2008年07月04日

ブラッケージ補遺

 ずいぶん長くかかってしまった。
 『幼年期の情景』を見て、4回位で感想をまとめようと思っていたのだが、16回もかかるとは。
 読み返してみるとくどいばかりで、肝心なことは何も書いていないように思う。全体の構成も考えず、一日一日思いつくままに書きつづけた結果だ。とはいえ『ブラッケージアイズ2003ー2004』にかかわって以来、映画を作ったり見たりしながら、ずっと考えていたことをまとめることができた。 
 ブラッケージの映画を見ながら、スクリーンの上で起こることをメモしようと、何度か試みたことがある。まったく歯が立たなかった。意識はどんどん覚醒してくるのに、言葉はまったくついていけない。眼の前ではすばやく、あるいはゆっくりと変化が起こる。意識のスピードと言語のスピードのズレがもどかしい。もちろん、ある抽象化をおこなって言葉にすることは簡単だ。だが、ブラッケージの映画を眼にしながら現象を抽象化することは、肝心なものが抜け落ちてしまうように思う。とにかくジレンマに陥る。そして、駒と駒の隙間に入り込むこちらの意識。
 人にブラッケージの映画について話そうとして、何を話していいのか、具体的にどんな映画なのかを説明できず、途方にくれてしまう。そんな経験をした人もたくさんいるだろう。そして、これがブラッケージ映画の本質にかかわる問題なのだと思えるようになって来た。
 ブラッケージ映画を見て、スクリーン上で起きることを言葉で書ける人はいるだろうか。恩師の現代美術家、高山登さんはメルロ・ポンティなら書けるだろう、と言っていた。今回私が書いた文章も、スクリーンの上での出来事についてはほとんど書いていない。書けなかった。見た夢について話していると、だんだん見たときの感じと違うものになってしまうのに似ている。
 無謀にも始めてしまったエスキースは、これで終わりにする。
 また、思い立った時に書き始めるかもしれない。いずれにせよ、ブラッケージについてはこれからも考え続けることになる。

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2008年07月03日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』16

 シュルレアリスムに対する批判的な立場は、1950年代のアメリカの視覚芸術家に共通した姿勢でもある。とくに、この時代の画家たちにとって、キュビズムとシュルレアリスムの影響からいかに脱出するかが重要な問題だった。50年代に作家活動を始めたブラッケージも、同時代の精神を共有していただろう。 
 ブラッケージを、夢の象徴的過ぎる視覚化から引き離したのはもうひとつの要因は、「閉じた眼のヴィジョン」とブラッケージが呼んでいる、眼をつぶって瞼を押したときに見える抽象模様へのこだわりだったかもしれない。さまざまな発言を見ると、ブラッケージは相当強烈な閉じた眼のヴィジョンを見ていたようだ。
 1986年以降本格的に取り組むようになった「ハンドペインティッドフィルム」は、閉じた眼のヴィジョンを描いたことがきっかけであるとブラッケージ自身が語っている。(キース・グリフィス監督『ABSTRACTCINEMA』)
 だが、処女作発表の2年後、1954年の『The Way to Shadow Garden』には、すでに閉じた眼のヴィジョンを思わせるイメージが登場している。そして、ブラッケージのフィルモグラフィのあちこちに、閉じた眼のヴィジョンやそれらしきものが現れる。
 また、ピントをはずしたり、露出を極端に絞り込んだり、開けたり、カメラを振って映像を流したり、カメラを使いながらまともに撮影するのではなく、具象から抽象へと独特の方法で映像を崩していくやりかたも、閉じた眼のヴィジョンへ接近だったように思えてくる。
 ブラッケージの映像には、皆無ではないが象徴的、文学的なイメージが少ない。きわめて視覚的なイメージである。具象から抽象へ、自由に変化するヴィジョンだ。だが、キネティックアートやオップアート的な光学的イメージとは違うし、幾何学的抽象でもない。独特の運動感があるが未来派的な運動ではなく、眼球運動や動体視力といった言葉に近い身体感覚だ。そして、閉じて眼のヴィジョンもまた、身体から発してくる抽象イメージである。
 瞼の裏の光景が、ブラッケージをシュルレアリスムから遠ざけ、あの美しく分節を拒絶した映画群の創造に向かわせたのだとしたら、なんと魅力的なことだろう。
 言葉が書き言葉化し、視覚情報や聴覚情報が言語化していく今、身体性の復権が重要な課題となっている。そのために知覚の初源に遡ることが一つの活路であるように見える。だがイノセンスに戻ることが不可能である以上、身体性の復権は知覚に頼る知の追求という前進的な方向に二重写しにならざるをえない。初源の極へと向かう意識は、同時に人工の極へと向かう。ブラッケージはこの困難な道を、瞼の裏のイメージを頼りに進んでいったのかもしれない。
 知覚と言葉を拮抗させたブラッケージの未完の意志は、今なお私たちを挑発する。

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2008年07月02日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』15

 言葉を持ってしまった私たちは、イノセンスに戻ることはできない。感傷的にいっているのではない。ものを考えるときに言葉を排除することの困難さを言っているのである。ブラッケージは、言葉によらない、知覚に頼る知を追求した。この恐ろしく困難な課題に生涯をかけて取り組んだ。答えは出なかったはずである。だからブラッケージは、いくつもいくつも作品を作り続けた。
 感覚が言葉を追い、言葉が感覚を追う。感覚を言葉がつかまえ、言葉を感覚が壊す。この螺旋運動がスタン・ブラッケージの生涯だったのではないだろうか。こう考えると、ブラッケージの作品のほとんどが言葉も音楽もないサイレントでありながら、ほとんどの作品について言葉で書き記している意味が、おぼろげながらわかってきたように思う。人間にとって言葉による知の追求は逃れられない宿命だが、知覚に頼る知の追求はそれに並行するように行われた。知覚と言葉を拮抗させながら、知覚に頼る知を追求し続けた。
 「知覚に頼る知」の追求は、幼年期への憧憬の中に宿る。だが、『幼年期の情景』とは、けっして戻ることのできない失われた知覚の原景である。
 ブラッケージは『視覚の隠喩』の中で、芸術家や聖人のヴジョン、幻覚、夢想や白昼夢や夢、眼を閉じて瞼を押したときの抽象模様など、焦点をあわせている視覚現象以外のものの影響も私たちは受けて入ることを指摘し、それを含めた奥深い世界を心の眼と呼んでいる。すぐに連想するのは、夢と現実が超現実の中で解消することを提唱したシュルレアリスムだが、ブラッケージはシュルレアリスムに対しては批判的である。「夢のまったく不満足な(象徴的に過ぎたる)視覚化だ」としている。夢の言語的な解釈を見て取っているのだ。

