今朝の10時ぐらいから、言葉が勝手に動き出してまとまり始めた。その感覚をちょっと記述するのは難しい。そして、完成した時、達成感はやってくる。
だが、映画や絵や立体を作ったときとは達成感が違う。映画や絵や立体は物としての手触りがある。同じ映像でもフィルムとビデオでは物質性において違いがある。フィルムは絵が物として見えるのに対して、ビデオは情報としてモニターやディスプレーでしか見れない。だが、それでも文章と比べるとずっと物質感がある。
映画や絵や立体は、ある瞬間からそれそのものが物として自己運動をはじめ、細部がどんどんどれに吸い込まれていく感じがある。きのうも書いたように、文章も特に原稿用紙で推敲を重ねるうち、じょじょにそれ自体が自立し単語を吸い込んでいくようになる。
だが、やはり達成感に違いがある。言葉は何処までも抽象的で、ものの手触りがない。完成に近づくにしたがって徐々にあるまとまりを形作り、無駄なものを排除し始める。そのまとまりにある種の手触りはあるが、観念とかシステムとかの手触りだ。手触りのない手触り。仮構の手触り。
言葉はやはり宇宙から来たヴィールスか。
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