2009年10月04日

時間

 引きこもった。
 昨日にひき続き勉強した。勉強の成果を聞かれると引き籠った上に口籠ってしまうのだが、家から一歩も出ずに過ごした。
 まだ暗いうちに目覚め、雨戸を開け、机に向かう。窓の外は次第に明るくなる。飯を食い、また机に向かう。机の上で過ぎてゆく遅々とした時間。外はやがて昼になり、気がつくと暗くなり始めている。
 天井と壁は外の世界を空間的に遮断するだけではなく、時間的にも遮断する。家は時間の外の時間の中をただよう箱舟。 
 おもてに流れる自然の時間。家の中の暮らしの時間。机の上を流れる勉強の時間。夕方ぐらいになると、三つの時間のずれから私の体は取り残されたように感じ始める。
 皮膚一枚、その外を流れる三つの時間とは別に、その内側を流れるもう一つの時間がある。
 四つの時間がねじれる。


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2009年09月02日

女子高生とカーディガン

 今日から学校が始まった。私は流しの非常勤講師で、ふたつの専門学校とひとつの公立高校で教えている。きょう始まったのは、公立高校での映像制作の授業だ。
 午前中のクラスでは、生徒はみんなブラウス姿だったのだが、午後1時25分からののクラスでは4、5人カーディガンを着ている女の子がいた。暑くないの、と聞くと、えー寒いよ先生、と返事が返ってきた。そのうちの1人はさらにパーカーのようなものまで着ている。彼女が言うには、「あたし、暑いっていわれた8月31日の夜にもこの服装で出かけたから」とのことで、ようするに寒がりらしい。
 濃紺のカーディガンは学生らしくていいものだが、まさかきょうお目にかかるとは思わなかった。私の体感ではきょうは暑い、暑かった。
 この高校では冷暖房の使用時期が制限されていて、去年11月に教室の暖房をがんがんつけていたら、専任の先生に注意された。12月に入るまで暖房は使ってはいけないというのだ。芸術科では暖房を使っていると職員会議で問題になったらしい。フフフ、犯人はこの私だ。
 夏の冷房の解禁がいつかは聞いていないが、7月のはじめごろに授業は終わるので、おれは冷房は使っていない。今日もそうだったが、窓を開けていれば風が入り比較的涼しい。
 そういえば夏休み前、この学校の芸術科の先生方との懇親会で居酒屋に行ったとき、ひとりの先生が「冷房のない学校に慣れているので、どこに行っても寒い」といっていたのが印象的だった。この学校以外の専門学校2校では、エアコンの使用は当たりまえだ。
 エアコンだけではなく、電気を消すのも早い。2月ごろ卒業制作の指導で夕方5時ぐらいまで残ったとき、教室から廊下に出ると、廊下は電気をつけず真っ暗だった。それなりに生徒や先生もまだいるのだが、真っ暗なのでびっくりした。専門学校では夕方5時に真っ暗ということはまずない。おれが教えている専門学校のうち、一校の先生がこの高校に学校説明のための訪問に来て、帰るとき廊下が真っ暗だったといって、やはり驚いていた。
 体感温度や明るさに対する感覚といったものは、一見生まれつきのもののように思っているが、社会的な産物という面もあるのだなあと思った。
 
 
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2009年08月26日

秋と距離感

 午後3時半ごろ、外を歩きながら友人と携帯電話で話していた。
 「なんか後ろでぎんぎん音がするよ」
 「あっ」
 言われて気づいた。オレのまわりでは蝉が鳴いている。
 「なに?」
 「つくつくぼうし、ほーしつくつく、ほーしつくつく、もういいかいもういいかいもういいかい、じー」
 「あはははは、ほーしつくつく、ほーしつくつく、もういいかいもういいかいもういいかい、じー」
 バカだなあ。あはははは。
 つくつくぼうしは、7月から発生し8月下旬に鳴きはじめる。他の蝉より少し遅れて声が聞こえてくる。暑いだの、夕立だのといっているうちに、確実に秋に近づいているのだ。 
 「過ごしやすくなってきましたね」とは夏から秋にかけての時候の挨拶で、今日も数人の人とそんな会話を交わしたし、テレビの天気予報でもそんな言葉を耳にした。
 過ごしやすくなると、じょじょに距離感が戻ってくるような気がする。暑いときは自分の皮膚とその周辺ぐらいにしか神経が通わない。もちろん遠くも見えているが、見えているだけで、自分とはあまり関係がない。世界は日向と日陰に二分される、ってのはちょっと大げさかもしれないが。涼しくなり始めると、少しずつ遠くのものも細やかに意識できるようになる。遠くのものと自分との関係を意識し始める。
 そんな秋の動向の象徴的な行事が十五夜かもしれない。
 携帯越しの蝉の声で、そんなことに気づいた。
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2009年08月24日

にわか雨

 にわか雨にあった。
 夕立というには少し早い時間、3時過ぎぐらいだ。仕事で外にいた。ずぶ濡れになった。30分ほどで止み、日が照ってきた。ずぶ濡れになった服は乾き始めた。だが、完全には乾かずじめついたまま6時ごろ帰宅した。
 
