以前から感じていたことだが、台風は日本人のイメージや世界観に大きな影響を与えているのではないだろうか。世界観という言葉は、いまややあんまり使いたくない言葉になってしまったが。
日本の戦争映画を見ると、戦争が災害のように描かれている。庶民は被害者で、赤紙一枚で戦場に送り出され、残された父や母や妻や子や内地で苦労し、やがて兵士は戦場から帰還する。場合によっては負傷し、トラウマをかかえ、あるいはお骨や形見の品だけとなって。庶民は戦争が過ぎ去っていくのをじっと耐えている。そんな描き方が多い。
そのことを意識したのは、エミール・クストリッツァ監督の『アンダー・グラウンド』を見たときのことだ。ユーゴスラビアという複雑な歴史を持つ国の現代史を寓話的に描いた作品だが、歴史の中で一般の民衆が加害者にも被害者にもなることを見事に暴き、それでいながら人間への深い愛情に満ちた傑作だ。
もうずっと前に亡くなった遠縁のおばさんがいる。これもとっくに亡くなった祖母に子どもの頃に聞いた話だと、戦前のことだがその遠縁のおばさんは政治家などの演説を聞いて、その内容が反戦的だったり政府に批判的だったりすると、官憲に「あの人は国家のためにならん」と告げ、官憲に「あなたは立派に人だ」と褒められたそうだ。祖母は彼女を尊敬していたように語った。餓鬼のおれは偉いおばさんだと思って聞いていたが、歴史を知るにつけてとらえ方も変わってきた。だが、子どもの頃親戚に遊びに行くと可愛がってくれたおばさんは、しっかり者の優しい人だったことに変わりはない。
庶民が単に戦争の被害者だったというとらえ方は、一面的過ぎるように思う。その結果戦争という人的災害が自然災害のように描かれてしまう。そこにある被害と加害という分裂した人間のあり方がすっぽりと抜け落ちてしまう。
そう考えたとき、戦争が台風のように描かれていることに気づいたのだ。空襲も、原爆も。
さらにいえば、『ゴジラ』に始まる怪獣映画も形を変えた台風映画だ。南の海からやってきて、日本に上陸し去っていく。
日本人は大きな変化や社会的な変動を、台風のようにとらえる習性があるのだろうか。自分がそこに加担して起きる出来事というよりは、どこからともなくやってきて日常生活をめちゃくちゃにし、通り過ぎていく。人々をそれをやり過ごす。
そう考えると、黒船もマッカーサーも台風のようにとらえていたような気もしてくる。もっとさかのぼって、元寇のときに吹いた神風も台風だ。
何の検証もしていない思い付きと連想だが、日本人のイメージに台風が深く関与しているのかもしれない。少し調べてみるか。
ところで、今回の総選挙は自然災害ではなく多くの人が加担したという実感を持った事件だった。
【関連する記事】