2008年10月17日

血の色をした映画・芸術

 金融危機だという。
 不況だという。
 個人的にはずっと不況なのだが、かといってやっと社会が俺に追いついたかとうぬぼれるわけにも行かない。
 確かに閉塞感が広がっている。
 教えているいくつかの学校で、数年前から学費が払えなくなって退学する学生がポツリポツリと現れた。高校でも、進学したいのだが学費が払えずにあきらめる生徒が現れた。
 ところで、こういった時代の芸術の役割とはなんだろう。
 こういう時代にこそ、芸術は不埒に浮かれ騒ぎ、快楽を歌い、生の歓びを追求し、狂い、苦味をも甘味のように味わい、激しい火花を散らすことができるのかが問われている。
 政治、経済、地域社会、家族、教育、あらゆる制度の埒外に人の生はある。一瞬でも埒外の生を呼吸すれば、困難の中でも生きていける。現実逃避では味が薄すぎる。
 ずっと昔、ジョナス・メカスがいった「血の色をした映画」という言葉を思い出した。
 芸術の使命が問われている。
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2008年10月15日

ウォーキングしてしまった

 きょうは某高校で授業。帰りにちょっと遠い駅まで歩いてみることにした。
 私の家からその学校に行くには、JR○○線でA駅まで行き、そこからJR××線に乗り換え1駅目のB駅か2駅目のC駅まで行く。どちらの駅からも徒歩で20分弱。C駅からはバスが出ている。
 通常はC駅からバスに乗るのだが、バスが20分に1本なので、1本乗り過ごすと歩いたほうが早くなる。そんなときは1駅手前のB駅から歩く。ギリギリのときはタクシーを使うこともあった。
 ところが、乗り換えのA駅のひとつ手前、D駅からもタクシーでワンメーターで行くことにちょっと前に気づいた。遅れそうなときは、この駅からタクシーを利用することにした。乗り換えずにすむので時間短縮になる。
 で、きょうはそのD駅まで歩くとどのぐらいあるか試してみた。学校を出たのが12時51分、駅についたのが13時26分、35分かかった。歩数計では2953歩、移動距離は1771km。
 運動公園のグラウンドの脇を通り、住宅街と畑を抜け、中学校の給食室の匂いをかぎ、坂を上ったり降りたりし、くねくねした住宅地の路地を歩き、やっと駅前の少し太い道路に出た。私鉄の駅の階段を上がり、改札の前を通り、反対側の階段を下り、JRのD駅の改札に到着。途中車の通りはほとんどなく、ウォーキングのコースとしては最適だ。ただ、住宅街の目印もないくねくねした道を何箇所か曲がってきたので、同じコースを逆に辿れといわれると、ちょっと自信がない。迷いながらなら行けるだろうが、通勤時に駅から歩くのは危険だ。もう一度道をしっかり覚えれば、通勤とウォーキングをかねたコースにできる。
 電車とバスを使った場合、いつもなら7時47分にD駅を通過し乗り継ぎやバスの待ち時間を入れると8時20分ごろ学校に着く、この簡約33分歩いてもほぼ同じぐらいの時間につく計算になる。
 朝飯を食って出かけると、ちょうど血糖値が上がる時間に適度な運動をすることになる。いいぞ、いいぞ。
 その点ではきょうは失敗した。35分かけて歩いて、脂肪が燃焼し始めたころ駅について腹が減っていたことに気づき、吉野家で牛丼を食ってしまった。並だけどね。
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2008年10月14日

ブラザースクエイ回顧展を見た

 渋谷のイメージフォーラムで、ブラザースクエイの回顧展のEプログラムを見た。18日からクウェイの新作『ピアノチューナー・オブ・アースウェイク』が上映されるのに先立って、これまでの作品が上映されているのだ。
 Eプログラムには『ソングフォー・デッド・チルドレン』という日本初公開の作品も含まれている。この作品はクエイらしい人形アニメだが、他の2本はバレエやダンスとのコラボレーションだ。
 『デュエット』はウィル・タケット、『サンドマン』はアダム・クーパーのダンス作品を映像化している。どこまでが振り付けで、そこまでが映像の演出かは不明だが、このコラボレーションのあり方はとても緊張感がある。
 私たちは時間や空間や自分自身の体から自由になることはできない。それができるのは想像の中だけだ。だが、映像は時間や空間を簡単に飛躍させることが可能なメディア、いわば飛び道具である。ダンスは、身体という重みもあれば時間からも空間からも自由にはなれないものによって、重力と時間と空間から自由になろうとする。だから、映像の飛躍力が無神経にダンスに介入すると、ダンスの実体を壊すことになる。
 クウェイは、映像という飛び道具を極めて慎重に駆使し、ダンスとの間に緊張関係を築く。
 人形アニメは人形に命を吹き込む。そう考えると、身体によって身体から自由になろうとするダンスとの間に太い血脈のようなものが見えてくる。
 映像やアニメーションの流れがCGなどコンピュータとの融合に向かう時代に、人形アニメからダンスへと向かうあたり、いかにもブラザースクエイらしい。
 ダンスとのコラボレーション作品が2本続いたあと、人形アニメの『ソングフォー・デッド・チルドレン』が上映された。ダンスと人形アニメ、ブラザースクエイの表現の振幅は素晴らしい。
 私はダンスや舞踏の周辺にいながら、知り合い以外の踊りはあまり見てこなかった。これを機会にもっと踊りを見ようかとも思った。
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2008年10月02日

