2008年06月18日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』4

 私たちは、カメラで物を撮影するとき、それが何であるかを見ている人にわからせるため、意識的、無意識的にさまざまな注意を払っている。ここに黒い革の鞄があったとする。アップで撮るとそれは動物か人間の皮膚に見えるかも知れない。あるいは地形のように見えるかもしれない。光が反射してハレーションを起こしていると、黒にかかわらず明るいグレーに見えるかもしれない。少し引いて鞄の全体が見える大きさで撮ったとする。だが、背景が黒いか暗いと、鞄と背景が同化して分かりにくいかもしれない。鞄と背景が区別でき、全体の形がわかると鞄であることが見ている人にも伝わる。あまり引きすぎると、それが黒い鞄であることは分かっても、皮製か布製かプラスティック製かは分からなくなる。さらに引くとそれが鞄であることすら分からなくなる。
 このように画面を切り取る大きさのことを、映像用語ではサイズというが、サイズが適正であったとしても、ピントがボケているとそれが黒革の鞄であることはわからない。露出が適正でないと、暗すぎたり明るすぎて鞄であることや材質が何であるかがわからない。
 では、それがどんな材質でできた何であるかが分からない、あるいは分かりにくい映像は無価値なのだろうか。説話的な映画では価値はない。物語のアクセント的に使われる程度のことだ。
 だが、ここにそういった説話的な映画とはまったく異なる一本の映画がある。繰り返しになるが『幼年期の情景』という映画は、写っているものが何であるのかが分からない映像と、分かる映像が同じ価値を持って現われる、極めて稀な映画である。そして、その間で揺れ動く私たちの感覚と脳みそは見るたびに新たな認識の冒険をする。
 
にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
ランキングに参加しています。ワンクリックお願いします。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック