2008年07月19日

『ビデオサロン』に8ミリの記事

 『ビデオサロン』の8月号に「今8mmフィルムで撮るということ」という記事が載っている。ビデオサロンが主催する「テレシネ映像コンテスト」というというイベントの関連企画ということだ。
 イベントの趣旨は、むかし撮った8mmフィルムをテレシネした映像を編集し、課題曲をダウンロードしてそれにつけて応募する、というものだ。ただ、むかし撮ったものばかりではなく、新しく8mmで撮影したものも受け付けるので、ぜひ応募して欲しいとのことである。
 記事は見開き4ページ、はじめの2ページでは往年の名機と呼ばれる8mmカメラが写真入で紹介されている。フジカZC1000、Z800、キャノン518SVなど、シングル8のカメラばかり、スーパー8はキャノン1014XL−Sの1台のみ。
 次の見開きには、8mmで最近の東京を撮った作例と、スーパー8とシングル8の説明がある。
 記事では8mmの魅力を、今この瞬間を撮影しても温かみがありノスタルジックに見えること、カメラを手持ちで撮影してもそのゆれが味に見えることの二つをあげている。
 これは、一般的な8mmの映像に対する反応だろう。だが、8mmのあの独特の画質を、ノスタルジーに結び付けずに評価する必要があるように思う。8mmフィルムは、単に古さをまとった趣があるのではなく、今なお現役のメディアとしてとらえることも可能である。今だからこそ、積極的に8mmの画質を35mmやハイビジョンとは別の、それらの代用品ではない独立した画材としてとらえることができるだろう。
 まだ公開になってはいないが、原将人監督の新作『あなたにゐてほしい』では、35mmやハイヴィジョンとともに8mmフィルムが効果的に使われている。まさに、8mmフィルムでしか描けない映像を作り出すための独立した絵具という使い方だ。
 とはいえ、こういったコンテストが行われ、8mmフィルムに再び光が当てられることは喜ばしい。
 私も、この1年半ばかり、8mmを積極的に使っている。21世紀になって8mmを使って作品作りをすると思わなかったが、あらためてその魅力を、積極的な価値として引き出してみようと思っている。

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2008年06月13日

実験映画のアーカイブ

 中野ZERO視聴覚ホールで、スタン・ブラッケージの『幼年期の情景』を見た。Section No.1〜4の一挙上映、合計すると140分だ。
 ブラッケージ、特にこの『幼年期の情景』については書きたいことが山ほどあるが、長くなりそうなのであらためよう。
 今日はそれとは別に感じたことを書いておく。ブラッケージの作品は、すべて16oのフィルムである。
 上映終了後、主催者であるミストラルジャパンの水由章さんが挨拶で語っていたが、フィルムによる実験映画の上映が少なくなってきている。
 いま、さまざまな映像があちこちで上映され、DVDで販売されたり、ネットでも簡単に見ることができる。だが、ブラッケージのような実験映画の歴史的な作品をフィルムで見ようとすると、なかなか機会がない。トニー・コンラッドも、先日の『イメージフォーラムフェスティバル』でふさびさにまとめて上映されたが、そういった機会を逃すとなかなか見ることができない。
 ビデオやDVDは便利なメディアで、実は僕もブラッケージの代表作『DOG STAR MAN』の全篇を見たのは、海外から取り寄せたビデオによってだった。
 フィルムで全篇を見たのはそのずっと後、ミストラルジャパンが輸入してくれたおかげだった。ビデオとはまったく違った映像の質感に圧倒された。
 個人がさまざまな映画と出会うチャンスを増やしたという意味では、ビデオやDVDは素晴らしいメディアだ。しかしブラッケージの映画などは、フィルムでないと味わえないものが多すぎる。絵画と複製の印刷ぐらいの違いがある。映画自体が複製なので、版画や写真のオリジナルプリントに喩えるべきだろうか。
 一見映像文化が華やかそうに見えて、歴史的な作品に体系的に触れる機会はない。実験映画や短編映画の歴史的な代表作は、公的な機関によるフィルムのアーカイブがあればいいのになあ。

