2009年09月28日

空気が読めないと語る人

 おそらくおなじ会社の人なのだろう、電車の中で人の噂話をしている人たちを見かけた。彼らは共通の知人について、あれこら批評している。中の一人が、結局彼は空気が読めないんだと語った。だが、その人の言うことを聞いていると、ピントがずれているのは空気が読めていないと語っている当人で、噂されている人は普通の人のように感じられる。そもそも、電車の中で大声で他人の噂をしている時点で、空気が読めてないわけだが。
 似たような言葉に「常識がない」というのがある。あの人は常識がないなどという。だが、これもそういっている当人の話を聞くと、どっちが常識がないんだか怪しくなってくる。
 結局、人はそれぞれ自分勝手な常識というものを想定しているようだ。常識というと、ある程度普遍性をもった共通認識のように思うが、実は私たち一人一人がもっている常識とは、非常に個人的なものかもしれない。もし、世界中の人の頭の中の常識を見てみると、歪んだ考えばかりかもしれない。
 人は自分の考え方、感じ方からなかなか逃れることはできない。そんなことを電車の中で考えた。
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2009年09月20日

文章の完成とは

 やれやれ、やっとできた。きのう書いた『この惑星』の原稿のことだ。あれから推敲を繰り返し、今日の昼にやっと完成した。
 今朝の10時ぐらいから、言葉が勝手に動き出してまとまり始めた。その感覚をちょっと記述するのは難しい。そして、完成した時、達成感はやってくる。
 だが、映画や絵や立体を作ったときとは達成感が違う。映画や絵や立体は物としての手触りがある。同じ映像でもフィルムとビデオでは物質性において違いがある。フィルムは絵が物として見えるのに対して、ビデオは情報としてモニターやディスプレーでしか見れない。だが、それでも文章と比べるとずっと物質感がある。
 映画や絵や立体は、ある瞬間からそれそのものが物として自己運動をはじめ、細部がどんどんどれに吸い込まれていく感じがある。きのうも書いたように、文章も特に原稿用紙で推敲を重ねるうち、じょじょにそれ自体が自立し単語を吸い込んでいくようになる。
 だが、やはり達成感に違いがある。言葉は何処までも抽象的で、ものの手触りがない。完成に近づくにしたがって徐々にあるまとまりを形作り、無駄なものを排除し始める。そのまとまりにある種の手触りはあるが、観念とかシステムとかの手触りだ。手触りのない手触り。仮構の手触り。
 言葉はやはり宇宙から来たヴィールスか。
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2009年09月19日

推敲について

 終わらない終われない。
 あ〜〜〜〜〜終わった。いやだめだ。
 先日お知らせしたWebマガジン『この惑星』の原稿の締めきりだ。
 いや、締め切りは過ぎて伸ばしてもらったのだ。ははは。
 きのう書きあがってはいたのだが、ちょっと長くて気に入らなかった。長さだけの問題ではなく、浮かび上がらせたいものがうまく浮かび上がって来なかった。こういうときは長さという外的制約が文章を締め上げてくれることがある。
 それにしても原稿用紙で文章を書いていたときと、ワープロで書くようになってからでは推敲というものが、かなり違った体験になってきた。原稿用紙時代はとにかく時間がかかった。全文書き直したり、ごそっと文節を移動したりするのときは活かせる部分を切り張りしたり。けっこう激しく推敲するたちなので、苦労した。なぜ激しく推敲するかというと、自分が書いたものにすぐ飽きちゃうからだ。ただ、原稿用紙での推敲が時間がかかる分、文章の中に魂が入りやすかった。ちょうど、粘土で彫塑を作っている感じだ。うまくいきだすと粘土が吸い付いていくように単語が文脈に吸い付いていく。
 ワープロでは細かい字句の修正も、大幅な段落の入れ替えも簡単にできる。だが、これが罠だ。おれのようにすぐ自分の文章に飽きる人間は、書いた先から推敲したくなる。結果全然進まない。そして、文章に一貫した勢いがなくなる。メロディラインが決まらないまま、アレンジばかりあれこれいじっている感だ。レゴで何かを作っている感じにも似ている。
 いけねえ、こんなこと書いている場合じゃない。原稿書かなきゃ。
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2009年08月30日

