとか考え易い。だが、お寺のほうが金額を提示するというのは「お布施」の考え方としては成り立つのだろうか。提示するとなると、根拠を示す必要が出てくる。信仰の「メーカー希望価格」を提示することになってしまう。
 友人に坊主がいる。彼のお寺に、霊感商法で買わされた壺だの印鑑だの仏像のようなものだのが持ち込まれことがあるという。持ち込む人はそれを処分したいのだが、やたらに捨てると罰が当たるような気がする。だから、お寺さんで何とかして欲しいというわけだ。仏教にこういう概念があるのか、正しくは何というのか知らないが、世に言う徐霊ということになるのだろう。お布施をいただいてお経を上げ処分する。そうすることで持ち込んだ人も安心するのだという。そのとき、お布施が1000円とか変に安いと安心できない。それなりの金額を払うことで、頼む側も徐霊できたと納得する。つまり彼によると、この一連の行為がセラピーの役割を果たしているというのだ。この場合は、払う側がそれなりの金額を払うことを欲しているわけだ。だが、このときそのお布施をセラピー料といってしまったら、セラピーの効果はなくなる。あくまでお布施という形をとることでセラピーが成立する。
 霊感商法といえば、霊感商法が流行ったころにも、お布施などの基準を宗教界で明確にすべきだという声が上がったという雑誌の記事を、読んだ記憶がある。ただ、これは諸刃の刃だとも書いてあった。数百円の交通安全のお守りも、数千万円の霊感商法の壺も、金額の根拠は買う側が信じるかどうかだけで、実際にご利益があるかどうかを保証できない。つまり、どちらも信仰以外に根拠のない、実態のないお金なのだ。余りに高いものは悪質だということは、少なければ許されるということであり、許されるということは本来悪いことというニュアンスを帯びる。お布施とご利益そのものを否定することにもなる。つまりこの問題に宗教界が踏み込むことは、自らの首を絞めることにもつながりかねない。
(明日へつづく)

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2008年10月19日

めがねめがね

 ずぼらな性格がどんどん加速している。ずぼらが加速すると行動は失速する。ずぼ、ずぼずぼずぼ。
 「めがねめがね」はやすきよ漫才の定番のネタだ。横山やすしが眼鏡を頭の方にずり上げ、一生懸命眼鏡を探す。スピード感はあったけど、今振り返るとのどかな感じがするなあ。
 この数日、めがねで困っている。私は3種類の眼鏡を使分けていた。遠距離用、中距離用、近距離用である。常用していたのは中距離用で、映画館などで遠くを観るときは遠距離用、本を読むときやコンピュータの画面を見るときは近距離用を使っていた。
 だいぶ前、まず常用している中距離用が見当たらなくなった。すぐに探せばいいものを、遠距離用と近距離用で済ましていた。これまではこんなことはなかった。すぐに探したはずである。だが、恐怖のB型人間なので、ひとつ気分のボタンを掛け違うとどうでもよくなってしまう。
 つぎに近距離用が見当たらなくなった。で、ここでまたあわてず騒がずどっしり構えてしまっている。なにしろ、近距離なら裸眼でも(うんと顔を近づければ)見えるのだ。
 結果遠距離用のみで生活した。 何しろここしばらくの関心事は、われわれは様々なズレによってものごとを認識している、ということだったのでピントのズレを楽しんでしまった。
 だが、しだいに心理的な影響が出始めた。遠距離用めがねと裸眼で生活すると、遠くとうんと近くは見える。逆に言えば、中距離はよく見えない。ところが、中距離こそ行動範囲なのだ。人と話すときに、顔の前まで顔をくっつけるわけには行かない。まあ2mも離れれば、顔ぐらい大きいものならはっきり見えるので顔全体では問題ないのだが、相手の目を見て話そうとするとうっすらとしてくる。1歩後ろに下がれば見えるのだがそれも失礼だ。さらに、自分の手を伸ばして何かをする範囲がうんと近くは見えるが、40cmぐらい離れると見にくくなる。その結果、現実感覚が薄くなっていることに気づいた。俺は今、ここではないどこかにいるのだという感覚。やばいぜこれ。
 さっきPCでビデオの編集をしていて、見にくさが進行している感じがした。細部に目の焦点を当てようとすると合うと思った瞬間にボケてしまう。カメラでいえば、バックフォーカスがずれているような感じで、ギリギリまで追い込んだ瞬間に細部はすり抜けていく。
 そろそろ眼鏡を探すか。
 つまりそれは、部屋の掃除をするか、ということなのだが。
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2008年10月18日

