棒につけた撮影は、実験映画やビデオアートでも行われた。棒に付けたカメラは日常的な視覚の世界から一歩はなれ、身のまわりを新鮮な角度から映し出す。印象的な作品としては、トニー・ヒルの『ビュアーを持つ』がある。長い棒の先にカメラをつけ、部屋を出て、街中、ビルの屋上、浜辺などを歩く。棒を担いでいるのだがときどき立てたり振り回したりする。
日本のビデオアートでも佐々木成明の秀作がある。棒ではなくロープにカメラをつけて振り回したビデオアートの肉体派島野義孝も忘れられない。
どの作品も、まるで目ン玉が肉体から離れて浮遊しているような、だが重力や遠心力を濃厚に感じさせる視線の動きを定着した、どきどきする作品だ。棒やロープにつけたカメラを振り回すとただめまいがするが、そうならないための工夫が凝らされていた。
風呂場を盗撮した男は、棒にカメラをつけて日常と違った視覚を得ようと思ったわけではなく、見つからないように覗きたかっただけだろう。もっとも、見つからないように覗くということが、日常とは違った視覚ということもできる。この男は、相手に絶対見つからず風呂場を覗くことができたら、それで満足したのだろうか。それでもカメラで撮影し、繰り返し見たいと思っただろうか。
そういえば、むかし駄菓子屋で潜望鏡というおもちゃを売っていた。今もあるだろうか。15センチか20センチぐらいの筒の両側に鏡を付け、風景を反射させて見る。ほとんど顔の大きさと変わらないぐらいの長さなので、壁にでも隠れない限り「相手に見えないように相手を見る」という潜望鏡の役割は果たさない。だが、間接的にものを見ることはとても新鮮だった。
鏡に風景を反射させること自体、子どもの頃は面白かった。手鏡一枚でしばらく遊んでいられた。駄菓子屋や文房具屋には、よく小さな手鏡が売られていた。
だが、手鏡は階段などでの覗き犯の常套手段だ。いまはそれに、デジカメや携帯電話のカメラが加わる。手鏡、カメラ、これらは犯罪のために作られたわけではない。見ることへの根源的な欲望に結びついている道具だ。だからこそ犯罪とも結びつき易い。
秋葉原通り魔事件のとき、多くの人が事件現場を写メで撮っていたということが話題になった。犯罪者ではない人々がモラルを欠いた行動に出る。
似たような現象を目の当たりにしたことがある。横浜トリエンナーレで、田中泯さんが街頭で踊ったのを見に行った。馬車道を踊りながら移動していくのだが、駆けつけたギャラリーは泯さんのすぐそばまで寄り取り囲んだ。その距離1メートルもなく踊るスペースもない。そして一斉に写メを撮り出した。見るよりも写メなのだ。泯さんの街頭パフォーマンスは70年代から見ているが、かつての観客は必ずダンサーとの間に距離をとり、遠巻きに見ていた。また、前のほうにいる人は誰いうともなくしゃがんだり、中腰になって後ろの人が見えるようにしていた。
カメラつき携帯電話はいまやほとんどの人が持っている道具だ。おれも重宝している。実はおれもあの時馬車道で、一瞬手がポケットにのびそうになったのだが、まわりを見て恥ずかしくなってやめた。そして、考え込んでしまった。
そして、きのうの覗き犯。またまた考え込んでしまったのだが、今日も結論が出ないし、別に出す気もないのでここまで。