責任力という言葉

 政治について語るつもりはない。
 選挙の結果は民主圧勝となった。キャッチコピーでいうと自民党の「責任力」と民主党の「政権交代」の戦いだった。
 政権投げ出し総理大臣を二人も排泄、モトイ排出した政党が「責任力」とか「政権担当能力」をいうこと自体パロディだし、安直な自民党内「政権交代」のおかげで民主党への「政権交代」に対する抵抗感もずいぶん和らいだと思う。この程度だったら民主党でもいいじゃんという機運は高まったね。
 それはさておき…。
 「責任力」という言葉にずっと違和感があった。
 この言葉を聞いてすぐに思い出したのは、赤瀬川源平の「老人力」だ。老人になってくると物忘れがひどくなったり、行動が鈍くなったりする。それを「ボケてきた」とマイナスに表現をするのではなく、「老人力が備わってきた」とプラスの表現をするという反語的なユーモラスな提案だ。これが直接のきっかけだったのかどうか、その後「○○力」という言葉がよく造語され使われるようになった気がする。それ以前はあまりなかったように思う。だが、「老人力」とその後の「○○力」には大きな違いがあった。たとえば、それまでなら「人間性」とか「人間的魅力」といっていたところを「人間力」というように、それらの言葉はあまり反語的ではない。むしろ、肯定的な言葉をより強調するような例が多い。ひねりがなく、ひとことで言うと野暮なのだ。
 さて「責任力」だが、よく意味がわからない。収まりが悪い。「責任」と「力」という言葉はどう結びつくのか。「能力」「協力」「張力」「権力」「握力」「圧力」「遠心力」「購買力」、通常「力」がつく熟語は前にある言葉が「力」を発する源であったり、「力」の性質や状態を表していたりする。「老人力」はあえてマイナスのイメージ(力の衰え)が強い言葉に「力」という言葉をくっつけることでマイナスをプラスに転じる反語だ。
 では、「責任」から「力」は発生するだろうか。あるいは「責任」という言葉は「力」の状態を表しているだろうか。広辞苑を引いてみよう。「責任:@人が引き受けてなすべき任務。A[法]法律上の不利益ないしは制裁を負わされること。その核心は不法な行為をなしたものに対する制裁で、対個人的なものと対社会的なもの及び民事責任と刑事責任がある」。「責任」は受動的なもので、そこから力が発生してくるものとは思えない。
 正統な保守を標榜する政党がおかしな言葉を使うもんだなあ。
 ついでに熟語を引いてみよう。「責任感」「責任者」「責任準備金」「責任条件」「責任年齢」「責任保険」、ウームやっぱり「力」のつく熟語はないな。
 あれ、こんなのがあるぞ。「責任内閣:議会の信任の如何によって進退を決する内閣で、議院内閣制における内閣の条件の一。→超然内閣」。まあ総選挙の結果新しい議会が開かれ、新内閣が信任されるわけだな。今の制度での内閣はすべて責任内閣なんだなあ。でも「力」とは関係ないな。
 あっ、「責任」と「力」の合体した熟語があった。でも間に「能」が入っているなあ。「責任能力:[法]違法行為による法律上の責任を負担しえる能力。自己の行為の結果が不法な行為であることを弁識しえる能力」。事件や犯罪がおきたとき、犯人に責任能力があるかどうかというあれだ。そのために、場合によっては精神鑑定をして責任能力があると認められると罪になるわけだ。
 広辞苑の中に、「責任」と「力」が合体した言葉はこれしかない。そうか、責任力って責任能力のことだったのか。だが、自民党は別に「不法行為」をしたのではなく「立法行為」をして国民に迷惑をかけたわけだ。だから、「責任能力」という言葉は適切ではない。そこで「能」を抜いて「責任力」としたのかな。
 で、自民党には「責任力」ありと世間が認めた結果、罪に問われるのではなく選挙に負けたわけだ。なんだ、そういうことだったのか。
 