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2008年07月01日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』14

 ブラッケージは、言葉、特に書き言葉に近くなった視覚の世界を捨て、イノセンスに戻ろうというのか。だが、先に引用した文章は次のように続く。
 
 「だが誰にも戻ることはできない、たとえ想像の中でさえ。イノセンスを失った後、ぐらつく軸の安定を保つのは知という至高者だけになる。だが、知の追求は言語だけとは限らない。視覚コミュニケーションに基づき、眼の心の発達を促し、本来の最も深い意味での知覚(perceptionの原義は『完全に理解する』)に頼る知もあるからだ」
(スタン・ブラッケージ『視覚の隠喩』西嶋憲生訳)
   
 「想像してみよう。人がつくった遠近法の法則などに支配されない眼を」で始まり、この部分だけが一人歩きした感がある文章だが、実はほんの数行あとに、たとえ想像の中でもイノセンスに戻ることはできないと結論づけられているのだ。
 問題はそのあとの、言語によらず視覚による知の追求という重大な提言である。これが『視覚の隠喩』のテーマであり、私が思うにブラッケージが生涯をかけて追求したことなのではないだろうか。そして、現在ますます重要性を増している課題のように思われる。
 まず、言葉や知識に支配されない赤ん坊の無垢な視覚がある。次の段階として、言葉や知識に支配されたとは言い切らないにしても、その影響下にある私たちの視覚がある。この段階では、言語による知性が視覚情報を抽象化して統御している。言語による知の追求は、私たちが言葉を持ってしまった以上とめようがない。だが、身体を伴って発せられる現場から乖離し書き言葉化する言語は、人間との間に溝を作り出す。書き言葉に近づく視覚情報も。そこで、言葉によらない知の追求、視覚コミュニケーションに基づく知の追求が重要になってくる。
 というぐあいに、まさに言葉による机上の空論としては理解できるのだが、言葉によらない視覚に基づく知とはいったいどんなものか。この気の遠くなるような難問にブラッケージは取り組んでいたのだろう。難問だが、しかしまったく思い当たらないわけではない。言葉でつかもうとするとすり抜けていくが、言語によらず感覚による統御を感じる時がある。感覚が言葉を超えてしまう瞬間。芸術作品の創作というものがうまくいくときは、すべてそうだといってもよいだろう。スポーツ選手にとってもなじみの瞬間だろう。非常に稀というわけでもない。人間の持つ可能性としては、普遍的なものかもしれない。そしてこういった瞬間こそ、知覚に頼る知の追求の入り口かもしれない。

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2008年06月30日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』13

 言葉が本来持っていた身体性が失われ、書き言葉の要素が強くなり、言葉は理性を担うものとされていく。
 ところで、視覚は身体的な感覚でありながら、言葉に近い面をもっている。そもそも、文字は眼で読む。交通標識やさまざまなサインも眼で見て理解する。駅の路線図、看板、地図、カーナビ、レストランのメニュー、新聞、雑誌、携帯メール、書類、本、電光掲示板、ネオンサイン、都市の中で生活するとき、私たちはどれほど多くの形を変えた文字情報を、眼を通して収集しているか。夕陽や花など眼に見える物を感覚的に味わうよりも、はるかに多くのサイン、シンボル、文字情報の読み取りを行っている。
 いや、文字情報にのみ限定する必要はない。私たちは視野の中に上下右左を弁別し、前方と後方を分け、色を、形を、質感を、さまざまなものを分類する。音の記譜法といえば楽譜ぐらいだが、視覚情報は古来から粘土板や板や紙に記されてきた。伝達可能なものだった。視覚は感覚の中で最も言葉に近く、理性に近い。神の視点という言葉があるが、神は私たちを「視ている」のである。それは、理性の究極の比喩だろう。
 
 「眼は人間のどの器官より雄弁にイノセンスの喪失を反映し、眼はたちまちのうちに視野の分類を学びとり、眼は見る力を次第に失うことで死に向かいゆく人間の動きを鏡のように映し出す」
(スタン・ブラッケージ『視覚の隠喩』西嶋憲生訳) 

 
 文明は視覚中心で作られている。だが、視覚が常に活発に働くかというとそうでもない。赤ちゃんが猿の顔を見分けたように、言葉にたどり着くまでは視覚が活発にで活動する。だが、猿という概念(言葉)をもってしまうと、視覚はさほど活動しなくなる。概念(言葉)やその組み合わせで世界を理解しようとする。だが、言葉は世界ではない。世界模型に過ぎない。
 
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2008年06月29日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』12

 言葉の危機ということが言われ出してから、どのぐらい経つのだろう。
 言葉の危機を舞台で展開した不条理劇が1950年代、「ダダは何も意味しない」というのは『ダダ宣言1918年』、もう少しさかのぼって、20世紀に入った頃には潜在的に言葉の危機を感じていた人々はいたのだろうか。問題は、それがいつからかということよりも、今なお危機が進行していることだ。
 ところで、一体何が危機なのか。
 ダダ宣言を書いたトリスタン・ツァラは新聞の記事を単語ごとにばらばらにして、帽子に入れてかき混ぜ、取り出した順に並べれば、ダダ詩ができるといっている。言葉は交換可能な記号に過ぎないという、言葉に対する徹底的な不信感。その一方で、ツァラは言葉をそれが生まれ出る状態に還さなければならないという。
 不条理劇は、言葉とそれを発する身体が乖離している様を舞台に上げた。喋っている人間(身体)と喋っている言葉の意味が乖離し、しかも言葉は勝手に人間たちの間に、人間と物の間に関係を作り出す。言葉が勝手に作り出した関係と身体の間に裂け目が生まれる。そういった危機的な場を舞台上に出現させたのである。 
 人と人が面と向かって話し合っているとき、言葉の持つ役割は限られたものである。表情、イントネーション、相手の性格、言葉だけではなく色々な意味での前後関係、といったものの中で言葉は機能する。言葉が意味どおりにメッセージを伝達することもあれば、裏腹な意味を伝達することもある。あるいはまったく違ったメッセージを相手に伝えるてしまうこともある。言葉は身体性や場の関係の中で機能する。ところが、書き言葉になると言葉は言葉との関係の中で機能する傾向が強くなる。その言葉がどんな状況で、どんな性格の人によって発せられたかということよりも、言葉と言葉の意味の照合関係や文法や美学的な関係など、言語空間の中で機能するようになる。また、書き言葉は何度も読み返すことができるので、より精緻な文章を目指す傾向も強い。その結果、言葉は限定的なものではなく、あたかも現実そのものであるかのような役割を担い始める。活版印刷に始まるメディアの発達が、世界中に書き言葉を蔓延させた。視聴覚メディアの発達は音声も記録できるものとしたため、話し言葉もその場で消えるだけでなく、後々再生して参照できるようになった。話し言葉も書き言葉に近づいたのである。
 

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2008年06月28日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』11

視覚と言語
 ブラッケージは言葉を否定していたのか。 
 作品のほとんどがサイレントであること、「緑色なんて知らずに這っている赤ん坊の眼には草の上にどれほど多くの色があることか」という言葉などから、ブラッケージは言葉を捨て、赤ん坊の純粋な視覚を復権しようとしていたように思われるかもしれない。だが、ブラッケージは視覚の人であると同時に言葉の人でもあった。
 ブラッケージは長・短取り合わせて400本あまりの作品があるが、ほとんどの作品を言葉で解説している。初期の傑作といわれる『夜への前ぶれ』は、一見そこらでカメラを振り回し即興的に撮ったものをあとから編集したかのように見えるが、この作品にもシノプシスといってもよい文章がある。緻密で詩的な文章だ。そして、作品もよく見ると緻密に構成されている。撮影は即興的に行ったのだろうが、この文章はイメージの核があったことを示している。文章が映画完成の前に書かれたのか、後に書かれたのかはあまり問題ではない。
 ブラッケージには「ハンドペインティッドフィルムス」と呼ばれる作品群がある。フィルムに直接絵具で絵を描き、プリンターで駒数を変えるなどして再撮影した抽象絵画のような映画である。これらの作品にも言葉による解説がある。たとえばこんな具合だ。「まだら模様の地面や岩の姿や根のような形が現れては、一瞬静止しながらも青光りする緑や青の間を中へ上へ水平方向へどんどん吸い込まれていく」(『Earthen Aerie』)、「浮き彫りのように描かれた身体の部位が、次第に絡んでは離れ、結合を繰り返す。多彩に色づけられた卵型のものの周りで何度も爆発しては黒い精子の姿になる濃い輪郭線は、表情豊かに描かれた性器と織り合わさっていく」(『Love Song』)。二つ目の解説など、まるで具象的に性器や精子が描かれているように読めるが、映画自体は抽象的な映像である。(ともに『ブラッケージ・アイズ2003−2004』カタログより)
 一見取り止めのない映像の羅列に見える映像作品が、実は言葉によってしっかりと造形されていた。「緑色なんて知らずに」という言葉は、言葉を否定しているように見えて、これ自体がまさに言葉である。この言葉は『視覚の隠喩』というエッセイの中の一節だが、ブラッケージの視覚と言葉に対する立場を考える上でとても重要な文章である。

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2008年06月27日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』10

