この数日間、スタン・ブラッケージについてあれこれ考えてきた。だが、ブラッケージについて考えた直後に、エミリー・ウングワレーの絵を目撃することができたのは絶好のタイミングだった。
先日、音楽家の大南匠さんと電話で話した。彼はスティーブ・ライヒの公演と『エミリー・ウングワレー展』を続けさまに体験して、ミニマルミュージックとアボリジニーアートとの違いを思い知ったというようなことをいっていた。電話のときは頭だけの理解でそりゃそうだろうなと思っていたが、実際に見て私もそのことを実感した。現代音楽ではなく、現代美術のミニマルアートやミニマリズムの諸作品と比較しても、その違いは大きい。これは平面ではない。
会場に入った瞬間、圧倒的な画面の大きさと異様な色の重なり具合に圧倒される。遠くから見ても、一点一点がまったく違って見える。一枚一枚の絵から、違った声が聞こえてくるようだ。会場は多声的な空間になっている。一枚一枚の絵に近づくと複雑な濃淡と奥行きを持ち、視線は空間のねじれの中をさまようことになる。
これだけだと、たとえば抽象表現主義の絵画との違いが感じられないかもしれない。チラシにも「抽象表現主義にも通じる極めてモダンなもの」とある。たしかにそうなのだが、現物を眼にすると違いは明白だ。その違いを何とか言葉にしてみよう。
近代から現代に至る美術では、絵画の中からできるだけ多くのものをそぎ落としていくという動向がある。そぎ落としたものの量が作品の凄みとなっている面もある。抽象表現主義は再現的なイメージを廃した。そこからさらに消去法を推し進めるとミニマリズムとなり、絵画は平面に向かう。どんどんそぎ落としていくと何もなくなってしまう。その直前で、ぎりぎりの核となるものがなにか。作家によって異なるが、それぞれの表現のよって立つところがある。ある画家は植物という具体的なイメージかもしれない。画家によっては成長であったり死であったり崇高さという抽象的なイメージかも知れない。あるいは、芸術という概念や制度かもしれない。そぎ落としていくことと、よって立つところのせめぎあいが作品に緊張感を生む。
画学生の頃、私は感覚的にはミニマリズムが好きなくせに、消去法に向かうミニマリズムの動向がいやでたまらなかった。窒息しそうに感じていた。
エミリー・ウングワレーの絵を見て、「消去」という意識はまったく感じられなかった。エミリーの点や線は直接的なもので、一度手に入れたものをそぎ落とすという屈折した考え方を経た結果の点や線ではない。書とフランツ・クラインの絵画の違いを思えばいい。
ゴーキーやポロックなど、抽象表現主義の絵画はミニマルではなく、複雑で多元的だが、再現的なイメージを極力廃し、消去によってギリギリのところまで突き詰めていく緊張感は共通している。また、現代美術家の創作の核となるものは、たとえイメージや概念という普遍的なものであっても、画家個人が抱え込まなければならない。それを支える文化的なフィールドがないのだから。エミリーの作品は、アボリジニの文化的伝統や大地やヤムイモといった、彼女を取り巻く自然と文化を背景にして生まれてきている。ミニマルの点や線が「必要最小限」ならば、エミリーの点や線は「必要最大限」なのだ。ミニマルにはギリギリの緊張感があるが、エミリーには余裕がある。背後から巨大なフィールドが支えている。
消去というプロセスを経ずに生まれてくる抽象。人間の根源的な抽象衝動、魅力的なテーマだが、そこで思い出すのがスタン・ブラッケージである。(言語によるのではなく)「知覚に頼る知」を目指したブラッケージは、言葉を覚える以前の子どもが見た「幼年期の情景」を、モデルとして構築しようとした。言葉を覚えたわれわれが絶対にそこに戻れないがゆえに。ここに、多くの近・現代芸術家がアフリカの彫刻やバリの音楽などのエスニックな文化、プリミティビズムに惹かれる姿が重なる。
スティイーブ・ライヒなどのミニマルミュージックもそのひとつだ。かれらは、エスニックな文化の考察から、ミニマリズムを作り出した。だが、これは彼らのアプローチであって、エスニックな世界がミニマルなのではない。ブラッケージは、エスニックな世界ではなく幼年期という個体発生上のプリミティビズムに着目した。ブラッケージの短編のいくつかは一見ミニマルだが、作品の総体はミニマルではなく多元的である。この点については、『ブラッケージアイズ2003−2004』のカタログで、映像作家の松本俊夫さんが次のように指摘している。文中の彼とはブラッケージのことである。
「彼は大部分の作家がその自律原理を感覚かイメージか概念か構造に求めて、その本質を排他的にミニマル化してゆく還元主義に突き進んだのに対して、そのような道を選んではいない。彼が全力投球で模索した世界は、上述したように作家がこだわる多元的な要素を力動的な関係の束として重層化してゆく方向である」
(『ブラッケージを振り返る』松本俊夫)
さらに「言いかえればそこにはモダン以後の世界が予感されている」とも指摘している。エミリー・ウングワレーの世界はモダン以後の世界ではない。モダン以前と呼ぶことは避け、モダン以外の世界と呼んでおく。そこには、ブラッケージが予感したモダン以後の世界と見まごうばかりの多元的な世界が実現している。
エミリーの絵を見た瞬間、ブラッケージに導かれてここに来たような錯覚にとらわれた。絵を見て久しぶりに芯から興奮した。ちょっと尻切れトンボのようにも思うが、このあとは言葉にせず一人で味わいたい。

ランキングに参加しています。ワンクリックお願いします。