パティ・スミス『ゴーン・アゲイン』を引っ張り出して

 パティ・スミスの『ゴーン・アゲイン』を聴いている。一人の男のことを思い出しながら。
 このアルバムは、パティが夫のフレッドやバンド仲間や弟やカート・コバーンといった多くの人々の死を悼むアルバムだ。死者を弔いながら生きる勇気を与えてくれる。
 その男は私の先輩である。この3年ほどは毎週のように顔を合わせていたが、さほど親密にしていたわけではない。プライベートで会ったり飲んだりということはほとんどなかった。だが、彼は私に重要な仕事を与えてくれたし、わたしは彼を信頼していた。今振り返るとその男は私の中で、とても大きな存在になっている。
 この夏に亡くなったその男は、画家だった。横幅3mだの5mだのという巨大な絵を描いていた。サイズからして売りにくい絵だ。彼は一歩も引いていなかった。巨匠のような仕事振りだった。彼は絵筆を握って時代と格闘し生き抜いた。死の数ヶ月前に開かれた個展でも、巨大で緻密な絵が展示されていた。
 その男は、小さな美術学校の校長もしていた。校長に就任すると同時に、様々なアイディアを出し、学校を改革していった。彼が作った新しいコースに「表現コミュニケーション」というものがあった。
 これから団塊の世代が定年退職して地域社会に入っていく。地域社会が活性化する。そのとき、アートが重要な役割を果たすはずだ。アートの持つ力を社会の中で生かすような人材を養成したいんだ。彼は「表現コミュニケーション」の構想をそんな風に語ってくれた。
 彼は校長に就任する前から、自宅で奥さんと子どものための絵画教室を開いていた。それは絵画教室を越える絵画教室だった。一度、アトリエで影絵のパフォーマンスをするから来ないかと誘われて見に行ったことがある。大きなスクリーンに裏から光をあて、音楽を流し、子どもたちが自分の作った人形で影絵をする。時に子どもたちの影も映る。客席には子どもたちの家族や、大人になった絵画教室の卒業生たちも集まり、公演後のパーティは、世代を超えた地域コミュニティの感があった。「表現コミュニケーション」の構想の背景には、この絵画教室の実践による裏づけがあったのだろう。この絵画教室は、いまでも奥さんの手で続けられている。
 「表現コミュニケーション」の構想は、きわめて鮮やかな反面、余りに広い領域の問題を含んでいるために、実を結ぶのに時間がかかりそうだった。だが、講師の方々の協力も得て、「庭プロジェクト」「都電で展覧会」などいくつかの興味深いプロジェクトを行い、実績も残しつつあった。
 自らが癌であることを知ったとき、彼は軌道修正を計った。鮮やかな直感に依拠した未知の構想では、後に続くものが困惑すると思ったのだろう。このコースを現代美術寄りのコースにするという方針を打ち出した。新しさを失わずカリキュラムも考え易い堅実な路線である。
 未知の構想は道半ばで断念せざるを得なかった。悔しかっただろう。
 彼とこの構想を共有した何人かの学生たちがいる。もちろん彼らや彼女らに、彼の構想を受け継ぐべき義務などない。義務などないが、彼の蒔いた種が芽を吹くかもしれない。あるいは、種はまったく違った花を咲かせるかもしれない。
 彼の死を知ったとき、私はもっとこの構想のことを話しておくべきだったと悔やんだ。彼は私の中にも種を蒔いた。というよりずっと以前に芽吹いたまま成長の止まっていた芽を、そっと揺り動かした。おとといワークショップについて書いたが、私もアートがいわゆる表現とはちがった形で人々に働きかける力があるとずっと思っている。その実践にも興味がある。ただ、余りにも問題領域が広いため、呆然とせざるを得ない。彼はその実現のために船を出した。私はそれを横目で見て、シカトするフリをしながら注目していた。
 『ゴーン・アゲイン』は死者を弔いながら、死者を今に生き続けさせようとするアルバムだ。死とその背後にある時間や歴史や忘却と抗い、記憶の中で死者の魂と共生しようとする。
 明日、その男のアトリエでお別れ会がある。このCDを彼に供えよう。そういえば、彼の奥さんはパティ・スミスにちょっと似ている。
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2008年10月17日

血の色をした映画・芸術

 金融危機だという。
 不況だという。
 個人的にはずっと不況なのだが、かといってやっと社会が俺に追いついたかとうぬぼれるわけにも行かない。
 確かに閉塞感が広がっている。
 教えているいくつかの学校で、数年前から学費が払えなくなって退学する学生がポツリポツリと現れた。高校でも、進学したいのだが学費が払えずにあきらめる生徒が現れた。
 ところで、こういった時代の芸術の役割とはなんだろう。
 こういう時代にこそ、芸術は不埒に浮かれ騒ぎ、快楽を歌い、生の歓びを追求し、狂い、苦味をも甘味のように味わい、激しい火花を散らすことができるのかが問われている。
 政治、経済、地域社会、家族、教育、あらゆる制度の埒外に人の生はある。一瞬でも埒外の生を呼吸すれば、困難の中でも生きていける。現実逃避では味が薄すぎる。
 ずっと昔、ジョナス・メカスがいった「血の色をした映画」という言葉を思い出した。
 芸術の使命が問われている。
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2008年10月16日

