2008年10月09日

『世界を売った男』

 学校に行くと、副手の大橋君がデヴィッド・ボウイのTシャツを着ていた。足を振り上げたポーズは『世界を売った男』だ。あの曲が無性に聴きたくなった。
 残念ながら『世界を売った男』のアルバムはいま手元にない。ただ、家にある2003年の『リアリティツアー』のDVDの中で『世界を売った男』を歌っている。家に帰ってさっそく見た、聴いた。
 もうここに映っているボウイもじいさんのはずだ。だが、パフォーマンスは若々しい。そしてもちろん歌そのものはむかしのままだ。
 10代のころ、はじめてデヴィッド・ボウイを聞いたときの「自分は何も持っていない」という感覚。ボウイの人工的できらびやかな音と言葉とヴィジュアルは、飾ると同時にそぎ落とす力を持っていた。
 様々なものをそぎ落とし、むき出しの身体で世界に向きあっている感覚になった。そのころは、「宇宙にたった一人で放り出されたような感覚」などといっていた。
 その感覚が蘇ったというわけではない。10代のころとはまったく違った感じで、何かがそぎ落とされ、『世界を売った男』という歌が見に染みてきた。
 
 もちろん、『世界を売った男』といったところで、サブプライムローンや金融危機とは何の関係もない。というより、私たちの存在にとってそんなものは何の関係もないのだ、という地点に引き戻された、のではなく押し出された。
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posted by 黒川芳朱 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 体感音楽論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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