 以前にNHKが放送した『赤ちゃん 〜成長の不思議な道のり〜』(NHKスペシャル)という番組の中で、興味深い実験が紹介されていた。赤ちゃんが、どれだけ正確に顔を見分けているのかを調べる実験である。
 椅子に座り眼の前のモニターを見る。モニターに男の顔が写る。しばらくして別の男の顔があらわれ、前の顔と左右に並ぶ。このとき、視線はどこに集中するか。次に一匹の猿の顔が現れる。しばらくするともう一匹猿が現れ、二匹が左右に並ぶ。このとき、視線はどこに集中するか。これを、生後半年ほどの赤ちゃんと大人で実験する。
 対象が人間の場合、視線は二人の顔の上を行き来するが、新しい男の方に長くとどまる。これは、大人も赤ちゃんも同じだった。つまり、赤ちゃんは大人と同じように二人の顔を識別しているのだ。
 次に猿の写真を見せたときはどうだろうか。大人は二匹の猿を同じように見る。区別している様子がない。ところが赤ちゃんは、人間の顔のときと同じように新しい顔に集中し、二匹の猿の顔を識別しているのだ。大人の被験者はインタビューに答え、「猿はどちらも同じ」「サルのほうが区別しずらい」と答えている。
 大人は猿とわかった段階で興味を半減させているのに対し、赤ちゃんは人の顔と同じように注意深く観察しているのだ。大人は猿という概念によって、見る対象としての興味を失ってしまう。赤ちゃんは見ることへの欲求が持続する。
 実験を行ったイギリスの心理学者オリビエ・パスカリスは、猿の顔を見分けることにおいては、大人より赤ちゃんの方が勝っている、眼が二つ口と鼻が二つの顔ならどんな顔でも赤ちゃんは見分けるだろうと結論付けている。ブラッケージが語る「ものの名前にただ反応するのではなく、生の中で出会うものたちを視覚の冒険を通して知っていく眼」だ。
 この優れた識別能力はいつごろから大人のように劣ってしまうのだろうか。幼年期の終わり、学校に上がる頃だろうか。番組では衝撃的なデータを紹介していた。それよりずっと早く、生後9ヶ月を過ぎると、猿の顔ひとつひとつの識別が曖昧になってくるのである。
 赤ちゃんの成長過程では、認知能力や運動能力が必ずしも右肩上がりで成長するのではなく、一度後退することがしばしばあるという。番組ではこれを、「できることをいったん減らして、新たな飛躍にそなえる」と解説していた。
 それにしても、生後九ヶ月とはなんと早い時期に、「視覚の冒険を通して知っていく眼」は失われてしまうのだろう。
 比較行動学者正高信男の『子どもはことばをからだで覚える』(中公新書)という本の中にも、九ヶ月という数字が出てくる。これは、生まれたばかりの赤ん坊がどのようにして言葉を習得するのかを描き出す、実に刺激的な本である。ブラッケージがいうところの「緑色なんて知らずに這っている赤ん坊」が、ものの名前を覚えるプロセスが明らかにされるのだ。
 正高は、われわれが赤ちゃんのとき、「周囲から入力される情報は最初、メロディとしてやってくる」という。そのメロディから特定の音素の組み合わせを切り出し、記憶する。語彙の記憶である。いったん語彙の記憶ができ、あとからそれを喋るようになる。そして語彙の記憶が生まれると、メロディには注意を払わなくなる。その時期がちょうど生後九ヶ月だというのだ。
 素人考えは避けるべきだろうが、生後九ヶ月という時期に、どうしても因果関係を詮索したくなるような二つの出来事が起きている。一方で、メロディという流れから語彙を切り出し流れは捨てる。もう一方で、猿の顔の識別が曖昧になる。これは、人間と猿という分類が、赤ちゃんの中で生まれたことを意味するのだろうか。
 一般論として、人間のものの見方が感覚を通した詳細な観察から、概念的な把握へ移行するということはいえる。そして、概念(言葉)の誕生の背後には非常に豊かな感覚体験があったのだということも。
 これらの事例を引くことによって、私はブラッケージの正しさを実証しようとしたわけではない。
 何度もくりかえすが、『幼年期の情景』は言葉を知らない時期、言葉を覚え始める時期、言葉を覚えた時期の人間の知覚や認識を映画で再現しようとした映画といえるだろう。ブラッケージ自身が「胎児、赤ん坊、子供の内的世界の視覚化」と言っている。
 ブラッケージがなぜ言葉以前の世界にこだわるのか、言葉と感覚についてどう考えていたのか。そのことを考える手がかりをつかみたいがために、これらの事例を引いたのだ。

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2008年06月26日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』9

名辞以前の世界

 『幼年期の情景』という言葉がかもし出すノスタルジックな雰囲気とはまったく異なる意図で、この映画は作られている。子供は、けっしておとなしくて穏やかな存在ではない。赤ん坊の泣き声を聞けば、そのエネルギーの激しさが分かる。大人になって振り返る美化された幼年期ではなく、体全体でこの世界を感じ、見て、聞いて、触って、食べて、嗅いで、外の世界からなだれ込んでくる情報を受け止め、内側からわき上がるエネルギーを声や全身の動きとして発し、両者の接点となる言葉を徐々に習得していく時期。
 皮膚一枚を隔てた内と外の情報の出入り、認識の発生と言語の形成、知覚と認識の激しくダイナミックな変動期。
 『幼年期の情景』は、そういった幼年期を描こうとしているというよりは、映画によって幼年期の知覚と認識の在り様を再現しようとしているのだ。私たち観客は、まるで幼年期に戻ったような体験を強いられる。
 幼年時代、私たちはそれが誰なのか、どこなのか、いつなのかわからないまま、いろいろなものに遭遇する。思い出そうとしても、言葉というフィルターがその実像を曇らせてしまっているのでなかなか思い出すことができないが、確かに私たちには、言葉を覚える以前の時代がありそのときも物を見ていたのだ。
 私たちは言葉を覚えると、物を見て識別した瞬間に、言葉に翻訳するようになる。机を見て机という言葉を思い浮かべないこと、コップを見てコップという言葉を思い浮かべないことは難しい。そして、言葉にした瞬間、見ることに対する意識は薄れ、見ることはおろそかになる。
 スタン・ブラッケージといえば決まって引用されるあの言葉をここでも引くことにしよう。

 「想像してみよう。人がつくった遠近法の法則などに支配されない眼を。構図の理論なんて先入観を持たない眼を。ものの名前にただ反応するのではなく、生の中で出会うものたちを視覚の冒険を通して知っていく眼を。緑色なんて知らずに這っている赤ん坊の眼には草の上にどれほど多くの色があることか」
 (スタン・ブラッケージ『視覚の隠喩』西嶋憲生訳 『ブラッケージアイズ2003―2004』カタログより)

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2008年06月24日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』8

