使用するのはAvidという編集ソフトだが、ソフトの使い方を教えるだけではなく映像編集の文法のようなものも教える。この学校で受け持っているのはCGの勉強をしている学生たちなので、映画を学んでいる学生とは少し意識が違う。そのへんの、学生の興味の違いも教えていて戸惑ったり面白かったりするところだ。
今日はアクションつなぎやセリフの編集を学ぶための素材を撮影した。学生たちにちょっとした演技(というほどでもないが)をさせて、学生どうし撮影する。今日撮った素材をもとに、来週編集をする。
映画の文法といってもかなりルーズなもので、どこまで普遍性があるかは疑わしい。よく、音楽は国境を越えるとか、映画は国境を越えるといった言い方があるが、これもかなり疑わしい。映画は何日もあるいは何年もの出来事を90分とか、2時間とかに圧縮して描く。当然そこには時間や空間の省略がある。編集の仕事のひとつは、この時間と空間の省略をいかに実現するかにある。あるときは観客に意識させないように、あるときは省略していることを強調して。では、編集は誰にでも通じる普遍的な感覚に基づいているのだろうか。
テレビドラマにこんなシーンがあった。主人公が家のドアを開けて出かける。次のシーンでは、さっきの男がバーのドアを開けて入ってくる。よくある時間と空間の省略法だ。ある高名な映画評論家のご母堂様はそれを見て、「この人の家は便利だね。ドアを開けるとすぐバーになる」といったという。この話は示唆的だ。映画の編集というものが、そう信じられているほど感覚的なものではなく、慣習化した説話の方法の場合もある。
実は私の家はあまり映画を見に行く習慣がなく、高校生ぐらいまでは年に1、2本しか映画を見ることはなかった。高校生になって、よく映画を見るようになったが、はじめのころは映画の見方がわからなかった。その、省略法についていけず、違和感を持ったことを思い出す。
現在の映画の文法は、サイレント映画の時代にハリウッドを中心に作られた。つまりそれは、ある種の方言である可能性がある。
そして時々想像する。今の映画の文法がある種の方言だったら、まったく違った映画の文法もありうるはずだと。