2009年10月24日

ダウンタウンについて

 『この惑星』に松本人志監督の『しんぼる』について書いた。そのなかで、書きたかったのだが字数と全体のバランスで書けなかったことがある。
 あれは確か日韓ワールドカップが開催された2002年だった。日本中が熱に浮かされ大騒ぎになった。あちこちににわかサッカーファンが出没し、おおむかしからサッカーファンだったかのような顔をした。芸能人もテレビで自分がいかにサッカーに詳しいか、知識やウンチクを披露した。
 その頃専任講師をしていた某専門学校で、別の科の教員が今日はワールドカップの重要な試合があるので何時間目だかの授業を休講にして学生にテレビを見せたらどうかと提案した。さすがに、学校として休講にすることにはならなかったが、彼はワールドカップというのは特別だからということをさかんに強調していた。
 何から何までサッカーで、大げさに言えばサッカーやに興味がない奴は非国民だといった雰囲気すらあった。
 そんな時、ダウンタウンの2人は何かの番組で誰があんなもん観るかと言い放った。まっちゃんにいたっては、日本戦の放送の日に性感(マッサージ)に行ったらすいててよかったと言っていた。俺はこの2人に対する信頼を固くした。
 サッカーの好き嫌いではない。ひとつの方向にみんなが一斉に向かおうとするとき平然と逆のことを言えるダウンタウンがあらためて好きになった。
 自分が権力に迎合したり、長いものに巻かれそうになったとき、性感マッサージを受けているまっちゃんの顔を想像し、その顔に顔向けできない生き方だけはすまいと誓った。
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2009年10月23日

フィルムについて語ること

 先日白州で会った水由君が、12月にフィルムの上映とシンポジウムの企画をしている。私の作品も上映することになっているし、シンポジウムにもパネラーとして出席することになっている。
 フィルムの映像としての魅力を語ることはできる。また、フィルムの重要性を語ることもできる。だが、徐々に無くなろうとするフィルムをの重要性を観客に訴えても、問題の解決にはならない。
 フィルムの中でも特殊な8ミリ映画、その中でもシングル8となると特に関心のないお客さんにとっては、マニアックな話題にしか聞こえないだろう。
 私は今のところ、フィルムのそして8ミリの芸術論的な価値について語ろうかと思っている。しかし、いくらその価値を強調しても、なくなってしまうメディアではいかんともしがたい。
 8ミリそのものを残すのか、それが無理なら8ミリから引き出した価値のある部分だけを残せるものとして残していくのか、そんなことも突きつけられているような気がする。
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2009年10月22日

額装をした

 今日は創形美術学校で、午前中は編集の授業、午後は卒業制作のゼミ。ゼミ生が作業をしている横で、私も先日書いた『卒業生による作品展』に出品する作品の額装をする。学生といっしょに作業をするのは、別に共同制作ではないが同じ空気を吸っている感じがして楽しい。
 いつもは映像作品を作っているので、額装という作業は久しぶりだ。前面のガラス板を持つときうっかり手を滑らせ、左手の薬指を少し切ってしまった。ただ写真を台紙に貼って上にガラスを置き、額に入れるだけなのにまったくしばらくやっていないとこのざまだ。
 額について、いろいろなことを久し振り考えた。額の種類、作品と額の関係、大きさ、額の色彩や装飾の有無、額を使わない展示のしかた、考えるといろいろなことがある。
 私がはじめて親の同伴無しで美術館に行ったのは、中学の頃の『レンブラントとオランダ絵画巨匠展』だったと思う。たしか小学校の友人林くんと行ったのではなかったか。
 まだよく絵の楽しみ方がわからず、ただただ描写力に感動したり、きれいな風景があると窓の外を眺めるようにぼっと観たりしていた。そのとき、私とは無関係な観客の一人が、「すごい額だなあ」と言った。それを聞き始めて額に目が行きなるほど、額というものもすごいなあと感心した。それまではまったく額に意識がいかなかったのに、突然額を見るのが楽しみになってしまった。
 それまでも目には入っていただろうに、意識がいかなかったのが不思議だが、額の役割とはそんなところにあるのだろうか。
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2009年10月21日

