そのひとつ、3月9日にはPLAN−Bで『土方巽81回目の誕生日』という催し物があった。出演者と観客という関係はなく、きりたんぽなどをご馳走になりながら、参加者みんなが土方さんについて何か語る会だ。私も土方さんの思い出を語った。
80年代初頭にPLAN−Bで土方さんの業績を映像で紹介する会を行ったとき、私は膨大な数の写真の複写や写真を8ミリで再撮影して映画化する仕事を担当した。
「土方さんの業績を映像で紹介する会」という言葉で連想するのとはまったく違った内容の会だった。 静止画だからといってパシャッパシャッとスライドを切り替えていくようなおとなしい会ではない。スライド一枚一枚をピン送りしたり、映写機を振り回して映像を乱舞させたり、シングルスクリーンからマルチスクリーンに切り替わったり、一度固定し、定着してしまった映像に息を吹き込むライブパフォーマンスだった。
そのころ、レゲエにおいてダブとかDJというものがというものが重要な役割を持っていることがわかり始めていた。何枚かの音盤を聞いて、なるほどこういうことかと納得した。スクラッチなどのDJ文化が炸裂するヒップホップは、まだ目立ってはいなかった。
私は実験映画やビデオアートの制作以上に映像パフォーマンスにのめりこんでいた。それは、パッケージ(ソフト)とライブということを意識していたからだ。一度パッケージ化した映像を、もう一度ライブパフォーマンスの場で蘇生すること。そんなことを考えていた。
その時に出会った土方さんの記録映像への向き合い方は、非常に刺激になったことを覚えている。
『土方巽81回目の誕生日』で私が話したことはもっと別の話だが、ここ数日映像パフォーマンスということを考えていたら、土方さんのことと当時自分が映像パフォーマンスについて考えていたこと、どんなところから刺激を受けていたかなどなど思い出した。
いまや歌謡曲のバックでもDJがいたりするが、当時はDJ自体が目新しかった。
土方さんがスライドや写真に息を吹き込んだのと、DJが行うスクラッチなどの技法とはまったく違う。だが、一度完成したソフトを、もう一度生々しく蘇らせようという意識は共通している。
このあたり、もう少し考えてみよう。
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