ゴドレー&クレイムとオスカー・フィッシンガー

 久しぶりに、ゴドレー&クレイムの『モンドビデオ』とオスカー・フィッシンガーのアニメーション数本を見直した。
 音楽と映像ということを考えていて、なんとなく見たくなったのだ。
 オスカー・フィッシンガーは音楽と映像の関係というか、視覚と聴覚の関係を抽象アニメーションで表現しようとした人である。メディアはビデオではなくフィルムを使った映画だ。きょうは1930年代から40年代の作品を見た。彼の映画を見ていると、すべての芸術は音楽に憧れるという言葉を思い出す。音楽を、カンディンスキーの言葉ではないが点、線、面、色彩で表現しようとするその繊細さと大胆さにはいつ見ても感動する。音楽を楽譜に基づいて分析し、それにあわせてアニメーションを描き起こしているのだろう。線や形体のが断続的に変化するところは少なく、継続しながら変化していく様子を見ると、あらかじめ計算された動きだ。
 一方、ゴドレー&クレイムはいかにもビデオ時代のアーティストだ。4人組のバンド10CCのうちの2人が脱退して作ったユニットだが、この2人で様々なミュージシャンのたくさんのプロモーションビデオを作っている。彼らが80年代に作った音楽も映像もオリジナルの作品が『モンドビデオ』だ。曲はあらかじめ作られているのだが、あたかも映像と音楽を同時に編集し、両者のコラージュで構成されたかのようなスクラッチ感覚にあふれた作品だ。
 映画は音と映像を別々に撮る。映像はフィルム、音はテープに録音する。だが、ビデオは映像と音を同時に同じテープに記録する。同じテープなので同時に編集しやすい。ミュージックコンクレートの方法をを音だけでなく映像も含めて展開することが可能になる。
 『モンドビデオ』はミュージックコンクレートではないが、楽曲のメロディラインにアクセント的に現実音やギターやピアノの演奏を映像と音の同時リピート編集で短くのせ、コラージュ感を作り出している。車の音やドアを閉める音といった現実音が音楽の構成要素として意識されるようになったひとつの原因は、録音が可能になったことだろうが、そこに映像が加わった面白さがある。
 近代以降の芸術は、ものごとは分割して再構成できるという意識の上に成立しているが、スクラッチという感覚はメタ再構成とでもいうべきもののように思う。
 フィッシンガーとゴドレー&クレイムの違いに、そんなことを考えさせられた。
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2008年09月27日

連続テレビ小説『瞳』が終わった

 NHKの朝ドラ『瞳』の最終回を見た。
 きょうは10時ごろに家を出ればいいので、ちょっとゆっくりだ。テレビをつけると『瞳』が始まった。
 このドラマ、毎日ではないが今日のように時間が合ったときはちょくちょく見た。飯を食べながらとか、出かける準備をしながら見るので、真剣に集中して見るのとは違った接し方だ。また、週に2、3回ぐらいと飛び飛びなのでストリーを完全に把握しているわけではない。だが、見始めるとだいたいストーリーはわかるし、ながら見でも十分楽しめる。朝ドラのノウハウが詰まっているのだろう。
 家でテレビを買ったころにやっていた朝ドラは『娘と私』、『瞳』とはだいぶテンポが違う作品だった。といっても、見たのは幼稚園児の私だが。
 『瞳』は登場人物のキャラクターが鮮明だ。また、人間関係がやや複雑だが、その複雑さがドラマの構造を作っているので、一度理解してしまうと「ながら見」でもドラマに入っていきやすい。
 ヒップ・ホップ、下町の人間関係、里子、家族関係、福祉制度、バイセクシュアル、もんじゃ、祭り、などなど色合いのちがったモティーフが混在しながらストーリーが展開するのだが、このあたりも彩のあるドラマを作り出していたように思う。
 うちの老母は、西田敏行が風呂上りのシーンでぼさぼさ頭に上半身裸で映ったときは「いやらしい」と顔をしかめ、当然ヒップ・ホップなどなじみがなく「こんなわけのわかんないもの」とはじまったころはいろいろと文句を言っていたが、途中からドラマが始まるのを楽しみにするようになった。NHKの朝ドラにローズのママのようなホモセクシュアルだかバイセクシュアルのキャラクターが登場するというのも驚きだ。
 しかしそれらがどぎつくならないように、うまく中和されている。血縁関係と下町の人間関係に擬似的な家族関係が結びつき、ねじれた家族関係がほぐれ、柔軟なコミュニティが形成される。そう考えると、ローズさんの存在は象徴的である。
 
 数日前、久しぶりに『ハング・ザ・DJ』を見た。ヒップ・ホップやクラブミュージックのDJに関するドキュメンタリーだ。そこに描かれたヒップ・ホップは、『瞳』の中のヒップ・ホップとはあまりにもちがう。
 そのことを思い出したとき、『瞳』が突然白昼夢に思えたきた。
 
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2008年09月23日

カメラという絵具

 きのうは学校でビデオカメラの使い方の授業をした。ごくごく基本的なことから説明し、操作させる。フォーカス、ズーム、明るさ調整、NDフィルター、ホワイトバランス、など。明るさ調整は露出と言い切れないところがつらい。民生機のビデオカメラの限界だ。
 学生はひとつひとつの機能を確認し、そのたびに映像に変化が起こることに興味をもって大騒ぎしている。あまりに学生が面白そうにしているので先公はとまどうほど。
「カメラの操作によって、絵作りができる。つまりカメラは絵具なんだ」などとえらそうに思い付いた言葉を口にして、ふと初心に変える。
 そうだ、カメラは絵具なんだ。それも、機種によってちがった絵を描く絵具なんだ。油絵具、透明水彩、不透明水彩、パステル、色鉛筆、木炭、コンテ、アクリル、さまざまな絵具があるようにカメラによってちがった絵が描ける。
 8ミリフィルムのカメラと、16ミリフィルムのカメラと、35ミリフィルムのカメラと、SDのビデオカメラと、HDのビデオカメラと、みんな違った絵が描ける。いや、同じSDのビデオカメラでも、HDのビデオカメラでも、機種によって微妙に絵が違う。
 ビデオカメラで絵柄に大きな変化が現れたのは、撮像管から撮像素子に変わったときである。撮像管は発光体を取ることができなかった。太陽や電球を撮ると焼きつきというしみができた。また、画面の中を光が移動すると光は帯を引いた。当時は不便だと思ったが、同時にビデオでしかできない映像だと思った。
 1982年ぐらいにソニーがはじめて撮像素子CCDを使った、CCD−G5を発売した。あまり解像度はよくなかったが、色彩が強調され、軽くて太陽も撮れた。トイカメラのような画質だった。その後、撮像素子はどんどんよくなりいまや主流である。
 家庭用のハイビジョンビデオカメラが登場し、画質はかつての業務機や放送用機器よりずっときれいになった。だが、単に高画質という価値基準ではなく、それぞれのカメラを絵具として考え、高画質も低画質も同等に扱うことは可能だろう。
 ラフなスケッチもあれば、緻密な油絵もある、そんな形でいろいろなカメラを生かすことができると面白いなあ。