『残虐記』を読んだ

 きのうのことになるが、桐野夏生の『残虐記』を読み終えた。18日、白州に向かう列車の中で何か読もうと新宿駅構内の書店で、薄めの本を探した。久し振りに小説が読みたかった。
 自分ではあまりストーリーのある映画を作らないが、実はストーリーものが嫌いではない。何よりもあの時間を忘れる感じが好きだ。だから土曜ワイド劇場のようなドラマも、暇だとつい見てしまう。
 で、『残虐記』はどうだったかというと、面白かった。どう面白かったかというと、これがやっかいだ。どこまでこの物語を信じていいのか途方にくれるような物語であり、そこが面白かった。物語が作り話であることは当然である以上、普通は物語を信じる必要はない。お話として楽しめばいいのだ。だが、この物語はそこが一筋縄では行かない。
 著名な女流作家が、自分は子どもの頃少女誘拐監禁事件の被害者だったという手記を残して失踪してしまう。
 小説は、その作家の夫を名乗る人物が、彼女の担当編集者だった男に向けて書いた手紙から始まる。手紙によれば、作家は二週間前に失踪し、ワープロのそばにプリントアウトして原稿があり、手紙の相手である編集者に送ってくださいとポストイットが貼ってあった。そしてその手紙に、残されていた原稿『残虐記』が続く。『残虐記』の冒頭には、誘拐監禁事件の犯人から作家へあてた手紙が付されている。犯人は去年刑務所を出たといいます。それに作家自身が体験した誘拐監禁事件の詳細が記される。そして、最後にまた、担当編集者に向けた夫と名乗る男の手紙が続き終わる。
 奇妙なのは、手記の中で作家は自分は独身だといっていることだ。だとすると、この作家の夫を名乗る男は何者か。夫の手紙と本人の手記と、犯人の手紙の関係が、根本的に成り立たなくなる。全てはこの男の妄想であり、捜索かもしれない。小説はもちろんフィクションだが、読者はそのフィクションをある仮想された位置から仮想された角度で眺め受け入れる。そのことが成り立たない小説。
 物語をどこまで信じていいかというのはこのことである。
 この不確定な関係は、リアルだ。
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2009年10月20日

創形美術学校40週年記念『卒業生による作品展』に思う

 私の母校であり、いま非常勤講師をしている創形美術学校が今年40周年を向かえる。といっても特別式典のようなことをするようすはない。ただ、学校のエントランスに設置されているギャラリーで卒業生の作品展を開催するという。
 私も出品することにした。『イコノクラスム』という写真と映画のシリーズがあるのだが、その写真4枚を組み写真にして展示する。この映画はあと数本作る予定なのだが、頓挫したままだ。その意味でも、現在進行形の大事な作品である。
 午前中、別の専門学校で授業をした後、新宿の世界堂に行く。かねてより目をつけておいた額縁を買い創形に向かう。学校に着くと、先輩の磯島さんにばったり会う。やはり搬入に来たようだ。磯島さんは同窓会の幹事としても精力的に活動している。同窓会のWebサイトは彼が運営している。
 とりあえず額と写真を所定の場所に置き、ついでなので翌々日の授業の準備をする。
 展覧会は、学校がたいした告知をしたわけでもないのに予想以上の出品者が集まったようだ。総勢62人、ちょっとした団体展だ。10月29日から11月10日までと、11月12日から11月25日までの2回に分けて行うことになった。
 この数字を見て、学校は誰のものかということを考えさせられる。現在の職員が知らないところにも創形美術学校が存在する。現在の創形を知らない卒業生もたくさん存在する。専任講師や非常勤講師が考えた教育ビジョンもその人数分あったろう。いろいろな人の創形に対する思いがたくさんあるだろうことを、この62人という出品者数は予感させる。
 それを生かすことができれば、学校の栄養になるだろう。 
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2009年10月19日