 都会のにわか雨は嫌いではない。山奥のわか雨は遭難の危険性があるが、都会は逃げ場所はいくらでもある。電車に乗れないくらいびしょ濡れになったとしても、ユニクロあたりで上下そろえて着替えることもできなくはない。だから、都会のにわか雨にはちょっとしたわくわく感がある。
 そういえば、おととしパリに上映で行った時、しょっちゅう小雨が降っていたのだが、街で傘をさしている人をまったく見かけなかった。上映の企画をした映像作家のオータくんは、かつてフランス留学をしていたので聞いてみると、そういえばフランス人はあまり傘をささないなあ、といっていた。大体パーカーなどのフードを被ってすませるのだという。そこで、俺もパリにいる間はフランス人かぶれで過ごした。かなりの時間、ちょっと湿った服ととも生活をするんだなあ。ところで『シュルブールの雨傘』は特殊なのかなあ。
 ただ、都会の雨もバカにはできない。あなたはもう忘れたかしら、大雨で神田川が溢れたことを。おれが運営に関わっているライブスペースPLAN−Bがある中野富士見町にも神田川が流れている。そこからずっと坂を上がったところにの地下一階にPLAN−Bはある。あの、大雨のとき、本来は坂を下って神田川に流れ込むはずの雨の一部がPLAN−Bにも流れ込んで浸水した…という。おれはいなかったけど。
 
 雨があがって、水溜りに写った木々と太陽がきれいだった。
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2009年08月23日

ALWAYS 三丁目の寝汗

 俺がむかし小学五年生だったころ、うちの番地は二丁目だった。俺が六年生になって、うちの番地は三丁目になった。わかるかな〜、わかっても興味ねーだろうな〜。
 べつに引っ越したわけではなく、いわゆる住居表示の変更ってやつだ。以来うちは三丁目だ。
 俺がむかし二丁目の夕焼けだったころ、弟は二丁目の小焼けで、親父は二丁目の胸焼けで、おふくろは二丁目のしもやけだった。というのは夕日のような真っ赤な嘘で、おれには弟はいない。おまけにこれはパクリじゃん。ギンギンギラギラ嘘っぱちが沈む。
 時は昭和三〇年代。
 そしてそのころの記憶は、いつのまにか三丁目の夕日ということになってしまった。
 
 今日の夕方、一〇分ほどうとうとした。気づくと首の周りに汗をかいていた。寝汗は冷たくなっていて、異物感があった。自分の体から出たものが、自分の体とまわりの環境の間のズレを証明する。おまけに発汗していたときの意識はない。
 
 この三日ばかり、暑さの記憶ということにこだわったのは、CGで再現された見える記憶、視覚の記憶ではなく、暑さという視覚化や言語化が難しい感覚を、いかに記憶するかということに興味があったからだ。そして、このイコン化もテキスト化も難しい感覚に、戦後どのような変化があったかを再現できないかと思ったからだ。
 それは暑さの戦後史とでもいったらいいだろうか。
 そのほか、匂いの戦後史や、触覚(手触り)の戦後史なども面白い。そういったなかなか形にならない感覚の変化を、いかに記録したり再現したりできるかということに、昔から興味がある。
 このテーマは、思い出したようにポツリポツリと覚書を書いていこう。