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2008年09月11日

『猿の惑星』映画シリーズを見終わった

 『猿の惑星』『続猿の惑星』『新猿の惑星』『猿の惑星 征服』『最後の猿の惑星』の5本を見た。面白かった。
 以前にも描いたが、私ははじめの『猿の惑星』を中学生のとき見た限りで、その後の展開にはこれまであまり興味が湧かなかった。だが、今回見終わって、一作ごとに猿と人間と、そして猿同士の関係が変化し、新たな局面を迎えていくさまが面白かった。
 このシリーズには、アメリカにおける人種意識が複雑に反映しているという。確かにそれもうなづける。その点は、テレビシリーズも見たあとにまとめて書こうと思う。
 今回は物語のスケールと、想像力の広がりということについて考えてみたい。
 猿の惑星シリーズは1970年前後から3955年の地球の破滅までの物語である。第1作の『猿の惑星』では、アメリカ人の宇宙パイロットが人間がサルに支配された惑星に着陸する。ラストシーンではその惑星が実は未来の地球であることが描かれる。この突き放したようなラストシーン。この時間の断絶が想像力をかき立ててくれた。なぜ、地球はこうなってしまったのだ? 人間はなんて愚かなんだ。と絶望する主人公。
 2作目以降、この時間の断絶を埋めるように物語は進行する。各エピソードはよくできているし、ほどよく予想外の展開もするので、手に汗握りながら続きを見てしまった。
 だが、終わってみるとこの断絶を埋めたがために、想像力が無限に広がっていくような、不安定でありながら開かれた後味が薄れてしまったことは否めない。
 シリーズ全体の面白さと、第1作の面白さは実は別物だと考えることができる。1本だけ特異な位置づけなのは第1作のみで、第2作や3作はもちろんそれだけでも面白いが、シリーズの中の一つのエピソードに過ぎない。
 1作目だけがシリーズから離れても成立する、スケールの大きさをもっている。

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ラベル:猿の惑星
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2008年09月06日

『続猿の惑星』と『新猿の惑星』を見た

 うーーーーむ、こんな風に展開していくのか。
 数日前に予告したように、『猿の惑星』シリーズをはじめから見直している。
 その時も書いたのだが『猿の惑星』といえば、1本目の印象が強烈だったので、続編を見る気がしなかった。特にあのラストシーンは、絵画として鮮明に頭に焼き付いてしまった。
 私だけではない。たしか石の森章太郎のマンガ『リュウの道』かなにかにも、あのシーンにインスパイアーされたシーンがあったはずだ。有名無名を問わず、多くの人の記憶に焼きついたシーンだ。
 『2001年宇宙の旅』のラストシーンと並んで、同時代の記憶に残るヴィジュアルイメージである。そして、ある種の未来像を決定し象徴するようなシーンといってもいいだろう。
 今回『猿の惑星』『続猿の惑星』『新猿の惑星』と見て、それとはまた違った印象が生まれてきた。『続』は『猿の惑星』の後日談だが、核戦争によって変容した人間のミュータントが登場する。『新』も話はつながっているのだが、現代に進化した猿がタイムトラベルしてくる。『猿の惑星』にも登場した科学者夫妻だ。
 ここで、猿と人間の立ち居場が逆転し、夫妻は悲劇的な死を遂げる。次あたりで、猿の民族(?)解放闘争の英雄が登場しそうである。
 家に帰ってくるのが楽しみだ。
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ラベル:猿の惑星
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2008年09月05日

ノーマン・マクラレンを高校生に見せた

 スコットランド生まれでカナダで活躍したアニメーション作家ノーマン・マクラレンの作品を、高校の映像の授業で見せた。
 実験的でいながらユーモラス、アヴァンギャルドでありながらポップな味わいのあるノーマン・マクラレンの作品を、今の高校生がどう感じるのか、興味津々だった。高校生たちは面食らいながら見入っていた。
 フィルムに直接ペイントしたりスクラッチしたアニメーション。人間を人形のように少しずつ動かしながら駒撮りしたアニメーション(ピクシレーション)。一枚のボードにパステルで絵を描きながら少しずつダブらせて駒撮りしていくアニメーション。そして、普通にアニメ用紙に描いたアニメーション。人物の動きに、残像効果をかけたようなアニメーション。
 さらには、手描きのサウンドトラックや音楽の構造を視覚化した『カノン』など、サウンドトラックや音楽に対する様々なアプローチ。
 ノーマン・マクラレンの作品は、方法論の悦びに満ちている。方法論は単に技法を複雑化して面白がるためではなく、認識を開き、普通の映画では見えないものを見る悦びに結びつく。マクラレンは方法を単なる技法の実験に終わらせず、作品のテーマを支える構造へと発展させる。
 ノーマン・マクラレンは子どもの遊びとアヴァンギャルドを結びつけることのできる稀有な映像作家である。
 前衛の面白さ、構成の緻密さ、作品の骨格に反映する作家の柔軟でユーモラスな人格、そういったものは高校生たちにもしっかり伝わったようだ。

