言葉の危機を舞台で展開した不条理劇が1950年代、「ダダは何も意味しない」というのは『ダダ宣言1918年』、もう少しさかのぼって、20世紀に入った頃には潜在的に言葉の危機を感じていた人々はいたのだろうか。問題は、それがいつからかということよりも、今なお危機が進行していることだ。
ところで、一体何が危機なのか。
ダダ宣言を書いたトリスタン・ツァラは新聞の記事を単語ごとにばらばらにして、帽子に入れてかき混ぜ、取り出した順に並べれば、ダダ詩ができるといっている。言葉は交換可能な記号に過ぎないという、言葉に対する徹底的な不信感。その一方で、ツァラは言葉をそれが生まれ出る状態に還さなければならないという。
不条理劇は、言葉とそれを発する身体が乖離している様を舞台に上げた。喋っている人間(身体)と喋っている言葉の意味が乖離し、しかも言葉は勝手に人間たちの間に、人間と物の間に関係を作り出す。言葉が勝手に作り出した関係と身体の間に裂け目が生まれる。そういった危機的な場を舞台上に出現させたのである。
人と人が面と向かって話し合っているとき、言葉の持つ役割は限られたものである。表情、イントネーション、相手の性格、言葉だけではなく色々な意味での前後関係、といったものの中で言葉は機能する。言葉が意味どおりにメッセージを伝達することもあれば、裏腹な意味を伝達することもある。あるいはまったく違ったメッセージを相手に伝えるてしまうこともある。言葉は身体性や場の関係の中で機能する。ところが、書き言葉になると言葉は言葉との関係の中で機能する傾向が強くなる。その言葉がどんな状況で、どんな性格の人によって発せられたかということよりも、言葉と言葉の意味の照合関係や文法や美学的な関係など、言語空間の中で機能するようになる。また、書き言葉は何度も読み返すことができるので、より精緻な文章を目指す傾向も強い。その結果、言葉は限定的なものではなく、あたかも現実そのものであるかのような役割を担い始める。活版印刷に始まるメディアの発達が、世界中に書き言葉を蔓延させた。視聴覚メディアの発達は音声も記録できるものとしたため、話し言葉もその場で消えるだけでなく、後々再生して参照できるようになった。話し言葉も書き言葉に近づいたのである。

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