『ワークショップ』を読んだ

 岩波新書の『ワークショップ ―新しい学びと創造の場―』を読んだ。著者は中野民夫という人で、本書の著者略歴ではワークショップ企画プロデューサーとなっている。あとがきには「私は研究者でも学者でもない」とあるように広告代理店に勤務する傍ら、市民グループによるワークショップの企画運営などの活動を行っているらしい。興味深いプロフィールの人である。
 この本は2001年に初版が出ているので、もうずいぶん前の本ということになる。実は以前からちょっと気にはなっていたのだが、つい読まずじまいで今日まで来てしまった。読んでみて、やはり今このタイミングで読んでよかったのだと思う。
 ワークショップとはなにかをひとことで言うのは難しい。様々なジャンルでの学習やコミュニケーションの方法なのだが、単なる方法というよりは思想といったほうがいいだろう。
 本来の言葉の意味を説明すればすむ言葉ではない。もともとは工房とか作業場といった意味だが、その言葉の意味よりも、その言葉をどういった言葉の替わりに使おうとしたかが問題なのだ。
 学校や会社や工場や役所といった言葉、あるいはそういった機関が属性としてもっている関係性に満足できない人々が、それらの言葉に「作業場=工房=ワークショップ」という言葉を対置したとき、まったく新しい何か、未知な関係性を希求していたことは想像に難くない。つまり、オルタナティブということだ。だが、それはジャンルによって、その人の立場によって様々だろう。ワークショップという言葉の説明しにくさは、こういった事情による。共通性があるとすれば、従来型の教育・学習や関係性よりも有機的な関係性ということだろう。
 著者はワークショップの特徴として「参加体験型」と「双方向性」ということを挙げている。単なる座学ではなく、参加者自信が体験的に何かを学ぶことで変化していくこと、教師や指導者から一方的に何かを教わるのではなく、リーダーから参加者へ、参加者からリーダーへという働きかけの中でワークショップの場が生まれる。
 ワークショップという言葉のもうひとつの特徴は、ジャンルを超えてある関係のあり方を希求する場合に使われるということである。演劇のワークショップ、美術のワークショップ、ダンスワークショップ、自己解放のためワークショップ、精神療法のためのワークショップ、都市開発のためのワークショップ、地域の抱える問題解決のためのワークショップ、環境問題のためのワークショップなど、ジャンルも規模も目的も異なるものが、同じワークショップという言葉を使うところに特徴がある。そこで問われているのは関係のあり方だ。
 著者の中野氏は留学中にジョアンナ・メイシーのワークショップを体験し、その後も様々なワークショップを体験したようだ。またワークショップとうたってはいなくとも、大学や地域コミュニティの関係の中にワークショップ的なものを見つけ出し、ワークショップという言葉にそれを集約していく。著者自信が企画運営したワークショップのレポートも紹介されている。
 本書はややつかみ所のないワークショップというものを、うまく整理してくれている。
 私がこの本に興味を持ったのは、私自身80年代の初頭からワークショップを考え、ワークショプをやることに夢中になっていた時期があるからだ。
 ダンサーの田中泯さんの呼びかけで集まった仲間と、身体気象研究所をいうグループをつくった。このグループはダンスのグループではなかった。アーティストの集団でもなかった。様々なジャンルの人が身体というものをキーワードに、もう一度文化を見直そうという壮大なコンセプトのグループだった。ダンサーはダンスを、美術家は美術を、教師は教育を、宗教家は宗教を、一人一人が自分の職業や表現ジャンルを身体というキーワードで見直すところからはじめ、それを共有し、周辺へ、文化へとその目を広げていこうという小さいけれど壮大なムーブメントだった。
 そのグループの活動の基本がワークショップとパフォーマンスだった。しかし、ワークショップという言葉がもともと今までにないもの、オルターナティブなものを指していたため、私たちはさまざまな言葉を駆使してワークショップについて語った。仲間内で、公開ワークショップに参加する人に対して、そして自前の機関紙やチラシで。「参加体験型」「双方向性」ということも盛んに語り書いた覚えがある。「ワークショップは単なる訓練ではない」ともいっていた。
 また、その活動の延長で、アメリカの建築家ローレンス・ハルプリンと彼の奥さんでダンサーのアナ・ハルプリンが日本で行ったワークショップにも参加した。
 数年後、自己開発セミナーがブームになり、オウムの事件があった。ワークショップという言葉は、もともと明快な定義がなかったため、こういった事柄にまみれてしまった嫌いがある。また、カルチャーセンターのようなお稽古事の世界でも使われるようになってきた。
 そのあたりの整理も、本書ではうまくされている。ワークショップと自己開発セミナーやカルト教団との共通点と明確な違いが述べられている。
 身体気象研究所の活動をしていたとき、外部の人にはワークショップはパフォーマンスという表現活動をするためのトレーニングだととらえられがちだった。私たちの中ではそうではないということはみんな了解していたのだが、この点なかなか説明しにくかった。私は、「ワークショップはパフォーマンスのためのプロセスであり、パフォーマンスはワークショップのためのプロセスである」という言い方をしていた。
 ワークショップによってさまざまな知覚体験をすることから、表現行為が生まれる、このことに異論はない。だが、その逆もあるのではないか。
 たとえば印象派という新しい絵画によって、実は私たちの風景の見方が変わった。ビートルズやロックはわたしたちに感じ方やものの見方を変えた。ファッションも変えた。それをワークショップととらえることもできるのではないだろうか、と考えたのだ。
 私は今芸術論をまとめているのだが、その中でワークショップの役割というものについて書こうと思っている。文化の循環構造ということに関連してくるのだが、この本は頭を整理するのに役立った。
 ワークショップの実践を考える上でも役に立つ。
 ただ、ワークショップを体験したことのない人が、この本を読んでどう思うのか、その点はよくわからない。ワークショップに関心を持つのだろうか。持つとしたらどんな風に関心を持つのか。とても興味がある。
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2008年10月15日