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2008年09月03日

『猿の惑星』を全部見たい

 何をいまさらという気もするが、『猿の惑星』シリーズを全部見ようと思う。映画だけでなくテレビシリーズもあるのでかなりの数になるが、とにかく全部見よう。
 8月12日、イーモバイルのCMと人種差別問題について書いたとき、『猿の惑星』に触れた。この映画の原作小説は、作者のピエール・ブールが戦時中日本軍の俘虜になったときの屈辱的な体験がもとになっている。
 そのあと『猿の惑星』のことが頭にあり、図書館で、エリック・グリーンの『<猿の惑星>隠された真実』という本を見つけ借りてきた。 この本は、テレビシリーズも含めた全『猿の惑星』を対象に、人種意識がどう変化しているかを論じている。ところが私は、一本目の『猿の惑星』しか見ていないのだ。この本の中では、各映画やテレビシリーズのあらすじも簡単に紹介されているのだが、理屈っぽい分析を読むためにあらすじを知ってしまうのは味気ない。どうせなら全部見てからこの本を読んでやろう、と思ったしだいである。
 最初の映画は私が中学生のときに公開になった。吉澤君という同級生が今度すごい映画が公開になると教えてくれた。そして、小説を貸してくれた。映画を見る前に小説を読んだ。どきどきした。小説の中で覚えているのは、猿の惑星で捕まった主人公が、惑星の原住民の人間の女と檻に入れられるというエピソードだ。猿たちは2人が交尾するのを興味津々と待っている。主人公はそのことがわかっていたので、交尾しない。だが、一緒に暮らすうち女に対する愛情が生まれ、セックスを始める。すると、猿たちがはやし立てる。主人公は猿のはやし立てる声を浴びながら女を愛する、というようなエピソードがあったように思う。この屈辱感と愛情の葛藤が、中学生には強烈な描写だった。もっとも、うろ覚えなので確かではない。読み返してみると全然違うかもしれない。
 映画は当時としては猿のメイクがとてもリアルに見えた。そしてラストシーンには息を呑んだ。当時は人種問題というより、原子力と文明への批判という印象が強く、人種というテーマが裏に隠れていることは気づかなかった。
 このシンプルで強烈な逆説的なストーリーのあと、何本も映画が作られている事は知っていたが、はじめのインパクトが強かったので、続編を見たいと思わなかった。
 だが、人種というテーマが隠れているのなら、そういった視点で全篇を見てみようかという気になった。

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2008年08月29日

北京オリンピックとハリウッド

 北京オリンピックが終わった。
 北島康介選手、谷本歩実選手、吉田沙保里選手などなど、多くの日本人選手の活躍をはじめ、記憶に残る名場面の数々。だが、私にとって最も忘れがたい出来事は、開会式とその顛末である。
 話題になったのは今さらいうまでもなく、開会式の中で歌っていた少女は口パクで実際歌っていたのは別の少女だったということと、放送された映像の花火の一部がCGだったという点だ。さらに印象深いのは、全体の演出がチャン・イーモウ、ビジュアルディレクターが蔡國強という、映画や美術に関心がある人間にとっては耳慣れた人名が主役として登場する点だ。この二人の芸術は、今後含み笑いを浮かべながらでないと見れなくなってしまった。
 チャン・イーモウは完全主義者といわれる。処女作『紅いコーリャン』で、映画の撮影のために広大なコーリャン畑を作ったという話は有名だ。こういったことは映画では時々ある。しょっちゅうはないが、予算があればやりたいと思っている監督はたくさんいるはずだ。 映像は情報の組み換えによって嘘をつく。嘘の中に真実を描き出すといわれる。札幌で撮った映像と東京で撮った映像を、編集によって同じ街に見せることなど常套手段だ。映画のために作られたコーリャン畑と、編集によって生まれた街と、どちらが嘘でどちらが事実かと問うまでもない。どちらも嘘である。
 そう考えると、北京オリンピックの開会式のチャン・イーモウの演出はよくわかる。きれいな声ときれいなルックスを組み合わせよう。映像的に足りない部分はCGで補完しよう。これはドキュメンタリーではなくショーなのだ。合成や組み換えがあたりまえの現在の映像制作の方法が前面に出たライブパフォーマンスといえるだろう。今回の問題はチャン・イーモウの創作者としての本質に関わる問題なのである。開会式は非公開のもので、世界中に配信される開会式の映像が完成作品だったなら、それでも問題はなかった。  
 だが、オリンピックの開会式は映像作品ではなかった。中国国内ではネットなどで、観客の前に現れた少女よりも歌っていた少女のほうが人気が出ているという。虚が実に逆襲されているようにも見える。実とは現実や真実というより、嘘の舞台裏が透けて見えるという程度のことだが。
 開会式の直後、私はこの「本日おかしばなし」にアトラクションそのものがインフェルノやフレームで作られた映像を見ているようだと書いた。また、ライブパフォーマンスを見ているというよりプログラムを見ているようだとも書いた。インフェルノやフレームというのは、実写やCGの映像を加工したり合成する機械である。
 それはまるで、一度完璧にCGで創られたものを、あらためて人間や物を使ってライブで再現しているように感じられた。スクリーンやグラウンド面に映る映像が人の動きと完璧にシンクロし、映像と実体が融合している。私は、その両者をテレビの画面という映像で見ている。その結果、グラウンドで踊っている人物とグランド面に映った映像は、一次映像か二次映像かの違いはあるがどちらも映像(虚)となる。そう考えたとき、私は自分が見ているものがライブパフォーマンスではなく計算されたプログラム、言葉を変えて言えばひとつの「系」だと思ったのである。
 北京オリンピックの開会式は、この数十年のハリウッド映画と重なる。ビルの谷間を背景と完全に融合したスパイダーマンが自由に飛び回る映像を、現実の空間で再現したようなものである。
 映像データのデジタル化とHD化によって、映像の加工や合成の精度は飛躍的に向上した。映像というメディアがもともと持っていた「嘘をつく力」がより巧みに、洗練されてきている。 
 映像は一方で、実写や写真という言葉が示すように現実や真実というものの幻影と深い関係にあった。「実」という言葉は、加工できない、あるいは加工してはいけないという磁力を発していた。そして、その対極に情報の加工によって「嘘をつく力」があった。「実」と「虚」の間に深い溝があるように思えたからこそ、その間を往復する映像メディアのダイナミズムがあった。デジタル技術は0と1によって、「実」と「虚」の間の断絶をきれいに均し地続きにした。その結果、画面に映っているひとつひとつの物、人物、出来事は記号化していく。
 「嘘をつく力」が洗練される一方、「虚」の舞台裏が透けて見える事態が進行しつつあるのも皮肉な話である。
 だが、これは考えてみれば当たりまえの話かもしれない。家庭用ビデオカメラのハイビジョン化やコンピュータによる映像編集が身近になったことは、洗練された「嘘のつき方」が身近になったということである。嘘の舞台裏は見えているのだ。
 大笑いしながら、「つくる」ということを改めて考えさせられた北京オリンピックの開会式である。

