2009年10月31日

創形美術学校『卒業生による作品展』と『今井和雄+田中泯デュオ』

 創形美術学校の創立40周年記念「卒業生による作品展」が学校のエントランスにあるガレリアプントで開かれている。きょうの17時からオープニングパーティーが行われた。一期生から去年卒業した同窓生まで、たくさんの作家が集まった。作品の傾向はまちまちながら、見応えがある。卒業生による作品という点だけが共通項なので、開かれた展覧会としては限界はある。だが、在校生が卒業生の作品に触れることがこの展覧会の最大のポイントだろう。
 久しぶりに会う人、初めて会う人、在校生、何人かと談笑し、90分ほどでPLAN-Bに向かう。
 PLAN-Bでは今井和雄さんと田中泯さんのデュオの公演がある。田中泯さんとも私は創形で出会ったのだが、それから30数年立つことになる。
 今井和雄さんはギタリストだが、ギターだけではなく様々なものを楽器として使う。ボールのような食器にゴムを張ったものや、水、板などを弾いたり叩いたりして演奏する。楽器として作られているものではないので、音を出すこと自体が身体的なパフォーマンスとして見えてくる。そんなわけで、泯さんより今井さんを見る瞬間が何度かあった。
 公演はデュオといいながら2人が相手を目で確認するわけではなく、音や気配やエネルギーで確認しながら、即興的に進行していくさまがスリリングだった。この広さ、音の響き、二人の演者の間に通うものが見えるような距離感、PLAN-Bならではの公演だった。
 踊りの終わったあとに、出演者と残った観客とスタッフが歓談。泯さんが育てた大根がうまい。
 2月のダンス白州の下見に来月行くことを約束して帰宅。
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月18日

ダンス白州にきた

 14時ごろ新宿を出て、ダンス白州にやってきた。16日の金曜日から始まっているのだが、なかなか都合がつかず今日やっと来ることができた。
 今年ダンス白州は「四つの節会」と題して季節ごとに行われている。すでに春と夏は終わり、いまは秋だ。春は「土の節」夏は「火の節」そして秋は「水の節」。
 韮崎からタクシーに乗り、受付に到着すると受付から少し離れた畑の中で、玉井康成の舞踏が始まっていた。玉ちゃんは体がかもし出すスケールがどんどん大きくなっている。体が大きくはなっているわけではない。体の中にまわりの匂いや温度や風景が入り込んでいるようだ。
 その後しばらく休憩を挟み、19時から田中泯演出の水のパフォーマンス『水・劇』が開演となる。水、体、声、情景。小品ながら白州らしい贅沢な時間と空間と光と闇そして身体。
 暗転した瞬間、周りを囲む木の影に切り取られた星空が見事だ。
 実は冬の節会に俺も映像の企画をやることになっているのだが、真冬に野外でどんな映像をやるのかまだまだ固まっていない。11月に少し泊り込んで考えるか。
 公演の後、グラスハウスで打ち上げ。中には原口典之さんの巨大な作品ファントムも設置されている。
 白州は快適すぎるので、何か自分の中に異質なものをつくらないと何もできなくなる。それが何かまだ見えてこない。
 21時過ぎ、水由君の車に乗せてもらい甲府に向かう。水由家はそのまま東京に帰るが、俺は甲府に一拍。おやすみ。
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

石原志保・踊り場作業4「否連続―non-continuity」を見た

 某公立高校で授業。ひょんなことで生徒たちにこのブログが見つかり大騒ぎ。あらら。
 授業終了後、夜の8時から中野富士見町のplan-Bで石原志保さんの踊りを見た。踊りの具体的な描写は避け、見ながら感じ考えたことを書く。
 顔や体の表情が刻々と変わる。まるで表情という皮膚を剥いでいくように。だが、顔で表情を作っているわけではない。むしろ実際の表情は変わらないぐらいだ。変わっているのは、見ている俺の中に浮かんでくる言葉なのだ。言葉はサングラスのように視野を染め上げる。だが、言葉が浮かぶのは人間として当然のことだろう。浮かんできた言葉から自由になるように見続けること、見る楽しみはここにある。
 しばらく見ているうちに、「ずれ」という言葉が浮かんできた。様々な「ずれ」が眼の前で起きているようだ。
 この「ずれ」は失敗を意味してはいない。運動が起これば、当然そこにずれや摩擦が起きる。集団での演奏や演劇などのアンサンブルは、「ずれ」の応酬ともいえる。様々なのものが入り込む余地でありゆらぎでもある。
 「ずれ」という言葉が浮かんだあとに、要素という言葉が浮かんできた。要素と要素の間に「ずれ」が生じる。「ずれ」という言葉は要素という言葉を前提に用意させようとする。だが、果たして要素などあるのか。すべては運動であり、「ずれ」こそが実体ではないのか。要素とは仮想のものではないかという思いが浮かぶ。要素という言葉は消え、五感はさまざまな「ずれ」を感じる。この「ずれ」を自分のうちで編纂すること。このとき、自分がその場で起きている出来事に加わっていく。
 踊りを見ることが鑑賞にはならず、運動として成立した夜だった。
 振り付けの田中泯さん、恩師の美術家高山登さん、スーザン・ソンタグの翻訳書が出たばかりの木幡和枝さんとも久しぶりに話すことができた。  
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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