やっと見た。面白かった。
この映画が面白かったってどういうことだ。面白かった映画にも、面白く感じた自分にもとまどう。見たのはきのうで、感想をまとめようと思い、うまくまとめられず、今日になってしまった。
連合赤軍の事件は私が高校生のときに起きた。それ以降この事件については多少は興味を持ち、関連書籍も二、三冊は読んだ。したがって、事件そのものにまつわる予備知識はそれなりに持っていた。
ちなみに、私が通った高校では、私が入学する前年に大菩薩峠で数人の在校生が逮捕された。私はまったくのノンポリだったが、事件はそう遠くないところにあった。
この映画を見るにあたって「衝撃」は期待していなかった。衝撃ということでいえば、事件が発覚したときが最も衝撃的だったはずだ。連日にわたる浅間山荘からの中継、その後シナリオに沿って明らかにされていくリンチ殺害事件。
以後、衝撃自体は次第に薄れ、いつの間にか「連合赤軍―リンチ殺害・浅間山荘事件」は政治の季節の終わりを告げる象徴的な出来事にされた。
眼を背けたくなる嫌悪感。それでいながら、自分自身も状況次第でリンチの加害者にも被害者にもなったのではないかという予感。事件の背後で、一瞬にして政治的な言葉が力を失っていくさま。そういった衝撃は1972年がピークで、どんな本を読んでも映画を見てもその衝撃を超えることはなかった。
この映画を見て、何か今までと違った考えを事件についてもてるだろうかが関心事だった。若松孝二監督がこの事件をどう描くのかに対する期待でもあった。
そして、冒頭に書いたように、この映画は面白かった。この、面白かったということについて考えてみたい。
月並みな言い方をすれば、3時間10分という時間を忘れ気がついたら映画が終わっていた、ということになる。その間何を見ていたかというと、人間ドラマを見ていた。
新左翼モノとなれば、ややっこしいセクトの説明や時代背景の説明なども必要になってくるが、そのあたり簡潔にまとまっていて、抵抗なくドラマに集中できた。
もっともこれは私が多少の予備知識を持っていたからかもしれない。
社会を変革しようという若者の意識が前提になっている。この意識は、同時代に生きていれば、意見や立場は異なっても理解できるものだが、そういった意識がまったく共有されていない時代の若者に、どこまで伝わるかはわからない。そのこと自体が、奇異に映るかもしれないし、驚きかもしれない。
人間ドラマといったが、それは、革命を目指す若者がどのようにして同志殺しにいたったのか、というドラマである。「なぜ同志殺しにいたったのか」というのとは少し違う。「なぜ」の回答なら映画である必要はない。論文のほうがよい。映画は出来事を総合的に描くから価値がある。総合的というのは、様々な立場からという意味ではない。どんな要因が絡み合い、どんな観念と、どんな事実の積み重ねで事態が進行していったのか、些細な事実まで含めてその状況を構造的に描く、そういう意味で総合的なのだ。くりかえすが、様々な立場からではない。
事実、この映画では事件は連合赤軍のメンバーの側から描かれる。国家権力の側からは一切描いていない。
面白かったというのは、この「革命を志す若者たちが同志殺しにいたる」ドラマから、眼が離せなかったということである。3時間10分集中して見てしまった。そして、それが自分と同じような人間の、よくある感じ方考え方の延長線上に生じた事件であることが実感されるのだ。若者らしい正義感、倫理観、生真面目さ、嫉妬、打算、ごく人間的な考え方や感じ方が、極限状況の中でボタンを掛け違うように重なりあい12人の同志殺害にいたる。
総括のシーン、多くの仲間に問い詰められる若者。私がその場にいたら、どうしただろう。問い詰められる些細な理由、指導者の口ぶり、問い詰められる側の表情、言葉になる言葉、言葉にならない言葉、そこにいるメンバーたちの立ち位置、しぐさ、そういったことひとつひとつが丁寧に描かれる。遠山美枝子の死に至るシーンは胸をえぐる。
映画自体は、オーソドックスな印象を受ける。見終わって、一番戸惑ったのはそこだ。一人一人の人間が、何を考え何を感じて生きているのか、そしてその延長線上に歴史的事件を描く。まっとうな映画じゃないか。面白いというのはそういうことである。
だが、冷静に考えるとそのまっとうさこそが事件なのだ。適切な言い方ではないかもしれないが、NHKの大河ドラマで白虎隊を見るように連合赤軍を見る。大河ドラマの登場人物たちを見るのと同じ距離感で、私たちは連合赤軍の若者たちを見る。そして、そうやって連合赤軍の若者たちを見ている自分に戸惑う。
若者一人一人を身近に感じたとして、12人の同志殺しをどう位置づければいいのか。白虎隊の同志殺しならお話ですませられる。だが、これはそうはいかない。
欧米の映画ならば、ここに神と悪魔の問題が出てくるかも知れない。だが、日本の映画作家はそんな観念に逃げるわけには行かない。観念が事実の中に崩れ壊れているさまをも描かなくてはならない。観念があれば、私たちは何かに昇華した充実感を得られるかもしれない。しかし、それもむなしい。人間たちの事実を凝視するほかない。
それにしても、まだ戸惑いは消えない。
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