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2008年08月12日

イエローモンキーの夢想

 朝日新聞に「演説サルCM1ヶ月で打ち切り 差別か過剰反応か」という記事が載っていた。イー・モバイルのCMで、サルが壇上から「イー・モバイルにチェンジ」と演説をする。これはアメリカの大統領候補である黒人のオバマ氏を猿に見立てた人種差別ではないのか、という議論が起こり結果的にイーモバイル社は放送の打ち切りを決めたという。
 この記事が投げかけているのは「差別表現にいっそう配慮した広告制作を求める声がある一方、放映中止は過剰反応との意見もある」という点である。
 「イーモバイルにチェンジ」というコピーはオバマ氏の演説の「イエス ウィー キャン チェンジ」というフレーズにヒントを得たものであり、したがって演説会というシチュエーションもオバマ氏を念頭に置いてのことである。ただし、サルはオバマ氏が黒人であることからの発想ではなく、もともとイー・モバイルのマスコットキャラクターである「ハヤハヤ君」というニホンザルを使ったのだという。イー・モバイルに差別的な意図はなく、また欧米では非白人をサルに譬え差別することがあることも気づかなかったらしい。CM制作はアメリカの広告会社に依頼した。
 放映の始まった直後からインターネット上で「人種差別ではないのか」という議論がはじまり、それを英紙のデーリー・テレグラフのWeb版が報じ、結果的にイー・モバイル社の放映中止という決定に至るのだが、イー・モバイルへの直接の抗議は一件だけだったという。オバマ氏からの抗議ではない。日本在住のアフリカ系外国人グループの代表者からのもので「日本人にはピンとこないかも知れないが、不快だ」というものだった。また、デーリー・テレグラフの報道では、このサルがもともと企業のキャラクターであり差別意図が見られないことも指摘されていた。
 まったく同じCMであっても、オバマ氏が白人だったら人種差別という議論は起きなかった。また、オバマ氏と同じ非白人の福田康夫や小沢一郎がモデルでも、差別という議論は起きなかっただろう。李明博だったらどうだろう。同じように問題にならなかったろうか、むしろ、差別ととられるのではないかという意識は敏感に働いただろうか。
 オバマ氏も非白人だが、広告主も非白人系企業である。その限りでは、非白人差別という関係は成立しない。差別的な意図が無くつくられた映像が、欧米では差別を意味する常套句だった。放送するのは日本国内のみ。それぞれの文化圏が閉じていれば、他の文化圏では差別のイメージであっても、日本国内で差別でなければ問題は無いはずである。だが今や、日本国内に多くの欧米人がおり、アメリカやヨーロッパに多くの日本人がいる。文化は重なり合い、<間>が問題になる。 
 今回の騒動は、直接的な差別というよりは、異なる文化の間でのイメージの問題として議論が起こっている点が特徴的だ。
 記事ではイー・モバイルの広報担当者が「結果的に不快な思いをさせたことに対しては申し訳ない。日光東照宮の三猿や孫悟空など、日本・アジア文化ではサルは高貴かつ知的で、人間に近い動物。人種差別とは考えなかった」とコメントしている。
 おい、おい、いくら高貴で知的でも、人間に近い動物扱いしたならそれはやっぱり差別だろう。ただし、この人がいいたいことも推測できないわけではない。たぶん、サルに譬えるのは見下して動物扱いしているのではない、ということではないか。
 人間は高貴なものだと考える欧米では、人間が猿から進化したとする進化論がなかなか受け入れられなかった。これに対し、もともと輪廻転生という考え方のある日本では、進化論が比較的すんなり受け入れられたということを聞いたことがある。
 日本では人とサルのイメージの境界は欧米よりずっとゆるく、上下の階層でとらえる意識も弱い。サルに人間の姿を投影したり、むしろ親近感をもって接している、というようなことをイー・モバイルの人はいいたかったのではないだろうか。
 ただし、これを本当に主張するには相当の論陣を張る必要があるだろう。日本でも侮蔑の意味で人をサルに譬えることはあるし。

 この記事を読んで、私がすぐに思い出したのは『猿の惑星』である。映画の原作となった小説は原作者のピエール・ブールが戦時中日本軍の俘虜になった屈辱的体験がもとになっている。サルは日本人だ。発想の根幹には明らかに差別的な意図がある。このことは比較的よく知られているにもかかわらず、できあがった物語が差別の意図を超えて面白かったせいか、発表当時から今日に至る政治的文化的軍事的歴史的力関係によってか、人種差別だから上映禁止にしろというような議論は起きていない。
 
 CMが企業のイメージアップのためのものである以上、今回の放送中止という措置は当然のことだろう。だが、これからますます文化と文化の間のイメージの問題は様々な形で表面化してくるだろう。
 たとえば、ある文化圏で神聖なものを意味するイメージが、他の文化圏では差別的なイメージだった場合、二つの文化の<間>では、どんなことが起こるだろう。政治、経済、軍事的な力関係によって決着がつくのか。それともそこに、芸術が関与し創造的な緊張関係を築くことができるのだろうか。

