授業終了後、夜の8時から中野富士見町のplan-Bで石原志保さんの踊りを見た。踊りの具体的な描写は避け、見ながら感じ考えたことを書く。
顔や体の表情が刻々と変わる。まるで表情という皮膚を剥いでいくように。だが、顔で表情を作っているわけではない。むしろ実際の表情は変わらないぐらいだ。変わっているのは、見ている俺の中に浮かんでくる言葉なのだ。言葉はサングラスのように視野を染め上げる。だが、言葉が浮かぶのは人間として当然のことだろう。浮かんできた言葉から自由になるように見続けること、見る楽しみはここにある。
しばらく見ているうちに、「ずれ」という言葉が浮かんできた。様々な「ずれ」が眼の前で起きているようだ。
この「ずれ」は失敗を意味してはいない。運動が起これば、当然そこにずれや摩擦が起きる。集団での演奏や演劇などのアンサンブルは、「ずれ」の応酬ともいえる。様々なのものが入り込む余地でありゆらぎでもある。
「ずれ」という言葉が浮かんだあとに、要素という言葉が浮かんできた。要素と要素の間に「ずれ」が生じる。「ずれ」という言葉は要素という言葉を前提に用意させようとする。だが、果たして要素などあるのか。すべては運動であり、「ずれ」こそが実体ではないのか。要素とは仮想のものではないかという思いが浮かぶ。要素という言葉は消え、五感はさまざまな「ずれ」を感じる。この「ずれ」を自分のうちで編纂すること。このとき、自分がその場で起きている出来事に加わっていく。
踊りを見ることが鑑賞にはならず、運動として成立した夜だった。
振り付けの田中泯さん、恩師の美術家高山登さん、スーザン・ソンタグの翻訳書が出たばかりの木幡和枝さんとも久しぶりに話すことができた。
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