「だが誰にも戻ることはできない、たとえ想像の中でさえ。イノセンスを失った後、ぐらつく軸の安定を保つのは知という至高者だけになる。だが、知の追求は言語だけとは限らない。視覚コミュニケーションに基づき、眼の心の発達を促し、本来の最も深い意味での知覚(perceptionの原義は『完全に理解する』)に頼る知もあるからだ」
(スタン・ブラッケージ『視覚の隠喩』西嶋憲生訳)
「想像してみよう。人がつくった遠近法の法則などに支配されない眼を」で始まり、この部分だけが一人歩きした感がある文章だが、実はほんの数行あとに、たとえ想像の中でもイノセンスに戻ることはできないと結論づけられているのだ。
問題はそのあとの、言語によらず視覚による知の追求という重大な提言である。これが『視覚の隠喩』のテーマであり、私が思うにブラッケージが生涯をかけて追求したことなのではないだろうか。そして、現在ますます重要性を増している課題のように思われる。
まず、言葉や知識に支配されない赤ん坊の無垢な視覚がある。次の段階として、言葉や知識に支配されたとは言い切らないにしても、その影響下にある私たちの視覚がある。この段階では、言語による知性が視覚情報を抽象化して統御している。言語による知の追求は、私たちが言葉を持ってしまった以上とめようがない。だが、身体を伴って発せられる現場から乖離し書き言葉化する言語は、人間との間に溝を作り出す。書き言葉に近づく視覚情報も。そこで、言葉によらない知の追求、視覚コミュニケーションに基づく知の追求が重要になってくる。
というぐあいに、まさに言葉による机上の空論としては理解できるのだが、言葉によらない視覚に基づく知とはいったいどんなものか。この気の遠くなるような難問にブラッケージは取り組んでいたのだろう。難問だが、しかしまったく思い当たらないわけではない。言葉でつかもうとするとすり抜けていくが、言語によらず感覚による統御を感じる時がある。感覚が言葉を超えてしまう瞬間。芸術作品の創作というものがうまくいくときは、すべてそうだといってもよいだろう。スポーツ選手にとってもなじみの瞬間だろう。非常に稀というわけでもない。人間の持つ可能性としては、普遍的なものかもしれない。そしてこういった瞬間こそ、知覚に頼る知の追求の入り口かもしれない。

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