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2008年08月10日

『実録・連合赤軍 浅間山荘への道程』を見た

 やっと見た。面白かった。
 この映画が面白かったってどういうことだ。面白かった映画にも、面白く感じた自分にもとまどう。見たのはきのうで、感想をまとめようと思い、うまくまとめられず、今日になってしまった。
 連合赤軍の事件は私が高校生のときに起きた。それ以降この事件については多少は興味を持ち、関連書籍も二、三冊は読んだ。したがって、事件そのものにまつわる予備知識はそれなりに持っていた。
 ちなみに、私が通った高校では、私が入学する前年に大菩薩峠で数人の在校生が逮捕された。私はまったくのノンポリだったが、事件はそう遠くないところにあった。
 この映画を見るにあたって「衝撃」は期待していなかった。衝撃ということでいえば、事件が発覚したときが最も衝撃的だったはずだ。連日にわたる浅間山荘からの中継、その後シナリオに沿って明らかにされていくリンチ殺害事件。
 以後、衝撃自体は次第に薄れ、いつの間にか「連合赤軍―リンチ殺害・浅間山荘事件」は政治の季節の終わりを告げる象徴的な出来事にされた。
 眼を背けたくなる嫌悪感。それでいながら、自分自身も状況次第でリンチの加害者にも被害者にもなったのではないかという予感。事件の背後で、一瞬にして政治的な言葉が力を失っていくさま。そういった衝撃は1972年がピークで、どんな本を読んでも映画を見てもその衝撃を超えることはなかった。 
 この映画を見て、何か今までと違った考えを事件についてもてるだろうかが関心事だった。若松孝二監督がこの事件をどう描くのかに対する期待でもあった。
 そして、冒頭に書いたように、この映画は面白かった。この、面白かったということについて考えてみたい。
 月並みな言い方をすれば、3時間10分という時間を忘れ気がついたら映画が終わっていた、ということになる。その間何を見ていたかというと、人間ドラマを見ていた。
 新左翼モノとなれば、ややっこしいセクトの説明や時代背景の説明なども必要になってくるが、そのあたり簡潔にまとまっていて、抵抗なくドラマに集中できた。
 もっともこれは私が多少の予備知識を持っていたからかもしれない。
 社会を変革しようという若者の意識が前提になっている。この意識は、同時代に生きていれば、意見や立場は異なっても理解できるものだが、そういった意識がまったく共有されていない時代の若者に、どこまで伝わるかはわからない。そのこと自体が、奇異に映るかもしれないし、驚きかもしれない。
 人間ドラマといったが、それは、革命を目指す若者がどのようにして同志殺しにいたったのか、というドラマである。「なぜ同志殺しにいたったのか」というのとは少し違う。「なぜ」の回答なら映画である必要はない。論文のほうがよい。映画は出来事を総合的に描くから価値がある。総合的というのは、様々な立場からという意味ではない。どんな要因が絡み合い、どんな観念と、どんな事実の積み重ねで事態が進行していったのか、些細な事実まで含めてその状況を構造的に描く、そういう意味で総合的なのだ。くりかえすが、様々な立場からではない。
 事実、この映画では事件は連合赤軍のメンバーの側から描かれる。国家権力の側からは一切描いていない。
 面白かったというのは、この「革命を志す若者たちが同志殺しにいたる」ドラマから、眼が離せなかったということである。3時間10分集中して見てしまった。そして、それが自分と同じような人間の、よくある感じ方考え方の延長線上に生じた事件であることが実感されるのだ。若者らしい正義感、倫理観、生真面目さ、嫉妬、打算、ごく人間的な考え方や感じ方が、極限状況の中でボタンを掛け違うように重なりあい12人の同志殺害にいたる。
 総括のシーン、多くの仲間に問い詰められる若者。私がその場にいたら、どうしただろう。問い詰められる些細な理由、指導者の口ぶり、問い詰められる側の表情、言葉になる言葉、言葉にならない言葉、そこにいるメンバーたちの立ち位置、しぐさ、そういったことひとつひとつが丁寧に描かれる。遠山美枝子の死に至るシーンは胸をえぐる。
 映画自体は、オーソドックスな印象を受ける。見終わって、一番戸惑ったのはそこだ。一人一人の人間が、何を考え何を感じて生きているのか、そしてその延長線上に歴史的事件を描く。まっとうな映画じゃないか。面白いというのはそういうことである。
 だが、冷静に考えるとそのまっとうさこそが事件なのだ。適切な言い方ではないかもしれないが、NHKの大河ドラマで白虎隊を見るように連合赤軍を見る。大河ドラマの登場人物たちを見るのと同じ距離感で、私たちは連合赤軍の若者たちを見る。そして、そうやって連合赤軍の若者たちを見ている自分に戸惑う。
 若者一人一人を身近に感じたとして、12人の同志殺しをどう位置づければいいのか。白虎隊の同志殺しならお話ですませられる。だが、これはそうはいかない。

 欧米の映画ならば、ここに神と悪魔の問題が出てくるかも知れない。だが、日本の映画作家はそんな観念に逃げるわけには行かない。観念が事実の中に崩れ壊れているさまをも描かなくてはならない。観念があれば、私たちは何かに昇華した充実感を得られるかもしれない。しかし、それもむなしい。人間たちの事実を凝視するほかない。
 
 それにしても、まだ戸惑いは消えない。

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ラベル:実録連合赤軍
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2008年08月08日

北京オリンピック開会式を見て

 北京オリンピックの開会式を見ている。
 チャン・イーモウ演出によるセレモニーというかパフォーマンスというか何というんだかわからないが、選手入場以前の部分を見て不思議な気分になってきた。
 ライブパフォーマンスなのだが、まるでインフェルノやフレームで作られた映像を見ているような感覚になってくる。
 紙、筆、墨、活版印刷と中国が生んだ発明品からはじまり、メディアと文明の歴史を辿りながら、モノクロから極彩色の世界へとパフォーマンスは展開してゆく。
 何より舌を巻いたのは、ダンスや音楽、ヴォーカリゼーションなどのライブパフォーマンスとセットと映像がシンクロするように、緻密に構成されている点だ。
 会場となっている鳥の巣の中心に巨大な巻物が現れ、その上で様々なパフォーマンスが行われる。ダンサーが自分の体を筆に床面に線を引くような動きをすると、動きに添って巻物の上に線が描かれる。巻物が絵画のように埋め尽くされ、やがてゆっくり消えてゆく。
 パフォーマンスとセットがシンクロしているだけならば、この不思議な感覚は生まれないだろう。そういったものは過去にもたくさんある。映像がシンクロしていることが、この不思議な感覚を生み出している。
 映像は、ついこの間までは、あくまで実体とは別に映すしかできなかったのが、少なくとも国家予算をかけたイベントでは、実体と同等の存在感で映すことが可能になった。実体と映像の境界が曖昧になったことで、実態から映像へ、映像から実体への転移が楽になった。イリュージョンを生み出しやすくなったのだ。
 ところでひとつ気になったことがある。開会式をテレビで見ながら、ライブパフォーマンスを見ているのではなく、プログラムを見ているような気になってくるのだ。パフォーマンスが何かに向かって開かれているのではなく、閉じているような感じが強いのだ。
 これは、CGを使った映画でも同じだ。最近のハリウッド映画もそうだ。
 そして、その結果逆転現象も起こしている。以前、東京都写真美術館に展覧会を見に行ったら、たまたま古い友人の森岡祥倫君にばったり会い、今からレクチャーをするから聞いていけというので、聞いたことがある。そのとき彼が紹介していた作品に、『ピタゴラ装置』のように動きが連鎖して、つながっていく海外の乾電池のCMがあった。そのとき森岡君は「これを見て、CGだと思ってしまったけれど、実写でした。動きがうまく連鎖せず、何度も撮り直しをしたそうです」と言っていた。印象的だったのは「これを見てうまくできてるからCGだと思ってしまう感性ってだめですね」という言葉だった。
 一生懸命実写でやっても、うまくできてるからCGだと思ってしまう感性。その辺の危うい問題が、2次元の映像の問題だけではなく、立体的な3次元空間の問題としも浮上しつつある。
 オリンピックの開会式を見て、そんなことを考えた。本当は、もっといろいろ分析し、じっくり論じてみたいが、きょうのところはここまで。

