2009年10月21日

『残虐記』を読んだ

 きのうのことになるが、桐野夏生の『残虐記』を読み終えた。18日、白州に向かう列車の中で何か読もうと新宿駅構内の書店で、薄めの本を探した。久し振りに小説が読みたかった。
 自分ではあまりストーリーのある映画を作らないが、実はストーリーものが嫌いではない。何よりもあの時間を忘れる感じが好きだ。だから土曜ワイド劇場のようなドラマも、暇だとつい見てしまう。
 で、『残虐記』はどうだったかというと、面白かった。どう面白かったかというと、これがやっかいだ。どこまでこの物語を信じていいのか途方にくれるような物語であり、そこが面白かった。物語が作り話であることは当然である以上、普通は物語を信じる必要はない。お話として楽しめばいいのだ。だが、この物語はそこが一筋縄では行かない。
 著名な女流作家が、自分は子どもの頃少女誘拐監禁事件の被害者だったという手記を残して失踪してしまう。
 小説は、その作家の夫を名乗る人物が、彼女の担当編集者だった男に向けて書いた手紙から始まる。手紙によれば、作家は二週間前に失踪し、ワープロのそばにプリントアウトして原稿があり、手紙の相手である編集者に送ってくださいとポストイットが貼ってあった。そしてその手紙に、残されていた原稿『残虐記』が続く。『残虐記』の冒頭には、誘拐監禁事件の犯人から作家へあてた手紙が付されている。犯人は去年刑務所を出たといいます。それに作家自身が体験した誘拐監禁事件の詳細が記される。そして、最後にまた、担当編集者に向けた夫と名乗る男の手紙が続き終わる。
 奇妙なのは、手記の中で作家は自分は独身だといっていることだ。だとすると、この作家の夫を名乗る男は何者か。夫の手紙と本人の手記と、犯人の手紙の関係が、根本的に成り立たなくなる。全てはこの男の妄想であり、捜索かもしれない。小説はもちろんフィクションだが、読者はそのフィクションをある仮想された位置から仮想された角度で眺め受け入れる。そのことが成り立たない小説。
 物語をどこまで信じていいかというのはこのことである。
 この不確定な関係は、リアルだ。
posted by 黒川芳朱 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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