2009年08月28日

自称プロサーファーと自称芸術家

 法ピーが起訴された。
 今回の事件で、久しぶりに自称○○という言葉を聞いた。今さらいうまでもないだろうが、法ピーの夫高相裕一の肩書きが「自称プロサーファー」と報道されているのだ。
 自称○○という言葉を聞くとカチンとくる。嫌な気分になり、ふざけんなという気分になり、バカ野郎ざまあみろテメエラみんな皆殺しだとわけのわからない物騒なことを叫びそうになる。誰に対して怒っているのかよくわからないままに、あたりを走り回りぜいぜいと息が上がる。 わけのわからない怒りは餓鬼のときとまったく同じだが、体力はまるで駄目だ。だが、餓鬼のころよりは少しはものが見えてきた。怒りの対象はもちろん「自称○○」という言い方をしているもの、報道機関であり、その背後にある世間一般の常識に対してだろう。
 まてよ、餓鬼の頃もその程度のことはわかっていたか。
 
 むかしオレは画学生だった。美術学校を卒業すると画学生は何者でもなくなる。誰もそう呼んではくれないので画家を自称する。画家、小説家、詩人、音楽家、芸術家は自称で始まる。
 そういえば、学校を卒業して吉祥寺にアパートを借りようと思って不動産屋に行った。不動産屋で絵描きだといったら、絵描きに貸す部屋は無いといわれた。
 そういえば一時、そのように自称することを自嘲して「画家」とか「詩人」と名のらず、自分から「自称画家」とか「自称詩人」と呼ぶことが流行った。ミニコミ系で。
 だが、これほどバカげた事は無い。誰も呼んでくれないからこそ自称するのに、そのことに照れていてはさらにバカにされるだけだ。
 その後、いくつかの雑誌や新聞などで紹介されるとき、肩書きに映像作家と書かれるようになったが、いまだに誰にも呼ばれないからこそ自称しているという意識はある。
 数年前、PLAN−Bで行われた『山谷 〜やられたらやりかえせ〜』の上映会の後に、その映画の佐藤満夫監督の友人の映画関係者の方のスピーチがあった。佐藤監督は山谷を撮影することで、山谷を縄張りにするヤクザに殺されたのだが、そのことを報じた新聞記事に「自称映画監督佐藤満夫」と書いてあったことに腹がたった、彼は間違いなくプロの映画監督だとその方は話していた。この呼び方には明らかに侮蔑的な意図がある。
 
 ところで、…。
 ゴッホは、生涯自称画家だった。
 いまオレが、何かしでかして新聞沙汰になったら映像作家と書かれるだろうか、それとも自称映像作家と書かれるだろうか。
 どちらが誇るべきことだろうか。
posted by 黒川芳朱 at 23:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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