『幼年期の情景』を見て、4回位で感想をまとめようと思っていたのだが、16回もかかるとは。
読み返してみるとくどいばかりで、肝心なことは何も書いていないように思う。全体の構成も考えず、一日一日思いつくままに書きつづけた結果だ。とはいえ『ブラッケージアイズ2003ー2004』にかかわって以来、映画を作ったり見たりしながら、ずっと考えていたことをまとめることができた。
ブラッケージの映画を見ながら、スクリーンの上で起こることをメモしようと、何度か試みたことがある。まったく歯が立たなかった。意識はどんどん覚醒してくるのに、言葉はまったくついていけない。眼の前ではすばやく、あるいはゆっくりと変化が起こる。意識のスピードと言語のスピードのズレがもどかしい。もちろん、ある抽象化をおこなって言葉にすることは簡単だ。だが、ブラッケージの映画を眼にしながら現象を抽象化することは、肝心なものが抜け落ちてしまうように思う。とにかくジレンマに陥る。そして、駒と駒の隙間に入り込むこちらの意識。
人にブラッケージの映画について話そうとして、何を話していいのか、具体的にどんな映画なのかを説明できず、途方にくれてしまう。そんな経験をした人もたくさんいるだろう。そして、これがブラッケージ映画の本質にかかわる問題なのだと思えるようになって来た。
ブラッケージ映画を見て、スクリーン上で起きることを言葉で書ける人はいるだろうか。恩師の現代美術家、高山登さんはメルロ・ポンティなら書けるだろう、と言っていた。今回私が書いた文章も、スクリーンの上での出来事についてはほとんど書いていない。書けなかった。見た夢について話していると、だんだん見たときの感じと違うものになってしまうのに似ている。
無謀にも始めてしまったエスキースは、これで終わりにする。
また、思い立った時に書き始めるかもしれない。いずれにせよ、ブラッケージについてはこれからも考え続けることになる。
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