 視覚を回復しながら、視覚情報を処理できないまま見ることをあきらめてしまった人の見た世界は想像しにくいが、これと逆の体験ならばしたことがある。
数十年前になるが、身体気象研究所というグループで、眼をつぶって日常生活をしてみるというワークショップをおこなった。参加者の半分が眼をつぶり、残り半分が眼を開いた状態で観察し、危険があればサポートする。
 眼をつぶった人たちは、2人一組で行う身体トレーニングを行う。通常はもちろん眼を開いて行うものだ。そのあと、部屋の中を記憶を頼りに移動し水道で手を洗い、そばのちゃぶ台の上の電気釜を開け、梅の入ったおにぎりを作る。さらに珈琲カップにインスタント珈琲の粉をいれ、電気ポットからお湯を注ぐ。おにぎりと珈琲を持ち、部屋の中央に行き車座になって座る。座った人から食事を始める。この間、誰も喋ってはいけない。目をつぶった同志がぶつかり、熱い珈琲をかけそうになったときなどは眼を開いているメンバーがそっと静止したりするだけで、声は出さない。全員が食べ終わったところで、眼を開いているメンバーの合図で、今の体験についてディスカッションを始める。
 触覚によって感じる世界は視覚によって感じる世界とはまったく違った相貌を現してくる。触っただけではそれが何なのかわからない。つるっとした光沢の金属のラックは、意外と表面がざらついている。木目調のテーブルは木の手触りがせず、プリント加工されておりつるつるしている。手触り、物の温度、物の輪郭すら曖昧になる。今触っているものが、どんな形の何であるのか、眼に見える分かり切ったはずの世界が、輪郭を失い存在感を膨れ上がらせていく。
 指について離れないご飯の熱さ。カップにインスタント珈琲を入れ、ポットからお湯を注ぐ。熱湯が指にかからないか、怖い。記憶を頼りに歩く部屋の中、狂う方向感覚と距離感。珈琲をこぼさずに歩けるか。障害物はないか。あと何歩で壁か。おにぎりを食べてみる。おにぎりというものではなく、米ですらなく、材料を丸めた物といった味わいだ。味覚も視覚に影響されていることがわかる。熱いコーヒーを飲んでみよう。カップを口元に運ぶとき、こぼれやすく熱い液体が近づいてきて体が緊張する。
 合図とともにディスカッションが始まり、他人の声が聞こえてきたときの解放感。私たちは、映画館の中や何かの式典の最中など、数分間から数時間一言も喋らない場合もあるが、そういうときでも他人の姿は見えている。眼も見えず声も聞こえない体験はそうそうない。眼をつぶって行うディスカッションのぎこちなさ。いつもなら、他人が話している最中に話に割ってはいるような人までも、他人が話し終わるのを確かめて話し出す。
 私たちは物を見て、それに名前をつけることでこの世界に秩序を与えてきた。だが、視覚情報を失っただけで、私たちの世界認識は大きく変貌する。眼で見ていたときの秩序や全体像が崩れ、細部が主張し始める。感覚は増幅し、私と世界の境界が曖昧になってくる。
 
 『幼年期の情景』について、ブラッケージはこう語っている。
 『命のはじまり、胎児、赤ん坊、子供の内的世界の視覚化―大人たちの感傷的な回想によって見えなくなっている。その世界の暴力的なまでの恐怖と圧倒的な喜び、その両極の露呈による「少年時代の神話」の粉砕』
(『ブラッケージアイズ2003―2004』カタログより)

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2008年06月23日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』7

映画の背後に広がるもの

 いうまでもなく、映画にセリフやナレーションなど言葉があるとき、意味は成立し易い。また、効果音やバックグラウンドミュージックも、多くの場合意味機能を担っている。だが、『幼年期の情景』は140分間サイレントである。トーキー以前のサイレント映画のようにピアニストが横で演奏するわけではないし、その代わりにバックグラウンドミュージックがついているわけでもない。本当に何の音もないのだ。スピーカーからは何も聴こえてこない。ジョン・ケージは4分33秒だが、ブラッケージは140分である。
 テロップもない。はじめだけフィルムを引っかいて書いたタイトルが出るが、あとは何もない。全体は4部構成だが、章分けのタイトルもない。
 視覚情報のみである。
 スクリーンには映像が洪水のように映し出される。赤や黒や光の揺らめきに混ざってブラッケージ家の生活の断片が映し出される。生活を描写するわけでもなく、家族一人一人の性格描写をするわけでもなく、人間を中心に描くわけでもなく、子供の遊ぶ姿が、女の悲しそうな顔が、馬が、犬が、森が、階段が、窓が、洗い桶の洗剤の泡が印象的である。あるときは画像が何重にも重なり、あるときは画面が真っ暗になり、カットやシーンの境界が曖昧なまま、映画は進む。視覚的情報量は恐ろしく増大したり、減少したりするのだが、意識の緊張感は途切れることはない。私たちは映画を見ながら、映像の流れを分節化し、何かを抽出しようとする。だが、言葉や意味に至ることはない。運動し続ける。この状態を楽しめるかどうかが、この映画に対する評価の分かれ道だろう。 
 言葉を覚えた私たちは、物を見るとすぐに言葉に置き換える。見てもそれが何だか分からないとき、意識は活発に運動を始める。何だか分かった瞬間に、それは言葉に置き換えられ、意識の運動は止まらないまでも穏やかになる。では、言葉を覚える以前、私たちは周りをどう見ていたのだろう。 
 視覚障害についての本の中に、興味深いことが書いてあった。生まれたときから眼が見えない人が、触覚によって物を認識し頭の中に世界像を組み立てる。その後、開眼手術に物を見ることができるようになった。初めてふれる圧倒的な量の光に感動する。だが、その乱舞する光の世界はいつまでも乱舞する光のままで、物が輪郭に囲まれて、並んでいる秩序だった視覚像を得られないままのケースがあるという。触覚で組み立てた世界像と、乱舞する光の世界が照合しないままで終わり、見ることに意欲を失ってしまう人がいるというのだ。
 触覚では世界認識をし、言葉も使える人が、視覚情報を処理できないままに終わってしまう。成長過程のある時期に、視覚と言葉を照合することを覚えてしまった私たちには想像しにくい状態である。

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2008年06月21日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』6

 映画は感性に訴えかけるもので、国境や言葉の壁を越えてその感動は伝わるなどとよく言われる。しかし、映画は完全に感覚的なものではなく、かなりの部分言葉におきかええられる要素をもっている。
 
