きのうも書いたが、時間が止まると人間やものの動きが止まる、ということが幼稚園児のおれにはよくわからなかった。たしか7歳年の離れた姉に説明してもらったのだが、どう説明されたのか覚えていない。
だが、わからなかった理由は今でもはっきりしている。時間が止まるという状態をみたことがなかったからだ。誰も見たことがない。となると、時間やそれが止まっている状態をなんらかの比喩で考えなくてはならない。幼稚園児には、そもそも時間というものがよくわかっていなかったのに、それをさらに何かに置きかえて考えるなんてむずかしかった。
当時は誰もが時間の中にしか存在していなかったのだ。
いま子どもに時間が止まるってどういうことと聞かれたら、DVDをポーズにすればよい。時間の早送りもできるし、逆再生にすれば時間をさかのぼることもできる。ビデオやDVDという時間の模型を手に入れことによって、われわれは時間を外から眺めることができるようになったのだ。
そういえば、と思いジョージ・パルの『タイムマシン』をビデオラックから引っ張り出した。1959年の作品だ。この映画のタイムトラベルのシーンが面白い。時間という目に見えないものをユーモラスに映像化している。
まず、タイムマシンなので空間的にはまったく動かないのに、自動車のような本体の後ろに風車のようなものが付いていて、タイムトラベルのレバーを倒すと回転を始める。なんだろう。この風車の回転は、時計のように循環する時間のアナロジーなのだろうか。それとも、単に運動感を出すための、ウゴイテルゾーという表現なのだろうか。ご丁寧にこの時シャンデリアや棚などの家具が少し揺れる。時空のねじれだろうか。
はじめ主人公はおっかなびっくり少しレバーを倒す。まわりの物が少しぼやけすぐにはっきり見える。映像技法的にはピン送り、ピントがボケてまた合う。室内は何も変わっていない。だが時計の針がずいぶん進んでいるし、ろうそくがずいぶん減っている。
天窓の外を雲が流れ、太陽が急速に移動し、星が移動し、朝焼けで太陽が現れ、といった変化を繰り返し、花が急速に咲く。今となっては時間表現の定番ともいえる映像だが、当時とても斬新だったことを思い出す。
面白いのは研究室の窓から見える向かいの家が洋服屋で、ショーウィンドウの中に立つマネキンの服装がどんどん変化することだ。着せ替えているシーンも何回もある。主人公は未来の服に「あれがドレスか」とあきれ、「マネキンが気に入った。私と同じで変わらないから」と共感を示す。太陽と花という自然現象でなく、人間の社会の変化をえがくモティーフがマネキンと服装というのはなかなかユーモラスで的確なアイディアだ。そして、実際の社会の歴史的な変化は、未来のある時点で主人公が家を出て町の人と会話する中で明らかになる。
絵画にしろ映画にしろ、映像メディアは見えないものを見えるように表現しようとしてきた。それは見えないものを擬人化したり物や動物に置き換えるアレゴリーという表現だったり、先ほどのろうそくの長さで時間を表現するように見える物の差異で見えないものを表現するやり方だった。
そこには当然無理もあるし、風車の回転のように一見それらしく見えるが実は関係ないものを、比喩を借りていたりすることも多々ある。ツッコミを入れながらこういってイメージをひとつひとつ丁寧に見ていくと面白い。