 
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2009年08月22日

そしてまた暑さの記憶

 うちにエアコンが入ったのはいつのことだろう。
 うちのことははっきり覚えていないが、イデのうちのことなら覚えている。
 あれは高校2年の時、2年5組の悪ガキが集まってしょうもないイタズラをしていた。なにをしていたのか、誰かのせいだったのかもはっきり覚えていないが、悲劇が起こった。
 突然、コカーンといい音がして、といってもその音は誰の耳にも聞こえなかったのだが、イデが騒ぎ出した。
 「いてててて、玉打っちまったよ。早く家に帰ってビーバーエアコンで冷やさなきゃ。早く家に帰ってビーバーエアコンで冷やさなきゃ、ビーバーエアコンで冷やさなきゃ、ビーバーエアコンで冷やさなきゃ」
 誰一人としてイデという男の一生を心配するものはいなかった事を考えると、イデが勝手にふざけて勝手に痛い思いをしただけだったのだろう。みんな、おどけて痛がるイデを面白がり、それ以上に股間を押さえながらビーバーエアコンを自慢するイデを笑った。たぶん、あの直前にイデの家にはビーバーエアコンが設置されたはずだ。
 そのとき、まだうちにはエアコンはなかった。だが、イデを羨ましいとは思わなかった。エアコンがある生活をリアルに想像できなかったので、羨ましいという感情も起きなかったのだ。
 その一年後もうひとつエアコンに関する忘れられないできごとがある。
 高校3年になって美大志望のおいらはすいどーばた美術学院の夏期講習に行った。凄まじかった。オンボロ木造校舎のアトリエに恐ろしい人数が詰め込まれていた。肘と肘が触れ合うほどの距離に受験生がびっしりと座り、石膏デッサンをする。中学、高校の人口密度とはまったく違った、亜熱帯講習会に脳みそは完全にヒートアップアップし、朦朧とした意識で真っ白い石膏像を凝視し、木炭紙に木炭をモクモクとなすりつけていた。その時、浪人生らしき奴が「クーラー効かねえなあ」といった。そっか、こういうとき救いの神として現れるのがクーラーか。こうしておいらはクーラーというものと疎外論的な出会いを果たした。
 高校のはじめから通っていた画塾の石野先生にどばた(すいどーばた美術学院)のようすを聞かれた。推定浪人生の言葉を思い出し「すごい人数で、クーラーが聞かなくて大変です」と答えた。すると石野先生は「むかしはクーラーなんてなかったのに、今の子はぜいたくだなあ」としみじみといった。
 そこでおいらはふと考えた。そういえば、クーラーって何だっけ。
 おいらが通っていたのは某都立高校だが、クーラーなどなかった。区立中学も。そもそも、学校は8月は夏休みだ。8月に集団で勉強するとしたら塾や予備校だがそれまで行ったことのある(美術ではない)塾や予備校もクーラーはなかったし、クーラーが無いという不満もなかった。ただ、暑いといって下敷きで扇いだりその程度だった。アイスノンで頭を冷やしながら計算問題や英文解釈をした。
 そもそもおいらは、クーラーの恩恵に浴して、クーラーにどっぷりつかり、クーラーなしでは生きられないの、という生活を送っていたわけではない。
 ただ、初めて体験するあのどばたの人口密度が暑さといっしょになってカルチャーショックだったのだ。そのことを表現するのに、推定浪人生の利いた風なせセリフをちょいと真似てみただけのこと。
 だが、石野先生はベビーブームより少し前の世代だが、おいらたちより受験生の人数は多かったはずだ。だとすると美大受験予備校の人口密度もこんなもんじゃなかったかもしれない。だとすれば、「エアコンが効かなくて大変だ」というおいらのというセリフは、もろもろの意味で理由なき犯行だ、チキンレースだ。
 このときおいらは、実体験の裏打ちのないジェネレーションギャップを勝手に背負ってしまったのだ。
 
 『ブランクエアコンジェネレーション』
 
 うちにもねえし♪
 あんまし浴びたこともねえけど♪
 俺たちゃエアコンエイジだぜ♪
 生な空気なんてまっぴらごめんだぜ♪
 チョイとその暑さをコンディショニングしてくれよ♪
 ちょっとそのムカツク湿気って奴を吹き飛ばしてくれよ♪
 だけどホントはよく知らねえのさ♪
 エアコンて奴を♪

 だが、その後エアコンが生活の中に浸透してくる。あのできごとは、世代というよりおいら自身の感覚の分岐点だったような気もする。
posted by 黒川芳朱 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体感覚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月21日

暑さの記憶

 エアコンが壊れた。
 壊れたのは一階の仕事部屋のエアコンだ。
 二階の寝室はかなり風が通るので、めったにエアコンをつけることはない。だが、一階の仕事部屋はかなり暑い。だが、壊れたので仕方なく窓を開ける。時々すうっと風が通り涼しい瞬間がある。
 ここ数日、朝と夜は少しずつだが過ごしやすくなってきている。そのせいもあって、エアコンに調整されない生活をしている。
 皮膚が生き返ってくる。それは決して快適な状態ではない。皮膚がじわっと汗ばみ、空気の流れに涼しさを感じ、風がやむとじめっとした感覚に戻される。快適というよりはちょっとした野生の目覚めともいえる。
 エアコンが効いていると皮膚はバカになる。皮膚の感性は鈍くなり、皮膚の思考力は完全に落ちてくる。何も考えず毛穴を閉じて口をつぐむ。汗の引きこもり。もちろんエアコンが効いていると頭は冴えてくる。だが、頭が冴えて皮膚はバカになる。
 ではエアコンを切ると皮膚はいつでもりこうになるか。そうとは限らない。炎天下にいれば、皮膚は毛穴を開き、よだれのようにだらだらと汗を出す。
 だが、だらだらと汗を流す状態と、エアコンで汗が引きこもる状態と、どちらがいいのだろう。いや、いいという言葉は適切ではない。どちらがどうなのだろうと無駄口を叩きたいだけで、体にいいとかそんな価値判断をしたいわけではない。ただ、エアコンが切れたことで、ちょっと皮膚感覚が蘇ってきて、それが面白いと感じたのだ。
 エアコンディショナーって考えてみればたいそうな言葉だ。空気を調整してしまうのだ。そしてその結果人間の皮膚感覚は変調をきたしてしまうのだ。なんてこった。
 暑さといえば黒澤明の『野良犬』を思い出す。拳銃を掏られた若い刑事三船敏郎と、ベテラン刑事の志村喬が汗だくになりながら犯人を捜索する。一日の捜索を終えベテラン刑事の家で涼をとる。夏を描いた映画はたくさんあるのに、なぜかこの映画が真っ先に頭に浮かぶ。『野良犬』は汗だくの映画だ。
 この映画の汗は、皮膚は、涼のとり方は健康的だ。体が循環の中にある。エアコンは太陽光線から人を保護するシェルターだ。
 
posted by 黒川芳朱 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体感覚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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