甲府から出勤

 甲府で一泊し、早朝5時29分の高尾行き始発に乗る。高尾着が6時53分。7時3分に東京行きに乗り東京着が8時7分。そこから東京メトロの大手町まで歩き大手町から西葛西まで東西線に乗り8時32分着。これで多少の余裕をもって9時からの授業に間に合う。
 甲府で同じ車両に乗った人が、新宿までいっしょだった。そうか、通勤圏なんだ。
 千葉方面からだと、同じ所要時間でどの辺からこれるのかな。調べてみると、館山5時24分発で7時47分に東京着。これは内房線だが外房線だったらどうだろう。安房天津を5時17分に出発して東京着7時41分。東京までならやはり千葉からのほうがほんの少し早いのか。
 西葛西に9時少し前ならもっとゆっくりですむ。俺が通勤するとき同じ電車に乗っている人の中に、5時半くらいに館山や安房天津で電車に乗っている人もいるのかもしれない。今まであまり考えたこともなかったが。
 新幹線で通勤する人もいる。何気なく過ごしている生活の背後に、様々な時間や距離を生きている人々がいるんだな。
 甲府方向から眺めた西葛西は新鮮な眺めだった。   
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2009年10月18日

ダンス白州にきた

 14時ごろ新宿を出て、ダンス白州にやってきた。16日の金曜日から始まっているのだが、なかなか都合がつかず今日やっと来ることができた。
 今年ダンス白州は「四つの節会」と題して季節ごとに行われている。すでに春と夏は終わり、いまは秋だ。春は「土の節」夏は「火の節」そして秋は「水の節」。
 韮崎からタクシーに乗り、受付に到着すると受付から少し離れた畑の中で、玉井康成の舞踏が始まっていた。玉ちゃんは体がかもし出すスケールがどんどん大きくなっている。体が大きくはなっているわけではない。体の中にまわりの匂いや温度や風景が入り込んでいるようだ。
 その後しばらく休憩を挟み、19時から田中泯演出の水のパフォーマンス『水・劇』が開演となる。水、体、声、情景。小品ながら白州らしい贅沢な時間と空間と光と闇そして身体。
 暗転した瞬間、周りを囲む木の影に切り取られた星空が見事だ。
 実は冬の節会に俺も映像の企画をやることになっているのだが、真冬に野外でどんな映像をやるのかまだまだ固まっていない。11月に少し泊り込んで考えるか。
 公演の後、グラスハウスで打ち上げ。中には原口典之さんの巨大な作品ファントムも設置されている。
 白州は快適すぎるので、何か自分の中に異質なものをつくらないと何もできなくなる。それが何かまだ見えてこない。
 21時過ぎ、水由君の車に乗せてもらい甲府に向かう。水由家はそのまま東京に帰るが、俺は甲府に一拍。おやすみ。
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2009年10月17日

