2009年10月30日

『小学六年生」休刊に思う

 いまさらの話題だが、この26日に小学館が『小学五年生』と『小学六年生』を来年の3月号(『六年生』は2.3月合併号)で休刊にすると発表した。報道によると、休刊の理由は「学習から生活まで幅広く網羅する編集方針が読者のニーズに必ずしも合致しなくなった」ということらしい。部数の落ち込みは半端ではない。1973年の『小学五年生』63万5000部、『小学六年生』46万部が過去の最高部数だが、現在は、5、6万部だという。
 『小学五年生』や『小学六年生』は学習雑誌と呼ばれてきたが、子どもの総合雑誌ともいえる。大人の世界でも同じだが、趣味やニーズが多様化し、メディアも多様化した時代に総合雑誌は人気がないらしい。
 俺は、低学年の頃『小学○年生』をとっていた。『小学二年生』には『二年ねたろう』という白土三平の漫画があった。あと、横山光輝の『鉄のサムソン』というロボット漫画も覚えている。『二年ねたろう』は絵がかわいくて大好きだったが、題名の意味がよくわからなかった。もう少し大人になって、『三年寝太郎』という民話があることを知った。小学二年生対象の学習雑誌だからそれをもじってこんな題名をつけたという大人の事情がわかれば何ということのない題名だが、まさに小学二年生にはさっぱり意味のわからない題名だった。はじめは小学二年生の自分にひきつけ、大人が主人公に「もう二年生ね、太郎」といっているのかと思った。でも時代劇だし、主人公は学校に行っているわけでもない。謎だった。
 他には、学研の『学習』と『科学』があり、これもとってもらった。『科学』は付録が本格的な実験器具や観測器具だったのが魅力だった。高学年になると『小学五年生』も『小学六年生』もとらず漫画雑誌『少年』をとってもらった。『学習』と『科学』はどうしたか覚えていない。
 『少年』は『鉄腕アトム』と『鉄人28号』が連載されていた。それだけで輝いていたが、他にも『ストップ兄ちゃん』など面白い漫画がたくさん載っていた。漫画雑誌だったが読み物も多く、付録に雑学の手帳のようなものが毎号ついていた。『少年』の組み立て付録は構造がこっていた。戦艦を機関銃で撃つと戦艦が真っ二つに割れるというような複雑な模型を、紙と割りピンと輪ゴムだけで毎号作るのだ。単なる漫画雑誌というより、総合雑誌の趣があった。
 中学に入ると『中1コース』『中1時代』という2冊の雑誌があった。学習雑誌の場合、学校での授業の進行と並行するように学習関係の記事が組まれており、参考書の役割も果たしつつ、漫画や小説、さらに中学生の男女交際はどうあるべきかというような記事もあった。
 学習雑誌は学年が上がるのと並行して、雑誌もいっしょに2年生や3年生に繰り上がってくれているという実感があった。記事の中に継続するものがあったかどうか覚えていないが、学校の先生の何人かがいっしょに繰り上がってくれるように、雑誌も成長を見守ってくれている感じがした。2年生になって『中1コース』を見ると自分の知っている『中1コース』と漫画や小説が違い、違和感を持ったりした。
 もう何年も前から、マーケティングの世界では大衆から分衆へというようなことが言われている。個人の好みや趣味関心が多様化し、十把一絡げにとらえられなくなっているというわけだ。たとえば歌謡曲でも老若男女誰もが口ずさむ歌というものがほとんどなくって久しい。美空ひばりのような国民的歌手という存在がいない。ジャンルの名称そのものが歌謡曲とJ-POPに分かれている。お年よりは安室奈美恵を聞かないし、うんと若い子もまた聞かない。ある限られた世代のアイドルだ。
 総合学習雑誌が難しいことはわかる。わかるのだが、自分自身の成長過程を考えると、学習記事もあり、スポーツもあり、漫画もあり、小説もあり、付録もあり、という雑誌のあり方は「総合」という概念を形成するのに一役買ってくれたような気がする。「総合」と名づけられたメディアがなくなり、パーツだけになっていく。それはそういう流れなのだろう。いろいろなものを自分で体験して楽しみつつも「総合」という概念を形成するメディアがなくなっていくのかなあ、と思ってしまう。「総合」という概念はまだまだ重要に思うのだが。
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2009年10月21日