ウォーキングしてしまった

 きょうは某高校で授業。帰りにちょっと遠い駅まで歩いてみることにした。
 私の家からその学校に行くには、JR○○線でA駅まで行き、そこからJR××線に乗り換え1駅目のB駅か2駅目のC駅まで行く。どちらの駅からも徒歩で20分弱。C駅からはバスが出ている。
 通常はC駅からバスに乗るのだが、バスが20分に1本なので、1本乗り過ごすと歩いたほうが早くなる。そんなときは1駅手前のB駅から歩く。ギリギリのときはタクシーを使うこともあった。
 ところが、乗り換えのA駅のひとつ手前、D駅からもタクシーでワンメーターで行くことにちょっと前に気づいた。遅れそうなときは、この駅からタクシーを利用することにした。乗り換えずにすむので時間短縮になる。
 で、きょうはそのD駅まで歩くとどのぐらいあるか試してみた。学校を出たのが12時51分、駅についたのが13時26分、35分かかった。歩数計では2953歩、移動距離は1771km。
 運動公園のグラウンドの脇を通り、住宅街と畑を抜け、中学校の給食室の匂いをかぎ、坂を上ったり降りたりし、くねくねした住宅地の路地を歩き、やっと駅前の少し太い道路に出た。私鉄の駅の階段を上がり、改札の前を通り、反対側の階段を下り、JRのD駅の改札に到着。途中車の通りはほとんどなく、ウォーキングのコースとしては最適だ。ただ、住宅街の目印もないくねくねした道を何箇所か曲がってきたので、同じコースを逆に辿れといわれると、ちょっと自信がない。迷いながらなら行けるだろうが、通勤時に駅から歩くのは危険だ。もう一度道をしっかり覚えれば、通勤とウォーキングをかねたコースにできる。
 電車とバスを使った場合、いつもなら7時47分にD駅を通過し乗り継ぎやバスの待ち時間を入れると8時20分ごろ学校に着く、この簡約33分歩いてもほぼ同じぐらいの時間につく計算になる。
 朝飯を食って出かけると、ちょうど血糖値が上がる時間に適度な運動をすることになる。いいぞ、いいぞ。
 その点ではきょうは失敗した。35分かけて歩いて、脂肪が燃焼し始めたころ駅について腹が減っていたことに気づき、吉野家で牛丼を食ってしまった。並だけどね。
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2008年10月14日

ブラザースクエイ回顧展を見た

 渋谷のイメージフォーラムで、ブラザースクエイの回顧展のEプログラムを見た。18日からクウェイの新作『ピアノチューナー・オブ・アースウェイク』が上映されるのに先立って、これまでの作品が上映されているのだ。
 Eプログラムには『ソングフォー・デッド・チルドレン』という日本初公開の作品も含まれている。この作品はクエイらしい人形アニメだが、他の2本はバレエやダンスとのコラボレーションだ。
 『デュエット』はウィル・タケット、『サンドマン』はアダム・クーパーのダンス作品を映像化している。どこまでが振り付けで、そこまでが映像の演出かは不明だが、このコラボレーションのあり方はとても緊張感がある。
 私たちは時間や空間や自分自身の体から自由になることはできない。それができるのは想像の中だけだ。だが、映像は時間や空間を簡単に飛躍させることが可能なメディア、いわば飛び道具である。ダンスは、身体という重みもあれば時間からも空間からも自由にはなれないものによって、重力と時間と空間から自由になろうとする。だから、映像の飛躍力が無神経にダンスに介入すると、ダンスの実体を壊すことになる。
 クウェイは、映像という飛び道具を極めて慎重に駆使し、ダンスとの間に緊張関係を築く。
 人形アニメは人形に命を吹き込む。そう考えると、身体によって身体から自由になろうとするダンスとの間に太い血脈のようなものが見えてくる。
 映像やアニメーションの流れがCGなどコンピュータとの融合に向かう時代に、人形アニメからダンスへと向かうあたり、いかにもブラザースクエイらしい。
 ダンスとのコラボレーション作品が2本続いたあと、人形アニメの『ソングフォー・デッド・チルドレン』が上映された。ダンスと人形アニメ、ブラザースクエイの表現の振幅は素晴らしい。
 私はダンスや舞踏の周辺にいながら、知り合い以外の踊りはあまり見てこなかった。これを機会にもっと踊りを見ようかとも思った。
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2008年10月13日

