2008年06月30日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』13

 言葉が本来持っていた身体性が失われ、書き言葉の要素が強くなり、言葉は理性を担うものとされていく。
 ところで、視覚は身体的な感覚でありながら、言葉に近い面をもっている。そもそも、文字は眼で読む。交通標識やさまざまなサインも眼で見て理解する。駅の路線図、看板、地図、カーナビ、レストランのメニュー、新聞、雑誌、携帯メール、書類、本、電光掲示板、ネオンサイン、都市の中で生活するとき、私たちはどれほど多くの形を変えた文字情報を、眼を通して収集しているか。夕陽や花など眼に見える物を感覚的に味わうよりも、はるかに多くのサイン、シンボル、文字情報の読み取りを行っている。
 いや、文字情報にのみ限定する必要はない。私たちは視野の中に上下右左を弁別し、前方と後方を分け、色を、形を、質感を、さまざまなものを分類する。音の記譜法といえば楽譜ぐらいだが、視覚情報は古来から粘土板や板や紙に記されてきた。伝達可能なものだった。視覚は感覚の中で最も言葉に近く、理性に近い。神の視点という言葉があるが、神は私たちを「視ている」のである。それは、理性の究極の比喩だろう。
 
 「眼は人間のどの器官より雄弁にイノセンスの喪失を反映し、眼はたちまちのうちに視野の分類を学びとり、眼は見る力を次第に失うことで死に向かいゆく人間の動きを鏡のように映し出す」
(スタン・ブラッケージ『視覚の隠喩』西嶋憲生訳) 

 
 文明は視覚中心で作られている。だが、視覚が常に活発に働くかというとそうでもない。赤ちゃんが猿の顔を見分けたように、言葉にたどり着くまでは視覚が活発にで活動する。だが、猿という概念(言葉)をもってしまうと、視覚はさほど活動しなくなる。概念(言葉)やその組み合わせで世界を理解しようとする。だが、言葉は世界ではない。世界模型に過ぎない。
 
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