『残虐記』を読んだ

 きのうのことになるが、桐野夏生の『残虐記』を読み終えた。18日、白州に向かう列車の中で何か読もうと新宿駅構内の書店で、薄めの本を探した。久し振りに小説が読みたかった。
 自分ではあまりストーリーのある映画を作らないが、実はストーリーものが嫌いではない。何よりもあの時間を忘れる感じが好きだ。だから土曜ワイド劇場のようなドラマも、暇だとつい見てしまう。
 で、『残虐記』はどうだったかというと、面白かった。どう面白かったかというと、これがやっかいだ。どこまでこの物語を信じていいのか途方にくれるような物語であり、そこが面白かった。物語が作り話であることは当然である以上、普通は物語を信じる必要はない。お話として楽しめばいいのだ。だが、この物語はそこが一筋縄では行かない。
 著名な女流作家が、自分は子どもの頃少女誘拐監禁事件の被害者だったという手記を残して失踪してしまう。
 小説は、その作家の夫を名乗る人物が、彼女の担当編集者だった男に向けて書いた手紙から始まる。手紙によれば、作家は二週間前に失踪し、ワープロのそばにプリントアウトして原稿があり、手紙の相手である編集者に送ってくださいとポストイットが貼ってあった。そしてその手紙に、残されていた原稿『残虐記』が続く。『残虐記』の冒頭には、誘拐監禁事件の犯人から作家へあてた手紙が付されている。犯人は去年刑務所を出たといいます。それに作家自身が体験した誘拐監禁事件の詳細が記される。そして、最後にまた、担当編集者に向けた夫と名乗る男の手紙が続き終わる。
 奇妙なのは、手記の中で作家は自分は独身だといっていることだ。だとすると、この作家の夫を名乗る男は何者か。夫の手紙と本人の手記と、犯人の手紙の関係が、根本的に成り立たなくなる。全てはこの男の妄想であり、捜索かもしれない。小説はもちろんフィクションだが、読者はそのフィクションをある仮想された位置から仮想された角度で眺め受け入れる。そのことが成り立たない小説。
 物語をどこまで信じていいかというのはこのことである。
 この不確定な関係は、リアルだ。
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2009年10月11日

『ぴあ』を探して

 さて、きのうに引き続きイベント探しだ。イベント探しに必須のものといえば『ぴあ』だ。
 むかし(10年ほど前)は毎号買っていたのだが、ここのところあまり買っていなかった。最近は必要なイベントにしか行かず、なんとなく面白そうなものを探すということをしていなかったのだ。そもそも何曜日が発売日なのかもわからなかった。久しぶりに『ぴあ』を買ったことは8月29日に書いた。買ってみたら隔週木曜日刊だった。これはむかしと同じかな。
 驚いたのは、『ぴあ』を買おうとしてずいぶんてこずったことだ。むかしは、駅の売店でもコンビにでも書店なら必ず手に入った。今は置いいているところが極端に少なくなっていた。駅の売店でまったく見かけなかった。コンビにもごくたまにしかおいていない。書店もよく探さないと見つからない。今日は鐘ヶ淵駅前のセブンイレブンで見掛け、船橋の旭屋書店で買った。