 暗闇の中、映写機が回り始めスクリーン上に黒い映写光が投影される。この瞬間に始まる映画の時間。次に何が写るのだろう。私たちの期待はいやがおうにも高まる。その場に監督や作り手はいない。いたとしても、観客に働きかけることはできない。観客と一緒に、映画を見るしかない。観客はただスクリーンに映る映像を見て、スピーカーから流れる音を聞いている。観客は視覚と聴覚から多量な情報を受け入れ、あるいは積極的に摂取し、頭の中で情報処理を行う。このとき、作り手の提供する視覚情報や音声情報が分かりやすく、情報の組み立て方が的確であると、受け手はストレスなくその映画の世界に入っていける。単に分かり易いだけでなく観客の興味を時に裏切り、じらし、巧みに誘導することで、面白さは増していく。
 ところで、情報の組み立て方の的確さとはどんなことだろう。たとえば、映画でよく編集使われる技法に、カット割りによる省略というものがある。ある男が自宅のドアを開け出て行く。次のカットではどこかのオフィスのドアを開け男が入ってくる。何気ないこのカットのつながり。私たちは、男が部屋を出てしかるべき時間をかけ歩いたり車に乗ったり電車に乗ったりしてオフィスに着いて入ってきたことを理解する。だが、それはこういった映画の省略法に、私たちが慣れているからだ。子供の頃から映画やテレビを見ることで、無意識のうちに省略法の意味を学習した。それ知らなければ、男の自宅とオフィスが向かい合わせに建っていると思ってもおかしくはない。このカット割りを私たちが瞬時に理解するのは、感覚的表現だからではなく、ありふれた常套句だからだ。
 常套句も、はじめから常套句だったわけではない。はじめは斬新な時間と空間の省略法だった。だが、何度も使われるうちに省略は暗黙の前提となり常套句となる。映画編集技法の発展とは、この暗黙の前提の蓄積ともいえる。
 ところで、省略法の斬新さは感覚的なものだろうか。映画の文法というものは意味伝達の手段であるため、感覚的であると同時に知的なというか理屈っぽい、いいかえれば言葉に置き換えられるものでもある。そして暗黙の前提となって蓄積されていくものは、この意味伝達にかかわる部分、言葉に置き換えられる部分のほうが圧倒的に多い。
 私たちがふだん眼にする大半の映画では、撮影、作画、効果(エフェクト)などによって得られる映像のボキャブラリーを、映画的な文法にそって組み立て、なんらかのテーマを語ろうとする。映画の文法とは編集技法であり、視聴覚情報の組み立て方である。 
 『幼年期の情景』では、さまざまなテクニックを駆使して生み出された豊穣な映像のボキャブラリーが次々と画面に現われる。ブラッケージはそのボキャブラリーをどのように組み立て、何を語ろうとしているのか。
 おそらく、この設問自体が間違っている。『幼年期の情景』は映像のボキャブラリーを映画の文法にそって組み立てなんらかのテーマを語る映画ではない。ブラッケージには、前提としているボキャブラリーや文法はない。ボキャブラリーや文法といったものが知覚や認識のはたらきの中からどのようにして生まれるのか、あるいは逆にボキャブラリーや文法の背後にどのような知覚や認識の様態があるのか。そのことを問うのでも語るのでもない。その、知覚と認識の運動状態を生きようとする映画なのだ。
 ここでもう一度上映会場の暗闇に戻ろう。スクリーンにさまざまな映像が映し出される。スピーカーからはさまざまな音声が流れる。私たちはそれらの視聴覚情報を頭の中で編集し、作者が作り出した世界を自分の頭の中に作り出そうとする。作者の作り出した世界を、観客が頭の中に作り出し易い映画ほど分かり易い映画である。
 スクリーンを見ているときに私たちの内部では、次々と飛び込んでくる映像のどこかに切れ目をつけ、断片的な情報と情報の間に関係をつけ、いくつかのグループに分類し、それぞれのグループを対比させ、なんらかの意味を抽象する。映画を見ているとき、私たちは無意識にこういった作業を行っているのだ。ごく単純な娯楽映画でも、こいつは主人公、こいつは主人公の敵、見方、裏切り者、などなど、考えていないようでいろいろなことを考えている。
 ところで、作り手が、受け手の意識を意味へ誘導することを主たる目的としていなかったらどうなるだろう。受け手の意識を意味へ誘導する組み立て方をせず、暗黙の前提を拒否し、ただ受け手の意識が運動し続けるよう、受け手の意識がある意味へ到達しようとする瞬間に意味を壊し、再び意識の運動へと誘うことを意図していたならば。意味の秩序に収まった視覚像ではなく、網膜を触るようなざらついた物の質感、意識のカーテンを引き裂くような光、視覚の諧調と不協和音、意味に至る以前の視覚の世界を再現しようとしていたならば。

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2008年06月19日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』5

 この映画ではカットやシーンの境界が曖昧なため、どういう映画だったかを人に語ろうとすると、途端にあやふやになってくる。カットとカットが、シーンとシーンが組み合わさって説話構造をなしていないため、この映画をうまく要約して語ることができない。しかも、いくつかのイメージの流れが同時に重なり合って進行するため、曖昧さはさらに増幅する。それでも、映画を見終わると明らかにいくつかの情景が思い出される。カットやシーンがまったく無いわけではなく、映像が分節化しそうになる瞬間はある。だが、完全な分節を形成する直前に境界をぼかし、ふたたび重層的なイメージの流れへと帰ってゆく。結果、カットやシーンは記憶という残像の中には曖昧に存在している。
 私たちは一瞬も気を抜くことができない。集中しているとこれほどスリリングな映画はない。眼の前に展開する視覚像は言葉を呼び覚ますが、頭の中に浮かんだ言葉は次の瞬間眼にする視覚像によって解体される。集中が途切れると、これほど睡魔に襲われる作品もあるまい。
 およそ140分、この映画が描くのは、コロラドの山中の山小屋で暮らすブラッケージ一家の暮らしぶりである。アヴァンギャルドホームムービー、ブラッケージは俳優を雇い架空のドラマを演じることをせず、自らの家族を内側から描く。個別の家族を描くことで、普遍的な人間像に迫るなどと陳腐なことをいうのはやめておこう。そんな常識的なドラマツルギーからもはずれ、より根底的な問題へとブラッケージは下降していく。
 ベッドで裸で遊ぶ子供たち。森へ入る母と子供たち。子馬。流しの洗剤の泡。遊具で遊ぶ子供。雪。階段を上る子供。氷。動物。泣く女、ブラッケージの妻ジェーンの顔。天上から降り注ぐ光の雫。ブラッケージ、室内に座る男、ベッドの裸の女、子供たちの顔、窓の外の風景。
 多重露光、フェードインフェードアウト、駒落としとスローモーション、ネガポジ反転、湾曲フィルター、さまざまなテクニックが駆使される。だが、これはヴィジュアルエフェクト(視覚効果)ではない。エフェクト(効果)とは、説話構造の修飾語のことであり、ブラッケージのテクニックはそれ自体が認識と感応の方法なのだ。ブラッケージは説話構造を否定しているのではない。説話構造を軸とするのではなく、説話構造もひとつの一つのあり方に過ぎない感覚や認識の広がりの中で、映画を作っているのだ。たとえばブラッケージの最高傑作とも呼ばれる『DOG STAR MAN』は四部構成からなる75分の作品で、『幼年期の情景』と同じように、多重露光やピンボケ画像、すばやいカット、など実験的な映画技法のオンパレードのように見える。だが、この作品にはストーリーがある。では、どんな壮大なストーリーかというと、「樵が山に登って木を切る」というシンプルなストーリーである。
 ブラッケージはストーリーを否定しているのではなく、相対化しているのだ。

