おいらの言語嫌悪症とネットワーク嫌悪症がむくむくと首をもたげたせいだ。おまけにこの暑さでナマケ心がぶくぶくに肥大し、水分取りすぎで腹がぷよぷよになってきた。むくむくぶくぶくぷよぷよ。ぷ〜よ、ぷ〜よ、ぷよ、崖っぷちの子。子ってこともないか。
この間に映像に関するエッセイをある雑誌に書いた。一応依頼を受けて書いたのだが、入稿した後にもっと書き直したいような気になっている。まだ掲載誌は出ていない。
実はそこで書いたのは言葉と感覚の問題なのだが、これも実は言語嫌悪症、ネットワーク嫌悪症に関係があるのだ。
ちょっとわかりにくいかもしれないが、言語嫌悪症というのはこういうことだ。何か単語を書く、あるいは口にする。そうするとその単語が別の単語を引寄せ、何か意味のある文節のようなものになる。その文節のようなものはまた言葉を引寄せ、文章のようなものになる。このことが耐えられないくらい退屈なのだ。そこに習慣化した言葉の組み合わせや、言葉の持つ法則性によって言葉が言葉を引寄せ自己組織化し意味の体系をつくっていくさまが見えるとうんざりしてくる。まるで単語が納豆の粒のように糸を引いて見える。
たぶんおいらは、言葉によって考えるだけではなく、感覚によって考えることを欲しているのだ。
そして、言葉について言えば言葉と言葉がつながって意味を成すのではなく、言葉と言葉がぶつかって火花を散らすような状態を欲しているのだと思う。
ようするに、新しい芸術を、真新しいリアルを求めているのだということに、いまさらのように気づかされた。
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