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2008年06月05日

映像の死

 今日は混乱している。
 だが、実は醒めている。
 とにかく、思いついたことを書き飛ばす。 
 あらゆるジャンルは死を迎える。そしてそのあと、まったく異質のものとして生きながらえる。
 言葉は数年前に死んだ。言葉の死を端的に現していたのはアンチテアトルだ。イヨネスコやベケットの芝居は、言語の死と、それ以降の人間の生はいかにあるのかについての芝居だ。言葉の死は、言葉のテキスト化、言葉の自己運動と密接に関連している。言葉は、事物との照合関係を離れ、言葉自体で勝手に拡大再生産するようになった。
 ほとんど同じ事態を、いま映像は迎えている。映像の死。それは、映像のテキスト化、映像の自己運動と密接に関係している。映像は現実との照合関係を離れ、勝手に拡大再生産するようになった。その背景には、CGをはじめとするコンピュータの関与がある。いまこそ、映像に関するベケットの登場が待たれる。
 そのように、ジャンルが死を迎えた後にどう、生き延びるのか、人間はものをどう見るのかという問題に直面している。死を迎えるとは、直接的な表現が成立しなくなることである。
 今日はここまで。
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2008年06月03日

濡れた路面はフォトジェニック

 昨夜から雨が降り続いている。
 アスファルトの路面が美しい。晴れの日は乾燥して、味も素っ気もない灰色の路面が、しっとりと濡れ建物や電柱や樹木を写しだす。水鏡のように、だが水鏡ほどくっきりとした像ではなく、曇りガラス越しに見た外の風景のようだ。
 水が溜まったところには鏡面のようにくっきりとした像が写っているが、大半はアスファルトのざらざらした質感と流れる雨水が鈍く風景を映し出す。
 雨上がりの晴れた日、水溜りに写る風景も好きだ。地面に穴があいたようで、空がのぞいている。歩くと空は姿を変える。走水ではなく走空。水たまりを飛び越えるとき、空を飛び越えているような気分になる。
 だが、うっすらと風景を映し出す雨の日の路面のほうが、よりフォトジェニックだ。その幽かな風景は、映像というもののはじまりを思わせる。はじまりといっても誕生ではない。誕生は水溜りに写った風景だろう。雨の日の路面に写った風景は、それ以前の映像の懐胎とでも呼びたくなる。
 フォトジェニックとは、写真うつりがいい、写真ばえがするという意味だが、20世紀の初頭、フランスの映画理論家ルイ・デリュックは、その言葉により強い意味を吹き込んだ。語源にさかのぼると、フォトとは写真でありジェニーとは精霊である。デリュックは、写真に撮ることによって、そこに精霊が宿ると主張した。
 雨の日の路面に写る風景は、受精したばかりの映像のようである。分化し胎児へと成長する以前の、映像の精霊が宿っている。
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2008年06月01日

8ミリフィルムの自家現像

 先週お流れになった、若い友人の8ミリ映画の撮影に立ち会った。
 朝の6時に集合し、荒川の川原で撮影、フィルムはフジカシングル8、カメラはキャノン518SV。レンズの描写もよく、コマ撮りはもちろん、シャッター開角度は変えられ、巻き戻しもできるので、オーバーラップや二重露光が簡単にできる。中級機種だが、表現の幅が広く、かつては名機と呼ばれたカメラだ。たくさんの自主映画や実験映画の名作を生んだ。
 今日は撮りこぼしのカットの撮影だったので、撮影量は少なく、時間的には早く終わった。もっとも、えらそうに立ち会ったはいいが、私のミスでNGを出し監督には申し訳なかった。おっさんは冷や汗もんである。
 撮影後、監督宅で自家現像をするということなので、そちらにも立ち会った。自家現像は現像斑や傷ができやすいという欠点はあるが、撮影した映像が自分の手で浮かび上がってくるという感動がある。
 私は8ミリであれ、16ミリであれ、35ミリであれ、ムービーフィルムの自家現像にあまり興味はなく、よっぽどの狙いがない限り現像はラボに出したほうがいいと思っている。
 数年前、山梨県で行われている『ダンス白州』というフェスティバルの一環で、8ミリの自家現像を含むフィルムワークショップを、友人の映像作家、太田曜君や水由章君と一緒にやったことがある。その時も、自家現像の部分の指導は太田君や水由君におまかせした。
 ただ、フィルムをより身近にする手段として、自家現像は重要だと思う。8ミリという家庭用のカメラや映写機が、巨大産業システムによってしか制作できないと思われていた映画を、個人でも作ることができる道を開いた。同じように、現像というプロセスもラボ(現像所)の産業システムから離れて、自分たち個人でもできるのだという体験は、映画に対する考え方を一変させる力をもっている。
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2008年05月30日