 ここ数年で、情報の集め方が大きく変化した。ひとつはフリーペーパーの存在だ。求人やアルバイト情報誌も、一応書店に置かれているが、それ以上にフリーペーパーがあちこちに置かれている。飲食店をメインに様々なお店の情報を提供するフリーペーパーもある。ただ、イベント情報の総合的な情報のフリーペーパーは見たことがない。
 そしてより大きいのは紙媒体からインターネットへの変化だ。こちらは、ピンポイントで情報を探すときには便利だ。イベントのタイトル、アーティスト名、などがわかっているときは一発で探せる。あるいは、あそこの美術館では今何をやっているのかなといったように開催場所から探すこともできる。
 ただ、ネットではなんとなくふらふら情報の中を散歩して偶然に面白いものに出会うというのが難しい。ちょっと矛盾する言い方だが、ネットのほうが目的がはっきりしていないと、本当に迷子になってしまう可能性がある。
 ネットでは、情報は上位のフォルダから下位のフォルダに分類されるように細分化される。実はこれは紙媒体でも同じなのだが、紙媒体の場合は読み手の自由度が高く、作り手の設定した分化の枠を軽々と超えてしまう。
 紙媒体の1ページにはかなり多くの情報が盛り込まれており、一瞬にしてたくさんの情報が目に飛び込んでくる。ネットの場合、情報量が多くなればなるほど、ページを上下する動き、場合によっては左右にも移動する動きが必要となってくる。紙媒体なら新聞だってページ全体を一瞬にして眺めることができる。
 また、ネットでページを変える感覚と、紙媒体でページをめくる感覚はまったく違う。紙媒体なら、指を挟んでおきページを行きつ戻りつすることも簡単だ。だが、ネットではページの移動が光通信でも一瞬間がある。前に戻ろうとするとまた時間がかかる。時間を食われる感覚はネットのほうが圧倒的に大きい。ユーザーとしての時間感覚は、紙媒体のほうがノンリニア(非直線)であり、ネットの方がリニア(直線)である。人間の持つ瞬間的な認知能力との親和性は紙媒体のほうがはるかに高い。
 本は情報の塊を手の中で操作する。ネットは情報の海に中を泳いで行く。紙媒体のほうがページ全体を眺めることも、ページを超えた比較も簡単にでき、情報の海を俯瞰から眺め易いのだ。
 ネットの場合、膨大な情報の中から狙ったものを検索で引っ張り出すことはできるが、検索するということは、曖昧なキーワードをいくつか並置するにしても探す対象がある程度決まっているので、まったくの偶然の出会いではない。
 紙媒体で情報を俯瞰していると、思ってもみない情報と出会うことがある。検索キーワードといってこちらの予測を超えた情報に。
 ネットで、デタラメなキーワードを入力して検索をかけ偶然に出てくる情報を見るという方法もあるが、ちょっと効率が悪いのでこれは完全に遊びと割り切ったほうがいいだろう。
 情報の海を俯瞰で眺める楽しみには、やっぱり雑誌の『ぴあ』が欠かせない。
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2008年10月16日

