フィルムがなくなりそうだ、ということはずいぶん前からいわれてきた。写真界でも映画界でも。それから、あっあれが無くなった、これが無くなった、今度これが無くなるぞ、今のうちにあれを買っておかなきゃ、これを買っておかなきゃ、でも金がないなあ、ということが繰り返されてきた。
はじめは、80年代にコダックがスーパー8(コダックの8ミリフィルム)の高感度フィルムを廃止すると発表したときだった。このときは、みんなあせった。おれももうこの世の終わりかと思ったくらいだ。その後コダックが別のタイプの高感度フィルムを出し、結果的には現在スーパー8はシングル8よりフィルムの種類は豊富になっている。
だが、フィルムのシェアが確実に減っていることはまちがいない。カメラ屋に行くと歴然としている。フィルム用カメラのコーナーはどんどん小さくなっている。まだあればいいほうで、デジカメしか置いていない店のほうが多い。生フィルムのコーナーもどんどん小さくなっている。ない店もある。
中古カメラ屋に行くとビックリする。フィルム用のカメラがえらく安い値段で売られている。かつて名機といわれたカメラが、こんなんでいいのとこっちが恐縮してしまうような値段なのだ。うわ、これも安い、こんなのもある、メチャメチャお買い得だ、あれも買わなきゃこれも買わなきゃ、でも金がないなあ、ということになる。
もっとも、なかには中古の8ミリカメラをえらく高い値段で売っている店もあるが。
そんなこんなを繰り返しているうちに、われわれは危機に慣れてきてしまっているのではないか、いつかなくなることはしかたがないと思うようになってきているのではないか、ということをあらためてきのう思ったのだ。こうしてわれわれは受け身になっていくんだなあと思い、そのことにあせった。
「フィルム文化を存続させる会」を立ち上げたとき、存続とか保存といった保守的な姿勢でいいのかということが問題になったが、改めてそのことを問い直す必要を実感した。いや、問い直すなどといっている場合ではない。フィルムが消えていくならフィルムの価値を新しいものとして作り出していく必要がある。保存ではなく、ラディカルな存続のスタイルだ。
おれはとりあえずその価値を映画で作る出すことを考えよう。今、この時代にフィルムで撮る新しさを創造すること、とりあえず俺にできそうなことはこれだ。