2008年06月19日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』5

 この映画ではカットやシーンの境界が曖昧なため、どういう映画だったかを人に語ろうとすると、途端にあやふやになってくる。カットとカットが、シーンとシーンが組み合わさって説話構造をなしていないため、この映画をうまく要約して語ることができない。しかも、いくつかのイメージの流れが同時に重なり合って進行するため、曖昧さはさらに増幅する。それでも、映画を見終わると明らかにいくつかの情景が思い出される。カットやシーンがまったく無いわけではなく、映像が分節化しそうになる瞬間はある。だが、完全な分節を形成する直前に境界をぼかし、ふたたび重層的なイメージの流れへと帰ってゆく。結果、カットやシーンは記憶という残像の中には曖昧に存在している。
 私たちは一瞬も気を抜くことができない。集中しているとこれほどスリリングな映画はない。眼の前に展開する視覚像は言葉を呼び覚ますが、頭の中に浮かんだ言葉は次の瞬間眼にする視覚像によって解体される。集中が途切れると、これほど睡魔に襲われる作品もあるまい。
 およそ140分、この映画が描くのは、コロラドの山中の山小屋で暮らすブラッケージ一家の暮らしぶりである。アヴァンギャルドホームムービー、ブラッケージは俳優を雇い架空のドラマを演じることをせず、自らの家族を内側から描く。個別の家族を描くことで、普遍的な人間像に迫るなどと陳腐なことをいうのはやめておこう。そんな常識的なドラマツルギーからもはずれ、より根底的な問題へとブラッケージは下降していく。
 ベッドで裸で遊ぶ子供たち。森へ入る母と子供たち。子馬。流しの洗剤の泡。遊具で遊ぶ子供。雪。階段を上る子供。氷。動物。泣く女、ブラッケージの妻ジェーンの顔。天上から降り注ぐ光の雫。ブラッケージ、室内に座る男、ベッドの裸の女、子供たちの顔、窓の外の風景。
 多重露光、フェードインフェードアウト、駒落としとスローモーション、ネガポジ反転、湾曲フィルター、さまざまなテクニックが駆使される。だが、これはヴィジュアルエフェクト(視覚効果)ではない。エフェクト(効果)とは、説話構造の修飾語のことであり、ブラッケージのテクニックはそれ自体が認識と感応の方法なのだ。ブラッケージは説話構造を否定しているのではない。説話構造を軸とするのではなく、説話構造もひとつの一つのあり方に過ぎない感覚や認識の広がりの中で、映画を作っているのだ。たとえばブラッケージの最高傑作とも呼ばれる『DOG STAR MAN』は四部構成からなる75分の作品で、『幼年期の情景』と同じように、多重露光やピンボケ画像、すばやいカット、など実験的な映画技法のオンパレードのように見える。だが、この作品にはストーリーがある。では、どんな壮大なストーリーかというと、「樵が山に登って木を切る」というシンプルなストーリーである。
 ブラッケージはストーリーを否定しているのではなく、相対化しているのだ。

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この記事へのコメント
観客は、カメラそのものをみてるのでしょうか。
Posted by ジュンタ at 2008年06月20日 09:02
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