地の皮膚、空の網

道空
大地はアスファルトの皮膚を纏い、空には網の目が張り巡らされている。
 アスファルトを剥がすとこのあたりは砂浜だ。海はすでに消えてしまったが、このすぐそばに貝塚がある。海は時間の走水。
 日本の空は電線で分割されている。都市ばかりとは限らない。郊外でも、田舎でも。ばらばらに砕けた空が頭上に張り付いている。
 大地の皮膚と、頭上の網の目の挟まれて私たちは生きている。皮膚と網の目が崩れても、都市がどうなろうとも、光は地表を照らし出すんだろうな。
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2008年10月12日

遅れてきたシャッターチャンス

チンコ菊
(クリックすると拡大します)
 ありゃりゃ、携帯カメラのシャッターずれで、「パチンコ大回転祭」が「チンコ回転祭」になっちゃった。
 パチンコ屋の電飾モニター看板に、パチンコの宣伝のあとにオウムの指名手配の3人の顔が現れる。千葉県警の告知だ。パチンコ屋とオウムと県警の組み合わせがジャストフィットなので唸った。
 パチンコのひとつ「ミニスカポリス2」というのも画面に現れた。ポリスだぜ。最近のパチンコってミニスカだの北斗の拳だのと、アニメっぽく、おたくっぽく、オウムっぽい。
 それはさておき、オウムの爆弾娘菊池直子とパチンコ屋らしい映像を対比しようと携帯を構え、シャッターチャンスをねらっていた。「パチンコ/大回転祭」という文字が出た。これだっと思い、シャッターを押した。撮った画面を見ると、文字は左にクロールして「パ」と「大」がフレームアウトし「チンコ/回転祭」になっていた。でも、どっちがシャッターチャンスだったのかな。こっちのほうが明らかに面白い。
 デジカメという新しいメディアの登場で、シャッターのタイミングのズレという問題が浮かび上がってきた。このズレはやがて解消するだろうが、最先端の機器が古いカメラでは解消されていた問題をあぶり出してしまったことになる。
 携帯電話の音のズレもある。話している相手が同じテレビ番組を見ていると、携帯の向うから少し遅れたテレビの音声が聞こえてくる。
 そういえばここ数回、いろいろな意味でズレについて書いていることに気づく。翻訳ソフトの日本語と英語のズレ、YOSAKOIの伝統と現代のズレ、そして携帯カメラのシャッターのタイミングズレと携帯電話の音のズレ。
 われわれは様々なズレをとおして、ものを認識し感じ受け入れている。そう考えると現実というのはゴーストいっぱいのテレビ画面のようなものといえるのだろうか。
 「確かにいえることは、確かなものは何もない」なんてね。
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2008年10月11日

YOSAKOIの街

はたよさこい
 池袋は袋まつり。いまや全国どこでもお目にかかるYOSAKOIの人々。今年の夏、祖父の墓参りに福井に行ったときも駅前でYOSAKOIをやっていた。マクドナルドやセブンイレブンのように全国各地に出没する。
 地域ごとの特色はなく、規格化された感じがする。
 YOSAKOIは伝統と現代のズレの隙間に存在する。YOSAKOIのファッションを見て連想するのは女子のみの暴走族レディースだ。それはそれで面白いのだが、伝統を感じるかといえば感じない。では、現代的かといえば伝統に依存しているところが目につく。
 私たちは100年ぐらい前からの西欧文化については多少知っているが、日本の伝統文化についてはあまり知らない。知識として知っていたとしても、生活の中に息づいていない。
 明治という時代に伝統の分断があった。
 分断された伝統を取り戻すには、かなり意識的なアプローチが必要だろうが、なかなかうまくいかない。YOSAKOIをみると、そのむずかしさを痛感する。
 そんなことを考えていたら、チーフタンズが聴きたくなった。
 
 思いつき、走り書き、ご容赦ください。
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2008年10月10日

