しんどかった。
松下電工汐留ミュージアムへ『アール・ブリュット/交差する魂』を見に行った。前々から見ようと思っていたのだが、ギリギリ最終日に駆け込むようにして見た。失敗だった。もう少し前に見に行った上でもう一度、最低でも二度は見るべきだった。この展覧会は駆け込みでざっと見て済ませられるような代物ではなかった。
「アール・ブリュット=生の芸術」とは、正規の美術教育を受けていない人たちによって制作される美術作品のことで、画家のジャン・デュビュッフェの命名である。デュビュッフェは子どもや美術界とは無縁の作家が制作した絵画、彫刻などに、人間の根源的な表現衝動を発見し作品を収集、スイスのローザンヌ市に「アール・ブリュット・コレクション」を設立した。
今回の展覧会は、そのアール・ブリュット・コレクションの作品と、滋賀県にある「ボーダレス・アート・ミュージアム」の作品で構成されている。
私は不勉強で、日本にそんな美術館があることを知らなかったのだが、障害者アートを紹介する美術館だ。単なる紹介ではなく、一般のアーティストの作品と並列して展示するなど「人の持つ普遍的な表現する力」を浮かび上がらせ、障害者と健常者などさまざまな境界(ボーダー)を越える試みをしているのだという。
アール・ブリュット・コレクションの作品は必ずしも障害がある人の作品というわけではなく、ネック・チャンドのように道路建設の仕事の傍ら、こつこつと石で作品を作り続けた作家もいる。
仕事の傍ら創作するといえば、趣味で絵を描くアマチュア画家がいる。いや、日本のほとんどの美術家も仕事の傍ら制作している。だが、美術家はもとよりアマチュア画家も、多くはこれまでの美術を参照するなり影響を受けるなり反発するなりして創作を行っている。それに対して、ネック・チャンドラは美術の歴史や制度と無関係に創作をしている。これが・アール・ブリュットの特徴だろう。また、アール・ブリュットなどという概念にグルーピングされることも、本人の意志とは無関係だろう。
今回の展覧会で取り上げている作家のすべてが、精神障害を持っているのではない。しかし、多くが障害を持った人たちである。
どの作品も強烈だった。そしてしんどかった。簡単には感動できない。人間の精神の奥深さや多面性を感じさせられたと言うことはできるが、そんな生易しいものではない。
チラシには「様々な社会的規制の束縛から精神の自由や独創を獲得する人間の力」という言葉がある。たしかにそう感じる。だが、同時になにか大きな力やイメージに束縛されてもがく人間の姿も感じる。何かが憑依して美術家たちに作品を作らせているような感じすら受ける。自由と同時に激しい不自由も感じる。
美術家の主体的な意志と、憑依しているものが相互に入れ替わり、見ているうちに混乱してくる。両者の線引きは難しい。見れば見るほど怖くなってくる。
精神に障害を持った画家、たとえばゴッホの絵を見たときの感想とはまた違う。遺された絵画には、ゴッホの精神が病に勝利したことが刻印されている。実人生では病が勝利してしまったのかもしれないが、絵画においてはゴッホの精神が勝利している。
この展覧会に出品されている多くの作品は、まさに精神と病の戦いの戦時報告といった趣だ。戦いの最中だと感じる作品は、見ていて苦しくなる。だが、明らかに突き抜けた感動に至る作品もあった。
感動に至る作品もそうでない作品も、どれもひどく孤独な作業に見えた。
美術家の主体と彼に描かせている力という言い方をしたが、一般の画家の場合も本人の意志だけではなく、彼を動かし描かせる力がないわけではない。そして、美術家はその力を乗りこなしたり、戦いを挑んだりする。そのひとつが、美術の歴史や制度という文化だ。文化は広く共有されているから、美術家がそれに乗っかっても、戦いを挑んでもその作業は開かれたものとなる。
だが、アール・ブリュットの美術家たちを突き動かす力は、より根源的かもしれないが文化として共有されてはいない。これは、精神障害のあるなしに関わらない。そういった人たちをアール・ブリュットと呼んでいるのだ。したがって、彼らの作業は孤独にならざるを得ない。
ゴッホの絵を見ているだけでは見落としていただろう深淵が、ぽっかりと口をあけている。眼が離せない。

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