吉村公三郎『源氏物語』の空間感覚

 仕事の関係で、『源氏物語』が絵画や映画などの視覚芸術でどう表現されてきたかを調べている。きのうは、吉村公三郎の『源氏物語』を見た。近所のビデオショップにDVDはなくVHSを借りてきた。
 ところどころ、はっとするような空間感覚に出会う。なつかしいというか、すっかり忘れていたような身体的な感覚である。一度見ただけなので、具体的にシーンを示し説明することができない。今ここでは、思いつく言葉で当たりをつけておくに留めよう。
 舞台は平安時代の宮中あるいは家屋。ヨーロッパや現在の日本の家屋とちがい、建物の内部に壁が少ない。すだれや垂れ下がった紗といった曖昧なパーテーションで空間が区切られている。極端な場合、柱と梁といった枠だけが、境界を示す。
 光源氏はそういった空間を、あるときはひっそりと、あるときは堂々と通過し、女の下へ通う。
 内と外が開かれているようで、閉じられている。カメラはそういった空間内の視線や心のやり取りを繊細に映し出す。
 たとえば、源氏の顔の後ろに見えるすだれ越しの風景のボケ味。 
 絵巻物を意識してか、カメラが上手斜め上から舞台や人物をねらうショットがいくつか散見される。もっともこのアングルは、絵巻物というより、単に映画的なもののようにも感じられる。ただし、上からねらうときのカメラの高さがあまり高くない。 
 また、道路を移動するカメラが、塀の少し上から屋敷の中をのぞき見るようなショットがあった。背の高い人なら、実際こう見えるだろというような映像である。極端なカメラワークは避けられ、身体的な空間感覚の延長上にカメラは据えられているように思う。
 現在の私たちの居住空間では忘れられたが、かつてみんなが持っていた空間感覚である。
 意図的なものなのか、時代がなせる業なのか。たぶん両方だろう。時代といっても作られたのは1951年である。平安時代ではない。映画という近代テクノロジーによって平安時代を描こうと、考えられたさまざまな意図が働いているのは当然だろう。また、当時のフィルムや機材の特性も関係しているように思う。同じようなカメラ位置や露出や照明で撮っても、現行のフィルムやハイビジョンではこうは撮れないような気がする。ハッキリ映り、細部の曖昧さに潜む空間感覚が消滅してしまうのではないか。
 蛇足かもしれないが、DVDではなくVHSというのも私の鑑賞体験には幾分影響していたかもしれない。
 
 今のところ思いつきの覚書なのでこの辺にしておくが、他の源氏ものとも見比べてみたい。
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2008年05月27日