『ワークショップ』を読んだ

 岩波新書の『ワークショップ ―新しい学びと創造の場―』を読んだ。著者は中野民夫という人で、本書の著者略歴ではワークショップ企画プロデューサーとなっている。あとがきには「私は研究者でも学者でもない」とあるように広告代理店に勤務する傍ら、市民グループによるワークショップの企画運営などの活動を行っているらしい。興味深いプロフィールの人である。
 この本は2001年に初版が出ているので、もうずいぶん前の本ということになる。実は以前からちょっと気にはなっていたのだが、つい読まずじまいで今日まで来てしまった。読んでみて、やはり今このタイミングで読んでよかったのだと思う。
 ワークショップとはなにかをひとことで言うのは難しい。様々なジャンルでの学習やコミュニケーションの方法なのだが、単なる方法というよりは思想といったほうがいいだろう。
 本来の言葉の意味を説明すればすむ言葉ではない。もともとは工房とか作業場といった意味だが、その言葉の意味よりも、その言葉をどういった言葉の替わりに使おうとしたかが問題なのだ。
 学校や会社や工場や役所といった言葉、あるいはそういった機関が属性としてもっている関係性に満足できない人々が、それらの言葉に「作業場=工房=ワークショップ」という言葉を対置したとき、まったく新しい何か、未知な関係性を希求していたことは想像に難くない。つまり、オルタナティブということだ。だが、それはジャンルによって、その人の立場によって様々だろう。ワークショップという言葉の説明しにくさは、こういった事情による。共通性があるとすれば、従来型の教育・学習や関係性よりも有機的な関係性ということだろう。
 著者はワークショップの特徴として「参加体験型」と「双方向性」ということを挙げている。単なる座学ではなく、参加者自信が体験的に何かを学ぶことで変化していくこと、教師や指導者から一方的に何かを教わるのではなく、リーダーから参加者へ、参加者からリーダーへという働きかけの中でワークショップの場が生まれる。
 ワークショップという言葉のもうひとつの特徴は、ジャンルを超えてある関係のあり方を希求する場合に使われるということである。演劇のワークショップ、美術のワークショップ、ダンスワークショップ、自己解放のためワークショップ、精神療法のためのワークショップ、都市開発のためのワークショップ、地域の抱える問題解決のためのワークショップ、環境問題のためのワークショップなど、ジャンルも規模も目的も異なるものが、同じワークショップという言葉を使うところに特徴がある。そこで問われているのは関係のあり方だ。
 著者の中野氏は留学中にジョアンナ・メイシーのワークショップを体験し、その後も様々なワークショップを体験したようだ。またワークショップとうたってはいなくとも、大学や地域コミュニティの関係の中にワークショップ的なものを見つけ出し、ワークショップという言葉にそれを集約していく。著者自信が企画運営したワークショップのレポートも紹介されている。
 本書はややつかみ所のないワークショップというものを、うまく整理してくれている。
 私がこの本に興味を持ったのは、私自身80年代の初頭からワークショップを考え、ワークショプをやることに夢中になっていた時期があるからだ。
 ダンサーの田中泯さんの呼びかけで集まった仲間と、身体気象研究所をいうグループをつくった。このグループはダンスのグループではなかった。アーティストの集団でもなかった。様々なジャンルの人が身体というものをキーワードに、もう一度文化を見直そうという壮大なコンセプトのグループだった。ダンサーはダンスを、美術家は美術を、教師は教育を、宗教家は宗教を、一人一人が自分の職業や表現ジャンルを身体というキーワードで見直すところからはじめ、それを共有し、周辺へ、文化へとその目を広げていこうという小さいけれど壮大なムーブメントだった。
 そのグループの活動の基本がワークショップとパフォーマンスだった。しかし、ワークショップという言葉がもともと今までにないもの、オルターナティブなものを指していたため、私たちはさまざまな言葉を駆使してワークショップについて語った。仲間内で、公開ワークショップに参加する人に対して、そして自前の機関紙やチラシで。「参加体験型」「双方向性」ということも盛んに語り書いた覚えがある。「ワークショップは単なる訓練ではない」ともいっていた。
 また、その活動の延長で、アメリカの建築家ローレンス・ハルプリンと彼の奥さんでダンサーのアナ・ハルプリンが日本で行ったワークショップにも参加した。
 数年後、自己開発セミナーがブームになり、オウムの事件があった。ワークショップという言葉は、もともと明快な定義がなかったため、こういった事柄にまみれてしまった嫌いがある。また、カルチャーセンターのようなお稽古事の世界でも使われるようになってきた。
 そのあたりの整理も、本書ではうまくされている。ワークショップと自己開発セミナーやカルト教団との共通点と明確な違いが述べられている。
 身体気象研究所の活動をしていたとき、外部の人にはワークショップはパフォーマンスという表現活動をするためのトレーニングだととらえられがちだった。私たちの中ではそうではないということはみんな了解していたのだが、この点なかなか説明しにくかった。私は、「ワークショップはパフォーマンスのためのプロセスであり、パフォーマンスはワークショップのためのプロセスである」という言い方をしていた。
 ワークショップによってさまざまな知覚体験をすることから、表現行為が生まれる、このことに異論はない。だが、その逆もあるのではないか。
 たとえば印象派という新しい絵画によって、実は私たちの風景の見方が変わった。ビートルズやロックはわたしたちに感じ方やものの見方を変えた。ファッションも変えた。それをワークショップととらえることもできるのではないだろうか、と考えたのだ。
 私は今芸術論をまとめているのだが、その中でワークショップの役割というものについて書こうと思っている。文化の循環構造ということに関連してくるのだが、この本は頭を整理するのに役立った。
 ワークショップの実践を考える上でも役に立つ。
 ただ、ワークショップを体験したことのない人が、この本を読んでどう思うのか、その点はよくわからない。ワークショップに関心を持つのだろうか。持つとしたらどんな風に関心を持つのか。とても興味がある。
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posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 本のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月20日

