2008年07月02日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』15

 言葉を持ってしまった私たちは、イノセンスに戻ることはできない。感傷的にいっているのではない。ものを考えるときに言葉を排除することの困難さを言っているのである。ブラッケージは、言葉によらない、知覚に頼る知を追求した。この恐ろしく困難な課題に生涯をかけて取り組んだ。答えは出なかったはずである。だからブラッケージは、いくつもいくつも作品を作り続けた。
 感覚が言葉を追い、言葉が感覚を追う。感覚を言葉がつかまえ、言葉を感覚が壊す。この螺旋運動がスタン・ブラッケージの生涯だったのではないだろうか。こう考えると、ブラッケージの作品のほとんどが言葉も音楽もないサイレントでありながら、ほとんどの作品について言葉で書き記している意味が、おぼろげながらわかってきたように思う。人間にとって言葉による知の追求は逃れられない宿命だが、知覚に頼る知の追求はそれに並行するように行われた。知覚と言葉を拮抗させながら、知覚に頼る知を追求し続けた。
 「知覚に頼る知」の追求は、幼年期への憧憬の中に宿る。だが、『幼年期の情景』とは、けっして戻ることのできない失われた知覚の原景である。
 ブラッケージは『視覚の隠喩』の中で、芸術家や聖人のヴジョン、幻覚、夢想や白昼夢や夢、眼を閉じて瞼を押したときの抽象模様など、焦点をあわせている視覚現象以外のものの影響も私たちは受けて入ることを指摘し、それを含めた奥深い世界を心の眼と呼んでいる。すぐに連想するのは、夢と現実が超現実の中で解消することを提唱したシュルレアリスムだが、ブラッケージはシュルレアリスムに対しては批判的である。「夢のまったく不満足な(象徴的に過ぎたる)視覚化だ」としている。夢の言語的な解釈を見て取っているのだ。

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