2009年09月23日

「アニメの殿堂」建設中止だってさ

 朝日新聞の朝刊によると、川端達夫文部科学相が「国立メディア芸術総合センター」の建設を中止すると発表した。ハコ物をやめてメディア芸術全体の振興策を検討しなおすよう事務方に指示したという。
 麻生政権の最後っ屁政策について云々する気はない。そもそも、せっかく元気のいいマンガやアニメが国の保護を受けてどうなるのだろうという思いがあった。
 歌舞伎のようになるのか、相撲のようになるのか。マンガやアニメやゲームはそれを求めているのか。
 国と芸術についてはよく考える必要がある。文化助成が必ずしも芸術を発展させるとは限らない。だが、芸術は多くの場合国家権力と結びつくことで継続してきた。芸術と権力の関係は、複雑で一筋縄ではいかないのだ。
 少なくとも、芸術史は権力に結びついた芸術についての物語だ。劇的な変化は国家権力とはかけ離れてところで起きたとしても、それを芸術史に飲み込み、維持発展させてきたのは権力のバックアップがあってのものだ。有形の芸術についてはこういって間違いないだろう。ルーヴル美術館を見るとそのことを思い知らされる。
 その陰で、消えて行った絵や彫刻や工芸品は膨大な量だ。有形の芸術ですらほとんどは消えていく。ましてや無形の芸術、歌や器楽や踊りはごくわずかなものだけが、かろうじて継承されながら残っている。無形の文化の継承に権力のバックアップがあることもある。それとは無縁に、民衆の中で継承されてきたものもある。
 ところで、そうして継承された歌や踊りが、本当にむかしと同じであるかは誰もわからない。
 権力と結びついた芸術が硬直し形式化しやすいことも事実だが、権力と結びつかない芸術が消えて無くなりやすいのも事実だ。もちろん、歴史の中にはどちらの例外も多々ある。
 数週間前にノーマン・マクラレンのDVDを見直したのだが、今なお新しい感動がある。イギリス生まれのノーマン・マクラレンは1941年、カナダに設立された国立映画制作庁長官の招きで、アニメーション部門の責任者として赴任する。映画を作る官庁だ。そして、たくさんの名作を作り、多くの作家を育てた。DVDの中には政府の政策の宣伝のための作品も入っている。公共CMだ。DVDを見ながら、ふと「アニメの殿堂」という言葉がちらりと頭をかすめた。マクラレンの映画はけっして権力的な作品ではない。自由で、アヴァンギャルドで、それでいたユーモラスで、多くの人が楽しめる作品だ。だが、マクラレンがカナダの国立映画制作庁に職を得ていなかったら、これほど多くの作品は残っていなかったかもしれない。少なくとも、作品の傾向はこれほど多岐に渡ることはなく、ある程度の映画制作のシステムを必要とするような作品は生まれなかっただろう。
 私が敬愛する映画作家スタン・ブラッケージは、作品数はたくさんあるが、貧乏人でも作れるようなタイプの作品だった。ただし、あの本数を作るんのは大変だったろう。生涯生活は苦しかったようである。
 国立メディア芸術総合センターとか、メディア芸術全体の振興策といわれても曖昧模糊としていて、ピンとこない。そもそもメディア芸術は文科省の管轄なのか、それとも経済産業省の管轄なのか。
 文化助成を求める声は、現代美術や音楽の世界でも昔からあった。たしかに、欧米と比べて日本の現代芸術への助成は貧弱だ。だが、欧米から来る現代美術や実験映画を見ると、年末の道路工事のように、助成金貰ったから予算消化するために創りましたといった感じの作品が多々ある。その点、日本の作品はギリギリで作られているせいか緊張感があるものも多い。助成があながち作品にいい結果をもたらすとはいえない。
 特に結論はない。この問題については、たぶんいつ書いてもこんなことになるだろう。芸術はいつの時代も矛盾真っ只中にいる。生きる原動力は矛盾であり、矛盾の凝縮こそが芸術なのだ。
posted by 黒川芳朱 at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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