数十年前になるが、身体気象研究所というグループで、眼をつぶって日常生活をしてみるというワークショップをおこなった。参加者の半分が眼をつぶり、残り半分が眼を開いた状態で観察し、危険があればサポートする。
眼をつぶった人たちは、2人一組で行う身体トレーニングを行う。通常はもちろん眼を開いて行うものだ。そのあと、部屋の中を記憶を頼りに移動し水道で手を洗い、そばのちゃぶ台の上の電気釜を開け、梅の入ったおにぎりを作る。さらに珈琲カップにインスタント珈琲の粉をいれ、電気ポットからお湯を注ぐ。おにぎりと珈琲を持ち、部屋の中央に行き車座になって座る。座った人から食事を始める。この間、誰も喋ってはいけない。目をつぶった同志がぶつかり、熱い珈琲をかけそうになったときなどは眼を開いているメンバーがそっと静止したりするだけで、声は出さない。全員が食べ終わったところで、眼を開いているメンバーの合図で、今の体験についてディスカッションを始める。
触覚によって感じる世界は視覚によって感じる世界とはまったく違った相貌を現してくる。触っただけではそれが何なのかわからない。つるっとした光沢の金属のラックは、意外と表面がざらついている。木目調のテーブルは木の手触りがせず、プリント加工されておりつるつるしている。手触り、物の温度、物の輪郭すら曖昧になる。今触っているものが、どんな形の何であるのか、眼に見える分かり切ったはずの世界が、輪郭を失い存在感を膨れ上がらせていく。
指について離れないご飯の熱さ。カップにインスタント珈琲を入れ、ポットからお湯を注ぐ。熱湯が指にかからないか、怖い。記憶を頼りに歩く部屋の中、狂う方向感覚と距離感。珈琲をこぼさずに歩けるか。障害物はないか。あと何歩で壁か。おにぎりを食べてみる。おにぎりというものではなく、米ですらなく、材料を丸めた物といった味わいだ。味覚も視覚に影響されていることがわかる。熱いコーヒーを飲んでみよう。カップを口元に運ぶとき、こぼれやすく熱い液体が近づいてきて体が緊張する。
合図とともにディスカッションが始まり、他人の声が聞こえてきたときの解放感。私たちは、映画館の中や何かの式典の最中など、数分間から数時間一言も喋らない場合もあるが、そういうときでも他人の姿は見えている。眼も見えず声も聞こえない体験はそうそうない。眼をつぶって行うディスカッションのぎこちなさ。いつもなら、他人が話している最中に話に割ってはいるような人までも、他人が話し終わるのを確かめて話し出す。
私たちは物を見て、それに名前をつけることでこの世界に秩序を与えてきた。だが、視覚情報を失っただけで、私たちの世界認識は大きく変貌する。眼で見ていたときの秩序や全体像が崩れ、細部が主張し始める。感覚は増幅し、私と世界の境界が曖昧になってくる。
『幼年期の情景』について、ブラッケージはこう語っている。
『命のはじまり、胎児、赤ん坊、子供の内的世界の視覚化―大人たちの感傷的な回想によって見えなくなっている。その世界の暴力的なまでの恐怖と圧倒的な喜び、その両極の露呈による「少年時代の神話」の粉砕』
(『ブラッケージアイズ2003―2004』カタログより)
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