黒執事って誰だ

黒執事
 高校の芸術科で映像の授業。
 数週間前の休み時間に生徒たちがマンガを開いて話をしていた。『黒執事』だのセバスチャンだのという言葉が聞こえる。どんなマンガかと思ってちょっと本を見せてもらった。細面のイケメンで黒ずくめの執事がセバスチャンらしい。
 ところがきょう学校に行くと、校門の斜め向かいに(もちろん学校とは無関係の場所)にでっかい『黒執事』の看板が立っている。テレビアニメの放送告知のようだ。映画ならともかく、テレビ放送でこんなでかい看板を出すのか。たしかこの前まではマンションか分譲住宅の看板だった。
 授業の合間に、先日の生徒に「学校の外に『黒執事』のでかい看板立ってるな」というと「見ましたよ」。「何であんな看板出すのかな」というと「うちの学校だから」とよくわからない答え。
 学校の周辺は住宅と畑で、ほとんど人通りがない。バス停のそばだがバスの終点で、バスは高校の校庭でUターンする。あの看板はたしかにうちの生徒向けの看板なのだ。まあ番宣なのだろうが、特定の学校向けの番宣というのも、いまいちピンとこない。ちょっと不思議な黒執事のおはなし。

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2008年10月09日

『世界を売った男』

 学校に行くと、副手の大橋君がデヴィッド・ボウイのTシャツを着ていた。足を振り上げたポーズは『世界を売った男』だ。あの曲が無性に聴きたくなった。
 残念ながら『世界を売った男』のアルバムはいま手元にない。ただ、家にある2003年の『リアリティツアー』のDVDの中で『世界を売った男』を歌っている。家に帰ってさっそく見た、聴いた。
 もうここに映っているボウイもじいさんのはずだ。だが、パフォーマンスは若々しい。そしてもちろん歌そのものはむかしのままだ。
 10代のころ、はじめてデヴィッド・ボウイを聞いたときの「自分は何も持っていない」という感覚。ボウイの人工的できらびやかな音と言葉とヴィジュアルは、飾ると同時にそぎ落とす力を持っていた。
 様々なものをそぎ落とし、むき出しの身体で世界に向きあっている感覚になった。そのころは、「宇宙にたった一人で放り出されたような感覚」などといっていた。
 その感覚が蘇ったというわけではない。10代のころとはまったく違った感じで、何かがそぎ落とされ、『世界を売った男』という歌が見に染みてきた。
 
 もちろん、『世界を売った男』といったところで、サブプライムローンや金融危機とは何の関係もない。というより、私たちの存在にとってそんなものは何の関係もないのだ、という地点に引き戻された、のではなく押し出された。
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2008年10月08日

ATLASによる大河小説

 おととい、きのうと翻訳ソフトATLASで遊んだ。言葉のいろいろな側面が見えてきて面白かった。
 ウィリアム・バローズのカットアップにも似た、新たな言語イメージの創造につながる可能性がある。
 たとえば、おととい、きのうの例では「黒山羊さんたら」の「さんたら」だけが切り取られ「santara」という単語になるかと思えば、「白山羊」が「白山(はくさん)」「羊」と分解される。そもそも文章を単語に分解する作業が不正確なのだ。
 ここから二つの誤訳の方向が考えられる。
 ひとつは、すべてひらがなで表記して句読点をつけない文章を英文に翻訳してみることだ。ひらがなの連続を翻訳ソフトはどう単語に分解し、英文化するか。
 もうひとつは、可能な限り漢字で表記して、英訳する。翻訳ソフトは漢字をどう読み、漢字の多義性の中からどういった意味を抽出して英訳するか。
 どちらもちょっと楽しみだ。
 そして、またそれを和訳する。おとといときのうは、英訳、和訳、英訳、和訳と繰り返していったのだが、これだとある段階でそれ以上の変化が起きなくなってしまった。
 単に翻訳の繰り返しではなく、出てきた和文から浮かんだイメージなども加えてみてもよいだろう。そのように、少し創作の部分を加えつつ、和訳と英訳を繰り返すことで、はじめの文章がどんどん変容していくという、言葉の大河小説が書けるかもしれない。
 出来上がったらこのブログで発表しよう。

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2008年10月07日

ATLASの翻訳マジック2

きのうから翻訳ソフトで遊んでいる。『山羊さん郵便』の歌詞を英語にし、その英語を和訳し英訳しを繰り返している。
きのうの最後からはじめよう。

「それでは、ヨーからの手紙がある人々羊のsantaraの大群衆にそれ、および全く白山完全な羊さんを食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

「Then, it is lucky mazuni that there is no method of eating it and complete sheep in complete Hakusan in the large crowd of santara of the people sheep that has the letter from Yeoh at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago. 」

「そして、完全な白山で全くヨーからの手紙を持っている人々羊のsantaraの大群衆でそれと完全な羊を食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