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2008年08月02日

8月1日夜の続き

映写機これは35ミリの映写機。フィッシンガーは一部レーザーディスクで持っている作品だが大画面フィルム上映だと家では見えなかったところまで見える。ずっと表現の幅が広く、繊細だった。
エイゼンシュテインは一画面一画面隙ない。それにしても不幸な芸術家だ。そして、私はベルトフよりも異和感を感じる。

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8月1日の夜

スクリーン京都国立近代美術館でエイゼンシュテインの「イワン雷帝」の野外上映会があった。モギリの横に虫除けスプレーサービスのコーナーがあるのがおかしい。普段は駐車場だろうかスクリーンがしつらえてある。19時15分からオスカー・フィッシンガーの「スタディシリーズ」の3本が上映され、19時30分から「イワン雷帝」である。上映開始時はまだ薄明るい。イワン雷帝の戴冠式がすむころ、暗くなる。
フィルムはすべて東京国立近代美術館フィルムセンターからの貸し出しなので、わざわざ京都で見るのもどうかと思うが、野外上映会となると他人事とは思えないのだ。

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2008年07月26日

花火と映画と絵画

 ちょっと電車に乗って、隅田川の花火大会を見に行きたいところだが、今夜中に片付けないといけない野暮用があるのでがまん。そういえば、去年は東京湾花火大会に行った。
 ボボボボボッ、遠くで音が聞こえる。
 テレビをつける。中継が行われている。コンクール部門が面白い。作り手のアイディア満載で、意表をつくような動きや色が楽しい。フィナーレの「百花繚乱 墨田の大花絵巻」は静かに始まり、やがて光が空を埋め尽くすように炸裂し圧巻だった。
 花火は火薬を使った抽象絵画だ。カンディンスキーの著書に『点線面』があるが、花火は爆発した点が、帯を引いて線になる。点の爆発が連続して線になる。爆発した点が集積し、面になる。燃えた火薬の発する煙が、霞のような幕面をつくる。たぷリ水を含んだ墨や絵具のようでもある。煙の幕面は、短い間だがボリュームをもった色の塊になる。点、線、面、塊、さまざまな絵画的要素が、現れては入れ替わりやがて消える。
 ジョン・ウィットニーの、一連の点描抽象アニメーション、特に『アラベスク』を思い出す。レコード盤のような円盤に細かい点を打ち、裏から光を透過させカメラで駒撮りする。穴の大きさによって、また光の強さによって、一個一個の点に遠近感が生じる。星の等級のように。そして、円盤の回転をコンピュータで制御する。
 画面のどこかで点が光る、次の瞬間その脇で点が光る。私たちの目はそれを点の移動と見る。点滅のインターバルが短ければそれは線に見えるかもしれない。だが、点と点は全く別のもので移動したわけでも、つながった線でもない。ウィットニーの映画では、点から点への移動は関数によって制御されていながら、時々予想外の動きをする。気まぐれに見える。そして、点と点の間に連続性、言葉を変えて言えばアイデンティティはない。私は、その瞬間に入り込む非連続性が好きだ。
 花火は綿密に計算されながら、最終的には偶然が入り込む余地がたっぷりあるのだろう。花火師にも完全には制御できない。緻密さと偶然が夜空に描き上げるライブペインティングだ。

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2008年07月25日

最新ビデオカメラの脅威

 本棚を整理していると、1981年の『月刊イメージフォーラム』1月号が出てくる。何気なく開くとビル・ヴィオラの『ハリネズミと車』というエッセイが載っている。懐かしさについ読み始める。
 日本のビデオアーティストの多くに影響を与えた文章だ。私はちょっと違った経路でビデオアートを始めたのだが、当時ビル・ヴィオラは静かだが強い影響力を持っていた。パイクとヴィオラの影響力の違いというのも、話としては面白いが今日はやめておこう。
 『ハリネズミと車』の冒頭のエピソードは、その後もすっと覚えていた。正直言うと、読み直して持て冒頭のエピソードだけを覚えていたことに気づいたくらいである。それはこんなエピソードだ。
 あるとき、ビルビオラは友人から使い古しのオーディオカセットを袋一杯もらう。ビル・ビオラは興奮し台所にマイクとテープレコーダーを設置し、そこで起きるずべてを記録しようとする。何日か後彼は恐ろしいことに気づく。何十時間の記録したテープを聴こうと思ったら、同じ時間必要になる。巻き戻す時間を考えたらそれ以上だ。
 「もしも本気で一生続けようと思えば、人生がまだ半分のところで生きるのを止め、それまで録っていたテープを聞き返すのに余生を費やさなくてはいけなくなる」
(『ハリネズミと車』ビル・ヴィオラ 浜口邦子訳)

