2008年06月28日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』11

視覚と言語
 ブラッケージは言葉を否定していたのか。 
 作品のほとんどがサイレントであること、「緑色なんて知らずに這っている赤ん坊の眼には草の上にどれほど多くの色があることか」という言葉などから、ブラッケージは言葉を捨て、赤ん坊の純粋な視覚を復権しようとしていたように思われるかもしれない。だが、ブラッケージは視覚の人であると同時に言葉の人でもあった。
 ブラッケージは長・短取り合わせて400本あまりの作品があるが、ほとんどの作品を言葉で解説している。初期の傑作といわれる『夜への前ぶれ』は、一見そこらでカメラを振り回し即興的に撮ったものをあとから編集したかのように見えるが、この作品にもシノプシスといってもよい文章がある。緻密で詩的な文章だ。そして、作品もよく見ると緻密に構成されている。撮影は即興的に行ったのだろうが、この文章はイメージの核があったことを示している。文章が映画完成の前に書かれたのか、後に書かれたのかはあまり問題ではない。
 ブラッケージには「ハンドペインティッドフィルムス」と呼ばれる作品群がある。フィルムに直接絵具で絵を描き、プリンターで駒数を変えるなどして再撮影した抽象絵画のような映画である。これらの作品にも言葉による解説がある。たとえばこんな具合だ。「まだら模様の地面や岩の姿や根のような形が現れては、一瞬静止しながらも青光りする緑や青の間を中へ上へ水平方向へどんどん吸い込まれていく」(『Earthen Aerie』)、「浮き彫りのように描かれた身体の部位が、次第に絡んでは離れ、結合を繰り返す。多彩に色づけられた卵型のものの周りで何度も爆発しては黒い精子の姿になる濃い輪郭線は、表情豊かに描かれた性器と織り合わさっていく」(『Love Song』)。二つ目の解説など、まるで具象的に性器や精子が描かれているように読めるが、映画自体は抽象的な映像である。(ともに『ブラッケージ・アイズ2003−2004』カタログより)
 一見取り止めのない映像の羅列に見える映像作品が、実は言葉によってしっかりと造形されていた。「緑色なんて知らずに」という言葉は、言葉を否定しているように見えて、これ自体がまさに言葉である。この言葉は『視覚の隠喩』というエッセイの中の一節だが、ブラッケージの視覚と言葉に対する立場を考える上でとても重要な文章である。

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