後半の「手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です」という短いセンテンスは変わっていない。

「And, it is lucky mazuni that there is no method of eating it and a complete sheep in the large crowd of santara of the people sheep that completely has the letter from Yeoh in complete Hakusan at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago. 」

「そして、全く完全な白山にヨーからの手紙を完全に持っている人々羊のsantaraの大群衆でそれと完全な羊を食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。 手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

前の和文と違うのは「完全な白山で全く」が「全く完全な白山に」に変わっていることだけだ。

「And, it is lucky mazuni that there is no method of eating it and a complete sheep in the large crowd of santara of the people sheep that completely has the letter from Yeoh in quite complete Hakusan at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago. 」

「そして、全くかなり完全な白山にヨーからの手紙を完全に持っている人々羊のsantaraの大群衆でそれと完全な羊を食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。 手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

ほとんど変わっていない。
「全く」「完全な」と同義反復される間に「かなり」というあいまいな言葉が入っただけだ。
それにしても可笑しな話だ。「全く」と「完全な」の間に「かなり」だぜ、一体どっちなんだといいたい。

「And, it is lucky mazuni that there is no method of eating it and a complete sheep in the large crowd of santara of the people sheep that completely has the letter from Yeoh in quite considerably complete Hakusan at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago. 」

「そして、全くかなりかなり完全な白山にヨーからの手紙を完全に持っている人々羊のsantaraの大群衆でそれと完全な羊を食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。 手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

おおっ、全く完全に前の和文と同じになった。翻訳ゲームも個々で終わりかな。一応もう一度英訳、和訳してみよう。

「And, it is lucky mazuni that there is no method of eating it and a complete sheep in the large crowd of santara of the people sheep that completely has the letter from Yeoh in quite considerably considerably complete Hakusan at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago.」

「そして、全く全くかなりかなり完全な白山にヨーからの手紙を完全に持っている人々羊のsantaraの大群衆でそれと完全な羊を食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。 手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

「全く」が増えた。だが、ほかは全く変わっていない。なんで「全く」が増えるのかな。前と同じじゃなんだから一応変えておこうってワケでもないだろう。ま、これ以上の変化は無さそうだな。
じゃあここで、「さんたら」「まずに」「なあに」とローマ字になっているところをひらがなにしてもう一度英訳してみよう。

「そして、全く全くかなりかなり完全な白山にヨーからの手紙を完全に持っている人々羊のさんたらの大群衆でそれと完全な羊を食べる方法が全くないのは、幸運なまずにです。 手紙手紙のなあにがさっきいたを予約するのは、企業です。」

And, it is lucky catfish [nidesu] that there is no method of eating it and a complete sheep in the large crowd of the cod that the people sheep that completely has the letter from Yeoh in quite quite considerably considerably complete Hakusan doesn't do at all. It is an enterprise that reserves [gasakkiita] to letter letter [nonaa].

「さんたら」「まずに」「なあに」ではなく「にです」「がさっきいた」「のなあ」がローマ字になった。英文にもちょっと地殻変動が起きたみたいだ。新しい単語も加わった。
和訳してみよう。

「そして、それを食べる方法が全くないのが、幸運なナマズnidesuであり、全く全くかなりかなり完全な白山にヨーからの手紙を完全に持っている人々羊がそうしないタラの大群衆における完全な羊は全くnidesuであること。 それは、手紙手紙nonaaへのgasakkiitaを予約する企業です。」

「幸運なまずに」が「幸運なナマズnidesu」になった。「幸運なナマズ」か。文章の順番が入れ替わるのは何でだろう。構文がゆるく、音の結びつきと切れ目、つまり単語としての音のまとまりが非常にルーズに作られる。大河小説だな、これは。

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2008年10月06日

ATLASの翻訳マジック1

去年のことになるが、ATLASという翻訳ソフトを買った。これに頼るつもりはないのだが、一応英文の当たりをつけるにはいいかと思って買ったのだ。使ってみてすぐわかったが、こいつは私より単語はたくさん知っているが、文章能力はない。

英文を翻訳した日本語を読むと結構可笑しな文章だ。日本語を英文にもしてみたが、英語は苦手な私でも可笑しな英語のような気がする。そこでちょっと実験をしてみようと思う。日本語の文章を英語に、日本語に、英語にと翻訳を何度かくりかえしてみよう。どんなんなるかな。

出だしの文章はなんにしよう。アッ、あの童謡がいい。

「白山羊さんからさんからお手紙ついた。黒山羊さんたら読まずに食べた。仕方がないのでお手紙書いた。さっきの手紙のご用事なあに。」

さあこいつを翻訳してみよう。日本語と英語の白黒ショーだ。
英語になれ!