ハイビジョンカメラと記憶喪失

 学生が家庭用のハイビジョンビデオカメラを持ってきた。
 ところがカメラの映像が、コンピュータに取り込めない。
 コンピュータにつなぐIEEEケーブルの入り口が見当たらない。USBの入り口はあるのでつないでみてたが、取り込めない。データを記録しているSDカードを取り出し、カードリーダーをつないでもだめ。
 調べてみると、ハイビジョンビデオカメラでは、テレビとつなぐときはHDMIミニ端子、コンポーネント端子あるいは従来の映像・音声信号の端子で、パソコンとつなぐときはUSBということらしい。これまで使われていたIEEE(ファイヤーワイヤー/iリンク)の端子はないカメラもあることを初めて知る。
 というとややこしいが、つまり今まで使っていた線は使えず、違う線を使わないといけないという本当にややこしい話だ。
 カメラに付属している専用ソフトを使えば、コンピュータへの取り込みや簡単な編集ができるが、複雑な編集はできない。
 今の学校の設備を導入した時、ハイビジョンは無視していた。過渡期なので。だが、2011年も近づき、これから学生がカメラを買うとなると、当然ハイビジョンになる。もう対応を考えないといけないときが来ているのだ。もちろん、しばらくは現行のフォーマットも使えないと困る。現行フォーマットがいつまで使えるかも重大な問題である。
 ああ…、データのやり取り等、煩雑な事が増えそうだ。創造性教育とはまったく関係がない。また、学校の機材をすべてハイビジョン対応に切り替えると莫大な金がかかる。
 ベータ、VHS、8ミリビデオ、その前にVHS−Cというのもあった。そしてミニDV。業務機でいえば、Uマチック、Mフォーマット、ベータカム、ベータカムSP、DVCプロ、DVカム、記録のフォーマットが現れては消えた。
 こういったことは、2011年が過ぎれば収まるのだろうか。たぶん収まらないだろう。
 先日のフィルムによる映像の保管の問題とも絡むが、記録フォーマットが変わり、過去のテープが再生機がなくて再生できなくなるという事態は文化的な記憶喪失である。

 学生が持ってきたハイビジョンビデオカメラという玉手箱のおかげで、私は浦島太郎になったような気分である。
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2008年05月25日

フジカシングル8とフィルム文化

 きのうから雨がふり昼にはやんだが、一日中曇りで時々小雨がぱらついた。だが、夕方総武線が荒川の鉄橋を渡るとき、きれいな夕焼けが見えた。
 若く才能ある友人が映画を撮るというので、早朝から撮影に付き合うつもりだったのだが、あいにく中止となった。8ミリフィルムで撮り、自家現像するという。8ミリといっても一昔前の8ミリビデオではない。それよりずっと古い、8ミリフィルムである。だが、8ミリビデオは過去のメディアだといえるが、8ミリフィルムはかけがえのない現役のメディアである。
 ハイビジョンが使いやすく手ごろになりキネコの精度が上がるまでは、映画といえばフィルムだった。そのもう少し前、家庭用のビデオカメラが普及するまでは、運動会や子どもの成長記録など動画で記録しようと思ったら8ミリフィルムだった。そして、8ミリフィルムはホームムービーだけでなく、自主映画のメディアだった。今活躍中の映画監督の多くが8ミリの自主映画出身だ。
 では、8ミリは35ミリで撮れない若者がその代用として使ったメディアにすぎないかというとそうではない。8ミリカメラの機動性や、フィルムの独特の画質に注目し、8ミリにしかできない独自の表現を切り開いた実験映画、個人映画の作家たちがいる。
 それらに優劣をつけるのではなく、ホームムービー、劇映画、実験映画、といった目的も規模も違うジャンルが8ミリというメディアを共有したところが重要である。
 8ミリには、16ミリを裁断したダブル8、コダックのスーパー8、富士フイルムのフジカシングル8と、3つのフォーマットがある。それぞれに機能や画質の特徴があり、できることも多少違ってくる。フジカシングル8は日本独自のフォーマットである。
 2006年に富士写真フイルム工業(現、富士フイルム工業)が、シングル8の生産および現像サービスの中止を発表した。友人の呼びかけで映像作家や批評家が集まり「フィルム文化を存続させる会」を発足、私もその一員として活動した。私たちの交渉だけでなく、多くのユーザーからの声もあったのであろう。結果的に、去年の1月に富士フイルムから、フィルムの販売と現像は数年延長するという発表があった。だが、生産そのものは中止であることに変わりない。
 私たちが会の名称を「シングル8を存続させる会」ではなく「フィルム文化を存続させる会」にしたのは、銀塩写真を含め、メディアとしてのフィルムがデジタルに押されて、産業的には消滅してしまうのではないかという危機感からだった。
 そんななか、きのう(5月24日)の朝日新聞の夕刊に映画史家で東京国立近代美術館フィルムセンター主観の岡島尚志さんという方が『映画、フィルムで保存を/万能でないデジタル』という記事をお書きになっていた。内容は国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)の70周年記念年次会議で行われた「映画フィルムを保管し続けること」に関する議論の報告である。デジタル化した後もフィルムは保管すべきであるということだ。記事の中ではFIAFがまとめようとしている「70周年記念マニフェスト」の素案も紹介され、保管すべき理由も書かれている。やや長いので、私なりに言い換えて要約すると@フィルムは文化財である。Aフィルムには目に見える画が記録されているので簡単に元の情報を読み取り複製することができる。Bフィルムは保管条件がよければ100年以上保存できることが実証済みである。Cデジタル時代には簡単にコンテンツの改変がなされる可能性があるので元の状態を知るためにもフィルムを保管する必要がある。ということになる。
 多くの部分が「フィルム文化を存続させる会」のでの議論とも重なり、意を強くした。私たちが重視したのはフィルムは物質であり、デジタルは記号であるという点だ。物質で描かれた絵と記号で描かれた絵では感じるものが違う。また、記録メディアとしてもフィルムはストック型のメディアだが、デジタルはフロー型のメディアということになる。
 0と1の記号で描かれた絵はデータであり再生機という翻訳機がないと読みとれない。物質で描かれた絵は肉眼で読みとれるし、光源とレンズという簡単な装置があれば増幅できる。
 フィルムの重要性が広く議論され認識されて欲しい。
 DVDはロゼッタストーンに及ばず。???
   