『坊ちゃん』を読んだ

 夏目漱石の『坊ちゃん』を久しぶりに読んだ。
 理由はこのブログにある。9月9日の「言葉の力」という記事に、中学生のときに『坊ちゃん』を読み、その中の人を罵倒する言葉を羅列するシーンが面白くて、その言葉を覚えようとしたということを書いた。
 実はそのとき、原文を引用しようかと思い漱石全集を引っ張り出した。たしか料亭のシーンだったよな、と思いながら探したら次のような箇所があった。
 「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫っ被りの、香具師の、モヽンガーの、岡つ引きの、わんゝ鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいゝ」
 う〜ん、こんな感じだったけど、もっと長かったよなあ。とページをめくってみたが該当する箇所がない。しかたがないので、引用はあきらめ記事を書いた。
 きのうの夜、眼が冴えてなかなか寝付けなかったので『坊ちゃん』をめくりはじめた。けっきょく、読み終えてしまった。で、あれより長い罵倒のセリフは無かった。この間発見したあのセリフだったのだ。
 中学生の頃、何であんなに腹を抱えて笑ったんだろう。必死に覚えようとしたんだろう。こんなの覚えられるよな、すぐに。
 そのほかにも、いろいろと意外だったことがある。
 まず、キャラクターだ。赤シャツ、狸、うらなり、野だいこ、マドンナ、山嵐、そしてもちろん坊ちゃん、このキャラクターをよく覚えている。というより、この登場人物たちは、私の人間理解の類型を作ってしまったのではないかと思うほど、私の中にいまだに生きている。若者が世間の欺瞞と戦うという、いろんな青春ドラマの原型にもなっている。
 だが、ひとつだけその後の青春ドラマと違うところがある。坊ちゃんが生徒の味方ではない点だ。山嵐は生徒に人望があるが、坊ちゃんは生徒に対する共感は無いし、生徒も坊ちゃんに対する共感は持っていない。むしろ坊ちゃんには、生徒が卑しい連中と映っている。
 また、中学時代に読んだときはあまり気にせず、自然に受け止めていた清という下女の存在が、あらためて不思議に思えてきた。そもそも、物語にはまったく関係が無い。手紙や回想の中にしか登場しない。しかし、清という女性が坊ちゃんの心の支えになっている。家族愛とも恋愛感情とも友情とも違う愛情である。
 それとも関連するのだが、青春ドラマ特有のにおいがない。主人公の若者に新しい時代の息吹というものが感じられないのだ。もちろん若者らしさはある。だが、その若者らしさは新しい時代の価値観を代表していない。むしろ、新しいものに被れた俗物に対する嫌悪が強い。「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫っ被りの、香具師の、モヽンガーの、岡つ引きの、わんゝ鳴けば犬も同然な奴」というわけだ。
 中学生のとき、『坊ちゃん』の「竹を割ったような」明るさに夢中になり、これもきっと面白いぞと期待に胸を膨らませて『吾輩は猫である』を読んで唖然とした。何だかひねくれてややっこしい。
 そのあと高校生になって『心』を読み、漱石はややっこしい事を描いている作家だと考えるようになった。だが、『坊ちゃん』は例外的に明るい小説なのだと思っていた。その後読み返すことも無く。
 きのう読み返して、実は『坊ちゃん』もかなり屈折した小説であることに気づいた。
 ちょっと、漱石を読み返してみようかな。
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posted by 黒川芳朱 at 19:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 本のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月07日

『情報は1冊のノートにまとめなさい』を読んだ

 こういう題名にはつい惹かれてしまう。
 メモだの、ノートの取り方だの、手帳術だのという本があると、つい手に取ってしまう。すべてとはいわないが、かなりの確立で買ってしまう。べつに、それらを真似てメモやノートや手帳をつけようと思ってい入るわけではない。ただ、他人がメモや手帳をどうとっているのかに興味があるのだ。まねをしようとしても必ず失敗する。メモの取り方には、その人の個性が出るように思う。
 この本の奥野宣之氏が提唱するのは、A6ノートに時系列順に何でも書き、レシートや気になった切抜きや写真を貼り、使い終わったらコンピュータで索引をつくり、次のノートに切り替えるというもので、ポイントは記録はすべてA6ノートに統一するという点にある。
 確かに、長続きしそうで役に立ちそうなアイディアだ。だが、それを継続させるのは、やはり非常に個人的な執着心のようなものではないだろうか。かつて、野口悠紀雄の『超整理法』が話題になったとき、その合理性と素晴らしさを他人に推奨している人を3人見かけた。だが、その後ご本人がそれを実践している様子はない。
 ところで、何でも書いて何でも貼るというのは誰かもやってたな。そうだ、植草甚一だ。抜書きしたり、切抜きを貼ったり、メモを取ったりすることが渾然一体となり、思考過程がそのまま文章になったような、不思議な書き手だった。
 ダヴィンチの『マドリッド手稿』、クレーの『造形思考』、デュシャンの『グリーンボックス』など、読みごたえのたっぷりのメモの名作がある。私の「ノート、メモ、手帳」に対する関心はこれらのメモの傑作に対する憧れかもしれない。
 私は絵画を勉強しながら、一枚のタブローという静止した瞬間より、その絵が出来上がるプロセスに主たる関心が移っていった。それは、スケッチブックの中でイメージが変化していくプロセスと言い換えてもよい。
 私がいま映像を表現手段としているのは、その結果である。

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