2008年06月23日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』7

映画の背後に広がるもの

 いうまでもなく、映画にセリフやナレーションなど言葉があるとき、意味は成立し易い。また、効果音やバックグラウンドミュージックも、多くの場合意味機能を担っている。だが、『幼年期の情景』は140分間サイレントである。トーキー以前のサイレント映画のようにピアニストが横で演奏するわけではないし、その代わりにバックグラウンドミュージックがついているわけでもない。本当に何の音もないのだ。スピーカーからは何も聴こえてこない。ジョン・ケージは4分33秒だが、ブラッケージは140分である。
 テロップもない。はじめだけフィルムを引っかいて書いたタイトルが出るが、あとは何もない。全体は4部構成だが、章分けのタイトルもない。
 視覚情報のみである。
 スクリーンには映像が洪水のように映し出される。赤や黒や光の揺らめきに混ざってブラッケージ家の生活の断片が映し出される。生活を描写するわけでもなく、家族一人一人の性格描写をするわけでもなく、人間を中心に描くわけでもなく、子供の遊ぶ姿が、女の悲しそうな顔が、馬が、犬が、森が、階段が、窓が、洗い桶の洗剤の泡が印象的である。あるときは画像が何重にも重なり、あるときは画面が真っ暗になり、カットやシーンの境界が曖昧なまま、映画は進む。視覚的情報量は恐ろしく増大したり、減少したりするのだが、意識の緊張感は途切れることはない。私たちは映画を見ながら、映像の流れを分節化し、何かを抽出しようとする。だが、言葉や意味に至ることはない。運動し続ける。この状態を楽しめるかどうかが、この映画に対する評価の分かれ道だろう。 
 言葉を覚えた私たちは、物を見るとすぐに言葉に置き換える。見てもそれが何だか分からないとき、意識は活発に運動を始める。何だか分かった瞬間に、それは言葉に置き換えられ、意識の運動は止まらないまでも穏やかになる。では、言葉を覚える以前、私たちは周りをどう見ていたのだろう。 
 視覚障害についての本の中に、興味深いことが書いてあった。生まれたときから眼が見えない人が、触覚によって物を認識し頭の中に世界像を組み立てる。その後、開眼手術に物を見ることができるようになった。初めてふれる圧倒的な量の光に感動する。だが、その乱舞する光の世界はいつまでも乱舞する光のままで、物が輪郭に囲まれて、並んでいる秩序だった視覚像を得られないままのケースがあるという。触覚で組み立てた世界像と、乱舞する光の世界が照合しないままで終わり、見ることに意欲を失ってしまう人がいるというのだ。
 触覚では世界認識をし、言葉も使える人が、視覚情報を処理できないままに終わってしまう。成長過程のある時期に、視覚と言葉を照合することを覚えてしまった私たちには想像しにくい状態である。

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