フィルム文化を存続させる会http://filmmover.exblog.jp/
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2008年05月22日

あがた森魚さんと鈴木志郎康さんの映画

 近所で、だだっ広い畑につぎつぎと集合住宅を建てている。今日は2階建のアパートの3棟目が建てられた。最終的には9階建てのマンションも建ち、景観が一変するはずだ。変化する風景を、デジカメで毎日定点観測的に撮影している。 
 日々変化する風景を撮影しながら、ゴールデンウィークに新宿のパークタワーホールで開催された実験映像の祭典『イメージフォーラムフェスティバル』で見た3本の作品を思い出した。
 あがた森魚さんの『もっちょむぱあぷるへいず』(38分)、『うすけしぱあぷるへいず』(60分)という2本の作品と、鈴木志郎康さんの『極私的にコアの花たち』(ビデオ・50分)という作品だ。
 あがた森魚さんの2本はあがたさん自身がハンディカメラを持って毎日撮り続けた映像を、若手映像作家が編集し完成させた作品である。『もっちょむ〜』は岡本和樹さん、『うすけし〜』は中縞信太郎さんが編集を担当し共同監督としてノミネートされている。毎月1本の作品にまとめ、DVDにしてライブの時に配る、ということが1年以上続いているというから驚きだ。
 鈴木志郎康さんの作品は、自宅の庭を一年にわたり毎日撮り続けたもの。さまざまな花が咲き、枯れてゆく。こちらもカメラはハンディでかなり自由なカメラワークだ。毎日数分ずつに編集され、私たちは365日の変化を見届けることになる。場所を庭に限定し時の流れを浮かび上がらせる。撮影テープは10時間ほどあり、本当はそれを全部見るといいんだよね、と鈴木さんは語っていた。 
  2人の作品には違いもあるが、長時間の撮りっぱなしで可能な限り何かを記録しようという強い意志が働いている点では共通している。単に映像を記録しようとしているのではない。それ以上の何かを記録しようとしている。
 カメラの小型化と記憶容量の増大が、映像や記録というもの、そして生というものを変質させるかもしれないということを最近時々考えるのだが、この3本の作品はそういった変質をリアルに予感させるものだった。
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