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2008年06月18日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』4

 私たちは、カメラで物を撮影するとき、それが何であるかを見ている人にわからせるため、意識的、無意識的にさまざまな注意を払っている。ここに黒い革の鞄があったとする。アップで撮るとそれは動物か人間の皮膚に見えるかも知れない。あるいは地形のように見えるかもしれない。光が反射してハレーションを起こしていると、黒にかかわらず明るいグレーに見えるかもしれない。少し引いて鞄の全体が見える大きさで撮ったとする。だが、背景が黒いか暗いと、鞄と背景が同化して分かりにくいかもしれない。鞄と背景が区別でき、全体の形がわかると鞄であることが見ている人にも伝わる。あまり引きすぎると、それが黒い鞄であることは分かっても、皮製か布製かプラスティック製かは分からなくなる。さらに引くとそれが鞄であることすら分からなくなる。
 このように画面を切り取る大きさのことを、映像用語ではサイズというが、サイズが適正であったとしても、ピントがボケているとそれが黒革の鞄であることはわからない。露出が適正でないと、暗すぎたり明るすぎて鞄であることや材質が何であるかがわからない。
 では、それがどんな材質でできた何であるかが分からない、あるいは分かりにくい映像は無価値なのだろうか。説話的な映画では価値はない。物語のアクセント的に使われる程度のことだ。
 だが、ここにそういった説話的な映画とはまったく異なる一本の映画がある。繰り返しになるが『幼年期の情景』という映画は、写っているものが何であるのかが分からない映像と、分かる映像が同じ価値を持って現われる、極めて稀な映画である。そして、その間で揺れ動く私たちの感覚と脳みそは見るたびに新たな認識の冒険をする。
 
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2008年06月17日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』3

映像の分節化と無化

 部屋で遊ぶ子供たち。映像がいつの間にかネガ像に変わる。ネガ像が真っ赤に変化し、緑色に変わる。映像に映像が重なってくる。場面転換ではなくダブルイメージが延々と続く。ダブっていた映像のうち、一方の映像がフェードアウトし暗闇の中でちらちらと光がうごめいている。ちらちらとした光が具象的な映像になってくる。その間、もう一方の映像はずっと継続している。
 一般的に、映画は、駒、カット、シーン、シークエンス、といった単位で組み立てられていく。1秒間に24駒。その駒が集まりカットができる。映像が途切れるまでの連続したまとまりだ。カットが集まり、同じ場所を舞台にしたシーンが形成される。シーンとシーンがまとまり、物語上の段落であるシークエンスとなる。
 いかにも映画で見かけそうな、こんなシーンを例に出そう。
 空をバックに右を向いている男、左を向いている女、男、女、男、女。2人は同じ画面には写っていない。だが、バックが同じで顔の向きが逆であるため、同じ場所で向き合っているように見える。そればかりでなく、観客はカットが繰り返されることで男女の心理まで想像してしまう。 
 あるいはこんなシーン。歩いている男、顔のアップ、上を見上げ驚きの表情、ビルの向うに現れる怪獣。カットの組み合わせで別画面の男と怪獣が結び付けられ、男が怪獣を見て驚いているという意味を作り出す。だが、そんな意味は画面のどこにも写っていない。
 駒、カット、シーン、シークエンスは、写っている出来事をわかりやすく伝え、その組み合わせによって新たな意味や価値を作り出す映画の意味伝達機能であり、説話構造である。駒、カットは見ている人に何が写っているか明確であった方がよい。それを組み合わせることによって複雑な意味を作り出していく。
 これは、音節が集まって単語を作り、単語が集まって文節を作り、文節が集まり文となる言葉の構造に似ている。そしてこの場合も、意味伝達だけを考えれば、音節ははっきり聞き取れたほうがよく、単語は明確であったほうがよい。
 スタンブラッケージはそのすべてを突き崩す。多重露光と重ね焼き、フェードイン、フェードアウトなどによりカットとカットの境目が曖昧になる。まったく異なるシーンとシーンが多重露光で相互乗り入れし、シークエンスと呼べるような意味の集合体は形成しない。カットやシーンは分節化しておらず、境目が崩れ溶けたような状態になっている。さまざまなイメージが半ば溶けかかった状態でいくつも絡み合いながら進行する。そのイメージの中には、暗闇にうごめく光とか、真っ赤な画面といった、ほとんど意味を持たない視覚的イメージも含まれる。

