加藤和彦が自殺したという。愕然。
私は決して熱心なファンではなかったが、加藤和彦が好きだった。
実は、数週間前から某専門学校で行っている映像編集の授業で、サディスティック・ミカ・バンドの『何かが海をやってくる』をBGMとして使わせていただいた。ちなみに、出来た作品は授業内で観るだけなので、著作権を侵害はしない。
『帰ってきたヨッパライ』を始めて聞いたのは、中学の昼の校内放送だった。以前にも書いたが、うちではレコードを聴いたりする習慣がなかったので、昼の校内放送はいろいろな音楽にを聞く数少ない機会だった。『ヘイ・ジュード』をはじめから終わりまできちんと聞いたのも、中学の昼の校内放送だった。当時の九段中学放送部の同窓生には感謝したい。
そのころ、エレキットという電子工作のキットを買ってもらい、ラジオを作った。イヤホンで聞くこのラジオが私の音楽メディアになった。深夜放送を聴くようになった。もっともエレキットは組み立てなおすといろいろなものになったので、いつもラジオとして使ったわけでもない。そのうちちゃんとしたトランジスタラジオも手に入れたのだが、エレキットでラジオを聴く時代がしばらくあった。
はじめ色物かと思ったフォーク・クルセダーズは、好き勝手にやっているようで、いい歌を作りや面白い演奏をたくさんして解散した。それがまぶしかった。
高校時代は北山修のパックインミュージックをよく聞いた。それから、夕方にラジオでスタジオ公開放送の番組があり、その司会を加藤和彦がやっていた。パックのDJをしていた野沢那智も、たしか日替わりで司会をしていたと思う。私は加藤和彦の飄々とした話し方が好きだった。彼は司会をしながら、『おいでよ僕のベッドに』や『拝啓大統領殿』を歌った。その頃は、『拝啓大統領殿』がボリス・ヴィアンの歌だなんて知らなかったが、加藤和彦が震えるような声で「だいとーりょーどのー」と歌いだすのにしびれた。「しびれた」という言葉も死語だなあ。
1970年だと思うが、加藤和彦が銀座の町を歩くCMがあった。キャッチコピーは「モーレツからビューティフルへ」。時代の変わり目だった。
加藤和彦の結婚記念に、北山修作詞、加藤和彦作曲の『あの素晴らしい愛をもう一度』を発表したときは、同級生の丸山くんと何でこれが結婚祝いなんだ、まるで倦怠期の夫婦に向けた歌じゃないかと笑った。
ジョンレノンとオノヨーコのプラスティック・オノ・バンドをパロってサディスティック・ミカ・バンドを作った時は、いかにも加藤和彦らしいなあと思った。あいにくこの頃から私は洋楽にはまりだし、小遣いは洋楽のレコードに消えた。したがって、あまりミカ・バンドを聞いてはいない。少し耳にした『ダンス・ハ・スンダ』や『サイクリング・ブギ』がいかにも遊びのための遊びという感じがしてあまり興味が湧かなかったこともある。その後『黒船』を聞いてその素晴らしさに驚いた。
ただ、ミカ・バンドが、その頃大好きだったロキシーミュージックのツアーのサポートバンドをつとめたというニュースを聞いたときは、なんとなくうれしかった。
そのイギリスツアーをきっかけに加藤夫妻が離婚し、ミカ・バンドが解散したときは『あの素晴らしい愛をもう一度』を聞いて笑った丸山くんを思い出した。
私はロックに時代の表現を求め、音楽以上の何かを期待しながら聞いていたように思う。そういった私の視野から加藤和彦は消えていった。遊び、趣味、美学といった言葉がふさわしいようにおもえた。
彼の音楽を聴き続けていなかったせいか、時々見かける髪の薄くなった加藤和彦の姿には違和感があった。中学・高校時代の私が彼に感じた魅力は、あくまでも髪がふさふさで飄々と軽やかでありながら、時には既成のものを壊してしまう自由さだった。
今聞きなおすと、彼が質の高い音楽を作り続けていたことがわかる。ほんとうに、私はファンになりそこなったんだなあと思う。どんなジャンルであれ特定のアーティストの活動を追いかけるとき、リアルタイムで追いかけるのと、後から時間をさかのぼって追いかけるのでは全く意味が違う。見えるものが違う。感じるものが違う。時間をサディスティック・ミカ・バンド結成時に戻すことができるならば、リアルタイムで加藤和彦を追いかけることができるのだが。
合掌。