 ビル・ヴィオラは「何を記録しないか」が重要だとしている。そこで思い浮かぶのは、最近のビデオカメラだ。
 AVCHDと呼ばれるタイプの最新のハイビジョンビデオカメラの録画時間は、これまでの常識をはるかに逸脱している。ハードディスクに録画タイプのある機種だと、最高画質でも約14時間、最低画質では48時間連続録画できる。2日間回しっぱなしにできるのだ。
 『48時間』という映画があったが、ボタンを押すだけで今から48時間の出来事が記録できるのだ。
 映画は長い時間の出来事を、90分とか2時間に圧縮することで「現実」帆あの批評性を発揮してきた。ところが、48時間連続録画できるとなると、映像と「現実」の関係が変質しつつあるのかもしれない。
 ただ、そのことを正面かり上げた作品は、今のところお目にかかっていない。

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2008年07月24日

ハイビジョンビデオカメラ

 今日から3年後の2011年7月24日に、地上波アナログ放送は終了し、地上波デジタル放送となる。
 夜中に地震があったので、朝起きて地震の情報を見ようとテレビをつけNHKにする。
 画面の右上に「アナログ」の表示。出た出た。今日からNHKの総合、教育放送をアナログ放送で見ているとこの表示が出る。
 うちのテレビは時代遅れの烙印を押された。
 放送が変わると、テレビだけでなくハイビジョンビデオカメラなど色々なものを買い換えなくてはならない。
 私は依頼がない限り、まだSDのカメラで撮影している。見る・見せる環境が、まだまだSDのほうが多かったから。だが、徐々にHDを使う機会も増えてくるだろう。
 カメラが変わると、シャッターチャンスのつかみ方や勘の働かせ方、さらには体の使い方も変化する。狙いのはずし方も難しくなりそうだ。
 まず、画面のアスペクト比(横と縦の比例)が4:3から16:9に変わる事は大きい。デヴィッド・リーンでいえば『逢引き』から『アラビアのロレンス』への変化だ。。
 油絵を描いていたときも、Fキャンはよく使ったがPキャンはあまり使っていないな。Pキャンは細長いキャンバスだ。
 4:3は主題をひとつに絞って見せることが可能だが、16:9だと配置したものの関係を主に考えないと画面が持たない。横に広がることは、単に水平方向が広がるだけではなく、奥行き感覚も深まり複雑化する。ルネサンス絵画の空間の作り方など、もう一度研究してみたくなってくる。
 色々なことが変わりそうな予感がする。

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2008年07月22日

誕生日にハイビジョンを思う

 本人にとっては重要な意味を持ちながら、世間一般にとっては何の意味もない日が誕生日だろう。
 私が生まれたのが1954年、そして今年は54歳になる。これは何の符合でもなく、数字が揃ったからといって天からパチンコ球が降ってくるわけでもない。だが、本人はこういうつまらない符合に何か意味を見つけようとする。見つけようとするが、やはり何もない。
 1954年には、その後の日本映画に決定的な影響を与える二本の映画が封切られている。『七人の侍』と『ゴジラ』だ。その前の年、1953年、昭和28年2月1日には東京地区でNHKのテレビ本放送始まり、8月28日には日本テレビの民放初の本放送が始まった。そして、『ALWAYS三丁目の夕日』ですっかりおなじみとなった1958年(昭和33年)12月23日、東京タワー完工式が行われた。
 この完工式については、間接的な記憶がある。完工式の写真やニュース映画を見たのではない。たしか『ぼくら』だったと思うが、月刊漫画雑誌を買ってもらったらその中に『少年ジェット』という武内つなよしのマンガが載っていた。そのマンガで、この完工式が舞台になっており、そこに悪役ブラックデビルがあれわれ、式をめちゃくちゃにするのだった。
 その後、『少年ジェット』はテレビで実写版も放送されたが、そちらでこのシーンがあったかどうかは覚えていない。ただ、マンガを読んで東京タワーを始めて知り、父に色々質問をした覚えがある。
 家でテレビを買ったのが何年かはハッキリしないのだが、買った日のことはハッキリ覚えている。近所で友達と遊んでいた私を、テレビを買ったから帰って来いと父が呼びに来たのだ。
 ただし、小学生になったとき(1961年=昭和36年、4月)には確実に家にあった。しかし、1959年=昭和34年4月10日の皇太子・美智子妃の結婚パレードは近所の親戚の家にテレビを見せてもらいにいったので、おそらく1960年=昭和35年のことだろう。
 小学校高学年の頃には、カラーテレビを電気屋さんなどで眼にすることも増えた。私が通っていた学習塾は、地元幕張ではテレビセンターと呼ばれていた。学習塾の経営者と電気屋さんが親戚関係で、電気屋さんの裏に塾があっただけの話である。授業の合間にテレビセンターの前で、カラー放送の『ジャングル大帝』を見た。色が鮮やかだった。実写のカラーは不自然な感じがしたが、アニメーションはきれいだった。
 家のテレビがいつカラーになったのか、これもまた記憶がない。おそらくこの1、2年後だろう。そう考えると、白黒放送からカラー放送への移にはそんなに時間はかかっていなかったのだ。
 テレビについての最大の意識改革は、1980年にビデオカメラとポータパック(小型ビデオデッキ)を買ったときだろう。そこらの風景がテレビに映るのだ。8ミリで撮った風景を映写機にかけスクリーンに映した時の感動とはまったく違った。NHKやフジテレビが映るテレビに、自分が撮った風景が写るので。自分の行為が広く拡大していくように感じ、初めてセックスしたときのような感動だった。
 今日テレビを見ていると、2011年7月24日のアナログ放送の終了に向け、あさって24日からアナログ放送の画面の一部に「analog」という文字を出すという。何だか「時代遅れ」の焼印を押される様な気分だ。
 白黒からカラーへの移行は、比較的スムーズにいったように思う。カラーテレビを買わなければカラーで見えないだけで、白黒では見えた。だから、人それぞれの経済状態に合わせてあわてることなく、白黒からカラーへと自然に移行すればよかったのだ。
 だが、今回は廃止である。これから何が起きるか分かれないが、かなりの混乱は予想される。

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