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2008年06月16日

スタン・ブラッケージ 『幼年期の情景』2

 『幼年期の情景』Scetion No.1の冒頭の色の変化と明滅のシーンは、この140分に及ぶ作品の基調低音をなしている。私は今うかつにもシーンという言葉を使ったが、この映画はシーンやシークエンスやカットといった言葉を、徹底的に無力化する。だが、今のところほかに言い方も見つからないので、仮にシーンと呼んでおく。このシーンは数分続く。  
 このまま映像らしい映像は映らないのかと思い始めた頃、色面の中に何かが浮かび上がる。動いている子供だ。浮かび上がってはまた消える。朝、眼を開いたときに風景が飛び込んでくるように。暗いところからいきなり明るいところに出て、一瞬風景が見えた後にあたりが真っ白になり思わず眼をつぶってしまうことがある。ちょうどあんな感覚だ。
 赤や青の色面に映像がフェードインしてくるカラーフェードは、映画ではあまり使われなかった。ビデオではDVE(デジタルビデオエフェクト)があればボタンひとつでできるため、ミュージックビデオなどで多用されるようになった。だが、カットの前後に短くおかれ、あくまでもつなぎの機能をはたしている。また、画面全体が赤みを帯びたり、青みを帯びたりすることはあっても、あくまでも映像が主で、色面は従だった。
 『幼年期の情景』の冒頭のシーンは、微妙にあるいは急速に変化する色面が主で、被写体が映った映像が従となっている。この関係はやがて被写体が映った映像が頻繁に現われるようになって、逆転するのだが、それでもまた時々色面へと帰っていく。逆転するというより、両者はいつも入れ替え可能なのだ。
 冒頭の数分に及ぶシーンは、この映画は被写体が映るとは限らないことを、見るものに体感させてしまう。われわれは注意深く光の変化を見守るほかない。
 被写体が映った映像とは回りくどい言い方だが、ブラッケージの話をするときは、こんな言葉遣いをせざるを得ない。真っ黒な中に光がちらつく画面と、真っ赤な画面と、被写体がピンボケで映っている画面と、ハッキリ映っている画面が、映像としてまったく等価に存在するのだから。

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2008年06月15日

スタン・ブラッケージ『幼年期の情景』1

 スタン・ブラッケージの『幼年期の情景』は生き物である。生命体、組織体と言い換えてもよい。
 私は久しぶりにこの映画を見て、やっとその素晴らしさと重要性について何かが語れるような気がしてきた。これまではまったく歯が立たなかった。その映画は、見ることや語ることを根底から崩してしまう力を持っていた。崩れた中からやっと新しい言葉が芽吹いてきたようだ。

光の分節化と分節の無化 
 まず先入観を一切捨てていただきたい。これから書くのは映画の話だが、普通の映画を想像しないで欲しい。というより映画を想像しないで欲しい。映画だと思うとわからないかもしれない。ただ、暗闇の中、四角い平面上で起きる出来事だと思って読んで欲しい。
 赤い画面が次第に暗くなる。またゆっくりと明るくなる。明滅のスピードが早くなり遅くなる。赤から黒へ、黒から赤へ、赤から白へ、白から赤へ、赤、青、緑。順番は定かではない。しかし、色から色へ、明から暗へ、時にはゆっくりと、時にはすばやく変化する。
 色相、彩度、明度といった言葉で分析することはあまり意味がない。すべてが同時に変化するので、そういった概念的な分類が無意味になってしまう。
 ゆっくりと移行するとき、単に波長が変化するだけで赤、白、青はひとつながりのものである。赤と白が激しく明滅するとき、赤と白は衝突しそこに分節化が起きる。
 それは、声から音節が分離することに似ている。あくびをするように、ゆっくりと息を吐きながら、「あー」から「えー」「いー」と声を変化させてみよう。音は変化しても、そこにあるのは一つながりの息である。次に短く息継ぎをしながら「あ」「い」と発音する。音が分節化し音節となる。
 色と色は瞬時に衝突して分節化するだけではなく、またゆっくりと色から色へ移行し境目をぼかしてしまう。光は速度を変えて運動し続ける。
(明日へつづく)

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2008年06月14日

スタン・ブラッケージの方へ

 きのう見たスタン・ブラッケージの『幼年期の情景』について書こうと思うのだが、なかなな書き始められない。ブラッケージについて書くということは、言葉とは何かという問いかけをしながら書くことにならざるをえない。一語一語、問いかけをし続けながら。それはまるで、歩くとはどういうことかと問いかけながら歩くことに似ている。ひとつ間違えば足がもつれ、一歩も踏み出せなくなるように、失語症のような状態に陥る可能性もある。行のような行為である。
 まずは、問いかけ抜きのウォーミングアップから始めよう。
 スタン・ブラッケージは、1933年アメリカはミズリー州のカンザスシティに生まれる。1953年処女作『インタリム』を発表、以来精力的に映画制作をジョナス・メカス、ケネス・アンガーと共に、アメリカ実験映画の三大巨匠と呼ばれた実験映画作家である。2003年3月9日、膀胱ガンにて永眠。
 この2003年は日本で初めてのブラッケージ回顧展『ブラッケージ・アイズ2003―2004』が開催された年である。当然ブラッケージの招聘も予定されていたが、残念ながらそれは実現しなかった。
 2000年に『DOG STAR MAN』の完全版を輸入上映して以来、精力的にブラッケージ作品を日本に紹介してきたミストラルジャパンの水由章さんの呼びかけで、映像作家やデザイナー、評論家などが集まって実行委員会を作り、この回顧展を企画運営した。私もその一員だった。
 
この回顧展の詳細は、まだサイトが残っているのでそちらを参照して欲しい。
 http://www.brakhage-eyes.com/

 私は『リスポンドダンス』という、ブラッケージ回顧展と同時開催される関連企画を担当した。ブラッケージの映像の秘密に迫る展示と、アーティストによるブラッケージ論をコンセプトとした展示とパフォーマンスである。さまざまなアーティストが、自らの表現を通してブラッケージ論を展開する。私はアーティストの方々に参加を依頼するにあたって、単なるオマージュにする気はないので、本気なら批判でも対決でもかまいません、とお願いした。
 この企画は、実は第1回目の実行委員会の席で、誰からともなくブラッケージをカルト的な実験映画の作家としてではなく、現代芸術の地平でとらえたいという意見が出てことに端を発している。ブラッケージは、まさにそういった広い視野で再考すべき作家なのだ。
(明日へつづく)

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