2009年11月01日

決定的瞬間はアマチュアが撮る

 決定的瞬間ということばがある。
 フランスの写真家アンリ・カルチェ・ブレッソンが1952年に『決定的瞬間』という写真集を発表した。ブレッソンがいう決定的瞬間とは、そこで何が起きているかを鮮明にとらえながら、しかも構図が美しい写真である。
 いま広く使われているのは、構図の美しさまでは問わず、出来事を鮮明にとらえている映像という意味だ。構図が問われるのは写真の場合だが、今はテレビやビデオの分野で使われることが多い。瞬間をとらえるには時間のある動画のほうが有利だ。日本テレビ系列で不定期に放送される『世界の決定的瞬間』という番組があるが、事故や事件といったものから動物がこけた瞬間といったようなものまで、珍しい出来事映像の総称となっている。
 ブレッソンの掲げた美学とは、かなり異なったものであることがわかる。
 ところで、きのうの創形美術学校の「卒業生による作品展」のオープニングパーティで、写真家の薄井崇友さんと話していたときに、写真や動画のデジタル化の話題になった。いまの報道写真は、多くがデジカメで連写で撮影し、データを送ってデスクが選択するようになっている。写真の選択をするのはカメラマンではなくデスクであり、カメラマンはシャッターを押す役割に限定されてきているというようなことについて話していた。「決定的瞬間ってなくなるのかな」と僕が言うと、薄井さんは「いま決定的瞬間を狙っているのは素人でしょ」といった。
 ここでちょっと話題は飛躍しているのだが、会話ってこんなもの。この言葉はなかなか面白かった。
 彼が言うには、突発的な事件が起きても多くの場合それを撮っている映像があって報道されるというのだ。素人がビデオや携帯で撮影し、それが報道に利用されているケーをよく目にする。報道されない映像といったらそれこそ計り知れない。
 ブレッソンの「決定的瞬間」から静止画と構図という限定を取り除くと、写メール文化になる。
 このテーマちょっと面白いな。また考えよう。


posted by 黒川芳朱 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ひろった名言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月30日

大串孝二「床がない」

 きのう大串孝二さんが言っていた言葉がなかなか印象的だった。
 どんないきさつだったか忘れたが、酒が進むに連れて現代社会論のような話になってきた。まあ別に酒が進まなくても、大串さんと話しているとどっかの時点で現代社会論のような話になるのだが。
 きのうの比喩はなかなか面白かった。
 人間は大地にどかっと寝ているのが基本だ。だが、現代は壁があちこちにでき壁ばかりになっている。人間は壁によって立たされている。壁がいろいろなものを細分化し、いつの間にか足もとにほんのちょこっとしか床がなくなっている、とまあこんな話だった。正確ではないが。
 壁による再分化というのが面白い。そういわれると現代においては、いろいろなものが再分化によって、実体が存在しているかのような幻想を生み出しているような気がしてくる。真っ白い紙に細かな線をたくさん引く。そこに何か実体があるかのようなイリュージョンを生み出す。絵を描くときの基本だが、そんなことが社会的に行われているというわけだ。うーむ、うまい比喩だなあ。
 いろいろ思い当たる節がある。美術だの、映画だの、現代芸術だのというのもいろいろ細かくジャンル分けしたり分類したりすることで、あたかもそこに複雑な実体があるように見せているのではないか。だだっ広い空間にパーテーションをいっぱい建てる、中にたいして物はなくとも壁が空間を区切ることでそれが実体に見える。
 そういえば、千葉の郊外を車で走っていると「巨大迷路」という施設を時々見かける。畑の真ん中とか、だだっ広い空き地のようなところに。客は入るのかなあ。空間を壁で区切るだけでできるレジャー施設だ。現代社会はベニヤで区切られた巨大迷路か。
 そして、ポイントは床がなくなっているということだ。
 鮮明なイメージなので、ついいろいろなものに当てはめてみたくなる。あてはめては納得してしまうアナロジーの罠には気をつけよう。そういえば安倍公房に『壁』って小説があったな。
 そんなことを考えていたら、なぜかあまり好きではない歌のメロディが浮かんできた。

都会では
売れ残った
マンションが増えている
けれども
問題は足の裏
床がない
posted by 黒川芳朱 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ひろった名言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月04日

女子専門学校生のつぶやき

 私は言った覚えはないが、「自分を信じてがんばれ」というような言葉がある。大人が若者を励ますときに云ったり、J−POPの歌詞にもありそうな言葉だ。
 
 今日は某専門学校で、夏休み明けの初授業。夏休み前に出しておいた課題作品の制作だ。企画コンテを描く学生、撮影する学生と進行具合は様々だ。撮影を終え編集に入った女子学生もいる。
 そういえば、女子高生、女子大生という言葉はあるが、女子専門学校生、あるいは女子専門生という言葉はないな。男子校というものは存在するが男子校生という言葉はあまり聞かない。
 じゃあここで、タイトルに女子専門学校生というのをつけてしまおう。だが、女子専門学校生というと、女性だけしか入学できない専門学校のようにも思えてくる。看護学校なんかはそうかな。もちろん、今いっているのはそういう意味ではない。言葉はちょくちょくこちらの意図からはみ出したイメージを呼び込んでくる。言葉のマジックだ。
 女子大生という言葉は、もともと共学の大学の女子学生にも使ったのだろうか。それとも女子大学の学生に対して使ったのが始まりだろうか。いずれにせよ女性で大学に行くのが珍しかった時代の名残をとどめている。
 
 さて、パソコンに向かって編集中の女子学生、もう1人の女子学生と雑談をしている。夏休みの課題の話だ。芸術系の専門学校では、いろいろな科目がたっぷりと課題を出す。
 彼女は課題をこなすのに、もくろみ通りいかず夏休みの終わりに大慌てになったらしい。そこで一言。
 「あたしさぁ、自分を信じすぎてたんだよね」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜本日おかしばなし〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ひろった名言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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