『小学五年生』や『小学六年生』は学習雑誌と呼ばれてきたが、子どもの総合雑誌ともいえる。大人の世界でも同じだが、趣味やニーズが多様化し、メディアも多様化した時代に総合雑誌は人気がないらしい。
俺は、低学年の頃『小学○年生』をとっていた。『小学二年生』には『二年ねたろう』という白土三平の漫画があった。あと、横山光輝の『鉄のサムソン』というロボット漫画も覚えている。『二年ねたろう』は絵がかわいくて大好きだったが、題名の意味がよくわからなかった。もう少し大人になって、『三年寝太郎』という民話があることを知った。小学二年生対象の学習雑誌だからそれをもじってこんな題名をつけたという大人の事情がわかれば何ということのない題名だが、まさに小学二年生にはさっぱり意味のわからない題名だった。はじめは小学二年生の自分にひきつけ、大人が主人公に「もう二年生ね、太郎」といっているのかと思った。でも時代劇だし、主人公は学校に行っているわけでもない。謎だった。
他には、学研の『学習』と『科学』があり、これもとってもらった。『科学』は付録が本格的な実験器具や観測器具だったのが魅力だった。高学年になると『小学五年生』も『小学六年生』もとらず漫画雑誌『少年』をとってもらった。『学習』と『科学』はどうしたか覚えていない。
『少年』は『鉄腕アトム』と『鉄人28号』が連載されていた。それだけで輝いていたが、他にも『ストップ兄ちゃん』など面白い漫画がたくさん載っていた。漫画雑誌だったが読み物も多く、付録に雑学の手帳のようなものが毎号ついていた。『少年』の組み立て付録は構造がこっていた。戦艦を機関銃で撃つと戦艦が真っ二つに割れるというような複雑な模型を、紙と割りピンと輪ゴムだけで毎号作るのだ。単なる漫画雑誌というより、総合雑誌の趣があった。
中学に入ると『中1コース』『中1時代』という2冊の雑誌があった。学習雑誌の場合、学校での授業の進行と並行するように学習関係の記事が組まれており、参考書の役割も果たしつつ、漫画や小説、さらに中学生の男女交際はどうあるべきかというような記事もあった。
学習雑誌は学年が上がるのと並行して、雑誌もいっしょに2年生や3年生に繰り上がってくれているという実感があった。記事の中に継続するものがあったかどうか覚えていないが、学校の先生の何人かがいっしょに繰り上がってくれるように、雑誌も成長を見守ってくれている感じがした。2年生になって『中1コース』を見ると自分の知っている『中1コース』と漫画や小説が違い、違和感を持ったりした。
もう何年も前から、マーケティングの世界では大衆から分衆へというようなことが言われている。個人の好みや趣味関心が多様化し、十把一絡げにとらえられなくなっているというわけだ。たとえば歌謡曲でも老若男女誰もが口ずさむ歌というものがほとんどなくって久しい。美空ひばりのような国民的歌手という存在がいない。ジャンルの名称そのものが歌謡曲とJ-POPに分かれている。お年よりは安室奈美恵を聞かないし、うんと若い子もまた聞かない。ある限られた世代のアイドルだ。
総合学習雑誌が難しいことはわかる。わかるのだが、自分自身の成長過程を考えると、学習記事もあり、スポーツもあり、漫画もあり、小説もあり、付録もあり、という雑誌のあり方は「総合」という概念を形成するのに一役買ってくれたような気がする。「総合」と名づけられたメディアがなくなり、パーツだけになっていく。それはそういう流れなのだろう。いろいろなものを自分で体験して楽しみつつも「総合」という概念を形成するメディアがなくなっていくのかなあ、と思ってしまう。「総合」という概念はまだまだ重要に思うのだが。