「The letter doesn't have the method that eats large crowd of people sheep [santara] [yo] [mazuni] to which it is lucky from Mr. Hakusan sheep. Business thing [naani] of a letter letter book [ita] a little while ago. 」

[santara]ってなんだ。サンタナといえば『ブラックマジックウーマン』だ。でもこれはサンタラだ。さんだらなんだらなんだろべ。
それにしても[yo] [mazuni] って、日本語として解読できないところが残るんだ。よ、まずに、なあに、いた、日本語の余りってわけだ。字余り。
そんじゃもう一度、日本語になれ!

「手紙には人々羊のsantaraの大群衆を食べる方法がない、ヨー、それが白山羊さんから幸運であるmazuni。手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、ビジネスのことです。」

うーむ味わい深い。santaraの大群衆ってなんだろう。食べられちゃうのか。まだここでは字余りが残ってますな。
まあとにかく、いたを予約するのはビジネスのことらしい。

Yeoh and it are lucky mazuni that there is no method of eating the large crowd of people sheep's santara in the letter from Mr. Hakusan sheep. It is a business that naani of the letter letter reserves ita a little while ago.

形の上では字余りは解消され、文章に飲み込まれたかに見える。少なくとも、 [ ]は消えた。白山羊さんはいつのまにか「Hakusan sheep」になっている。「ハクサン シープ」か。
もう一度日本語になって頂戴!

「ヨーとそれは白山羊さんからの手紙には人々羊のsantaraの大群衆を食べる方法が全くない幸運なmazuniです。手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。」

はー、日本語に戻すと字余りは不明語として残るんだ。「Hakusan sheep」は白山羊に戻っている。

It is Yeoh and it is lucky mazuni that there is no method of eating the large crowd of people sheep's santara in the letter from Mr. Hakusan sheep at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago.


それはヨーです、そして、全く白山羊さんからの手紙で人々羊のantaraの大群衆を食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。

In it, it is lucky mazuni that there is no method of eating the large crowd of people sheep's santara with the letter from Yeoh it, and complete Mr. Hakusan sheep at all. It is an enterprise that naani of the letter letter reserves ita a little while ago.

それでは、ヨーからの手紙がある人々羊のsantaraの大群衆にそれ、および全く白山完全な羊さんを食べる方法が全くないのは、幸運なmazuniです。手紙手紙のnaaniがさっきitaを予約するのは、企業です。

「ハクサン シープ」はここで白山と羊に分裂した。白山羊さんからの手紙はヨーさんからの手紙になった。ここにきて、だいぶ変化してきだぞ。とりあえず、きょうはここまで。

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2008年10月02日

ゴドレー&クレイムとオスカー・フィッシンガー

 久しぶりに、ゴドレー&クレイムの『モンドビデオ』とオスカー・フィッシンガーのアニメーション数本を見直した。
 音楽と映像ということを考えていて、なんとなく見たくなったのだ。
 オスカー・フィッシンガーは音楽と映像の関係というか、視覚と聴覚の関係を抽象アニメーションで表現しようとした人である。メディアはビデオではなくフィルムを使った映画だ。きょうは1930年代から40年代の作品を見た。彼の映画を見ていると、すべての芸術は音楽に憧れるという言葉を思い出す。音楽を、カンディンスキーの言葉ではないが点、線、面、色彩で表現しようとするその繊細さと大胆さにはいつ見ても感動する。音楽を楽譜に基づいて分析し、それにあわせてアニメーションを描き起こしているのだろう。線や形体のが断続的に変化するところは少なく、継続しながら変化していく様子を見ると、あらかじめ計算された動きだ。
 一方、ゴドレー&クレイムはいかにもビデオ時代のアーティストだ。4人組のバンド10CCのうちの2人が脱退して作ったユニットだが、この2人で様々なミュージシャンのたくさんのプロモーションビデオを作っている。彼らが80年代に作った音楽も映像もオリジナルの作品が『モンドビデオ』だ。曲はあらかじめ作られているのだが、あたかも映像と音楽を同時に編集し、両者のコラージュで構成されたかのようなスクラッチ感覚にあふれた作品だ。
 映画は音と映像を別々に撮る。映像はフィルム、音はテープに録音する。だが、ビデオは映像と音を同時に同じテープに記録する。同じテープなので同時に編集しやすい。ミュージックコンクレートの方法をを音だけでなく映像も含めて展開することが可能になる。
 『モンドビデオ』はミュージックコンクレートではないが、楽曲のメロディラインにアクセント的に現実音やギターやピアノの演奏を映像と音の同時リピート編集で短くのせ、コラージュ感を作り出している。車の音やドアを閉める音といった現実音が音楽の構成要素として意識されるようになったひとつの原因は、録音が可能になったことだろうが、そこに映像が加わった面白さがある。
 近代以降の芸術は、ものごとは分割して再構成できるという意識の上に成立しているが、スクラッチという感覚はメタ再構成とでもいうべきもののように思う。
 フィッシンガーとゴドレー&クレイムの違いに、そんなことを考えさせられた。
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