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2009年08月28日

自称プロサーファーと自称芸術家

 法ピーが起訴された。
 今回の事件で、久しぶりに自称○○という言葉を聞いた。今さらいうまでもないだろうが、法ピーの夫高相裕一の肩書きが「自称プロサーファー」と報道されているのだ。
 自称○○という言葉を聞くとカチンとくる。嫌な気分になり、ふざけんなという気分になり、バカ野郎ざまあみろテメエラみんな皆殺しだとわけのわからない物騒なことを叫びそうになる。誰に対して怒っているのかよくわからないままに、あたりを走り回りぜいぜいと息が上がる。 わけのわからない怒りは餓鬼のときとまったく同じだが、体力はまるで駄目だ。だが、餓鬼のころよりは少しはものが見えてきた。怒りの対象はもちろん「自称○○」という言い方をしているもの、報道機関であり、その背後にある世間一般の常識に対してだろう。
 まてよ、餓鬼の頃もその程度のことはわかっていたか。
 
 むかしオレは画学生だった。美術学校を卒業すると画学生は何者でもなくなる。誰もそう呼んではくれないので画家を自称する。画家、小説家、詩人、音楽家、芸術家は自称で始まる。
 そういえば、学校を卒業して吉祥寺にアパートを借りようと思って不動産屋に行った。不動産屋で絵描きだといったら、絵描きに貸す部屋は無いといわれた。
 そういえば一時、そのように自称することを自嘲して「画家」とか「詩人」と名のらず、自分から「自称画家」とか「自称詩人」と呼ぶことが流行った。ミニコミ系で。
 だが、これほどバカげた事は無い。誰も呼んでくれないからこそ自称するのに、そのことに照れていてはさらにバカにされるだけだ。
 その後、いくつかの雑誌や新聞などで紹介されるとき、肩書きに映像作家と書かれるようになったが、いまだに誰にも呼ばれないからこそ自称しているという意識はある。
 数年前、PLAN−Bで行われた『山谷 〜やられたらやりかえせ〜』の上映会の後に、その映画の佐藤満夫監督の友人の映画関係者の方のスピーチがあった。佐藤監督は山谷を撮影することで、山谷を縄張りにするヤクザに殺されたのだが、そのことを報じた新聞記事に「自称映画監督佐藤満夫」と書いてあったことに腹がたった、彼は間違いなくプロの映画監督だとその方は話していた。この呼び方には明らかに侮蔑的な意図がある。
 
 ところで、…。
 ゴッホは、生涯自称画家だった。
 いまオレが、何かしでかして新聞沙汰になったら映像作家と書かれるだろうか、それとも自称映像作家と書かれるだろうか。
 どちらが誇るべきことだろうか。
posted by 黒川芳朱 at 23:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月20日

言語嫌悪症

 またまたずいぶん休んでしまった。
 おいらの言語嫌悪症とネットワーク嫌悪症がむくむくと首をもたげたせいだ。おまけにこの暑さでナマケ心がぶくぶくに肥大し、水分取りすぎで腹がぷよぷよになってきた。むくむくぶくぶくぷよぷよ。ぷ〜よ、ぷ〜よ、ぷよ、崖っぷちの子。子ってこともないか。
 この間に映像に関するエッセイをある雑誌に書いた。一応依頼を受けて書いたのだが、入稿した後にもっと書き直したいような気になっている。まだ掲載誌は出ていない。
 実はそこで書いたのは言葉と感覚の問題なのだが、これも実は言語嫌悪症、ネットワーク嫌悪症に関係があるのだ。
 ちょっとわかりにくいかもしれないが、言語嫌悪症というのはこういうことだ。何か単語を書く、あるいは口にする。そうするとその単語が別の単語を引寄せ、何か意味のある文節のようなものになる。その文節のようなものはまた言葉を引寄せ、文章のようなものになる。このことが耐えられないくらい退屈なのだ。そこに習慣化した言葉の組み合わせや、言葉の持つ法則性によって言葉が言葉を引寄せ自己組織化し意味の体系をつくっていくさまが見えるとうんざりしてくる。まるで単語が納豆の粒のように糸を引いて見える。
 たぶんおいらは、言葉によって考えるだけではなく、感覚によって考えることを欲しているのだ。
 そして、言葉について言えば言葉と言葉がつながって意味を成すのではなく、言葉と言葉がぶつかって火花を散らすような状態を欲しているのだと思う。
 ようするに、新しい芸術を、真新しいリアルを求めているのだということに、いまさらのように気づかされた。
posted by 黒川芳朱 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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