『幼年期の情景』という言葉がかもし出すノスタルジックな雰囲気とはまったく異なる意図で、この映画は作られている。子供は、けっしておとなしくて穏やかな存在ではない。赤ん坊の泣き声を聞けば、そのエネルギーの激しさが分かる。大人になって振り返る美化された幼年期ではなく、体全体でこの世界を感じ、見て、聞いて、触って、食べて、嗅いで、外の世界からなだれ込んでくる情報を受け止め、内側からわき上がるエネルギーを声や全身の動きとして発し、両者の接点となる言葉を徐々に習得していく時期。
皮膚一枚を隔てた内と外の情報の出入り、認識の発生と言語の形成、知覚と認識の激しくダイナミックな変動期。
『幼年期の情景』は、そういった幼年期を描こうとしているというよりは、映画によって幼年期の知覚と認識の在り様を再現しようとしているのだ。私たち観客は、まるで幼年期に戻ったような体験を強いられる。
幼年時代、私たちはそれが誰なのか、どこなのか、いつなのかわからないまま、いろいろなものに遭遇する。思い出そうとしても、言葉というフィルターがその実像を曇らせてしまっているのでなかなか思い出すことができないが、確かに私たちには、言葉を覚える以前の時代がありそのときも物を見ていたのだ。
私たちは言葉を覚えると、物を見て識別した瞬間に、言葉に翻訳するようになる。机を見て机という言葉を思い浮かべないこと、コップを見てコップという言葉を思い浮かべないことは難しい。そして、言葉にした瞬間、見ることに対する意識は薄れ、見ることはおろそかになる。
スタン・ブラッケージといえば決まって引用されるあの言葉をここでも引くことにしよう。
「想像してみよう。人がつくった遠近法の法則などに支配されない眼を。構図の理論なんて先入観を持たない眼を。ものの名前にただ反応するのではなく、生の中で出会うものたちを視覚の冒険を通して知っていく眼を。緑色なんて知らずに這っている赤ん坊の眼には草の上にどれほど多くの色があることか」
(スタン・ブラッケージ『視覚の隠喩』西嶋憲生訳 『ブラッケージアイズ2003―2004』カタログより)