タイムマシンにお願い

 加藤和彦が自殺したという。愕然。
 私は決して熱心なファンではなかったが、加藤和彦が好きだった。
 実は、数週間前から某専門学校で行っている映像編集の授業で、サディスティック・ミカ・バンドの『何かが海をやってくる』をBGMとして使わせていただいた。ちなみに、出来た作品は授業内で観るだけなので、著作権を侵害はしない。
 『帰ってきたヨッパライ』を始めて聞いたのは、中学の昼の校内放送だった。以前にも書いたが、うちではレコードを聴いたりする習慣がなかったので、昼の校内放送はいろいろな音楽にを聞く数少ない機会だった。『ヘイ・ジュード』をはじめから終わりまできちんと聞いたのも、中学の昼の校内放送だった。当時の九段中学放送部の同窓生には感謝したい。
 そのころ、エレキットという電子工作のキットを買ってもらい、ラジオを作った。イヤホンで聞くこのラジオが私の音楽メディアになった。深夜放送を聴くようになった。もっともエレキットは組み立てなおすといろいろなものになったので、いつもラジオとして使ったわけでもない。そのうちちゃんとしたトランジスタラジオも手に入れたのだが、エレキットでラジオを聴く時代がしばらくあった。
 はじめ色物かと思ったフォーク・クルセダーズは、好き勝手にやっているようで、いい歌を作りや面白い演奏をたくさんして解散した。それがまぶしかった。
 高校時代は北山修のパックインミュージックをよく聞いた。それから、夕方にラジオでスタジオ公開放送の番組があり、その司会を加藤和彦がやっていた。パックのDJをしていた野沢那智も、たしか日替わりで司会をしていたと思う。私は加藤和彦の飄々とした話し方が好きだった。彼は司会をしながら、『おいでよ僕のベッドに』や『拝啓大統領殿』を歌った。その頃は、『拝啓大統領殿』がボリス・ヴィアンの歌だなんて知らなかったが、加藤和彦が震えるような声で「だいとーりょーどのー」と歌いだすのにしびれた。「しびれた」という言葉も死語だなあ。
 1970年だと思うが、加藤和彦が銀座の町を歩くCMがあった。キャッチコピーは「モーレツからビューティフルへ」。時代の変わり目だった。
 加藤和彦の結婚記念に、北山修作詞、加藤和彦作曲の『あの素晴らしい愛をもう一度』を発表したときは、同級生の丸山くんと何でこれが結婚祝いなんだ、まるで倦怠期の夫婦に向けた歌じゃないかと笑った。
 ジョンレノンとオノヨーコのプラスティック・オノ・バンドをパロってサディスティック・ミカ・バンドを作った時は、いかにも加藤和彦らしいなあと思った。あいにくこの頃から私は洋楽にはまりだし、小遣いは洋楽のレコードに消えた。したがって、あまりミカ・バンドを聞いてはいない。少し耳にした『ダンス・ハ・スンダ』や『サイクリング・ブギ』がいかにも遊びのための遊びという感じがしてあまり興味が湧かなかったこともある。その後『黒船』を聞いてその素晴らしさに驚いた。
 ただ、ミカ・バンドが、その頃大好きだったロキシーミュージックのツアーのサポートバンドをつとめたというニュースを聞いたときは、なんとなくうれしかった。
 そのイギリスツアーをきっかけに加藤夫妻が離婚し、ミカ・バンドが解散したときは『あの素晴らしい愛をもう一度』を聞いて笑った丸山くんを思い出した。
 私はロックに時代の表現を求め、音楽以上の何かを期待しながら聞いていたように思う。そういった私の視野から加藤和彦は消えていった。遊び、趣味、美学といった言葉がふさわしいようにおもえた。
 彼の音楽を聴き続けていなかったせいか、時々見かける髪の薄くなった加藤和彦の姿には違和感があった。中学・高校時代の私が彼に感じた魅力は、あくまでも髪がふさふさで飄々と軽やかでありながら、時には既成のものを壊してしまう自由さだった。
 今聞きなおすと、彼が質の高い音楽を作り続けていたことがわかる。ほんとうに、私はファンになりそこなったんだなあと思う。どんなジャンルであれ特定のアーティストの活動を追いかけるとき、リアルタイムで追いかけるのと、後から時間をさかのぼって追いかけるのでは全く意味が違う。見えるものが違う。感じるものが違う。時間をサディスティック・ミカ・バンド結成時に戻すことができるならば、リアルタイムで加藤和彦を追いかけることができるのだが。
 合掌。   
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2009年10月16日

CDの値段

 以前、高校生の卒制企画について書いた。「普通の子」で好きな音楽はゆず、持ってるCDはシングル3枚というキャラクター設定である。
 きょうまた、その生徒たちの卒業制作の授業があった。ほぼ絵コンテもできている。その登場人物の生活をいろいろ想像したようである。
 ところで、持ってるCDがシングル3枚という設定が面白く、いろいろと気になる。今のCDの値段、高校生にとっては高いのだろうか安いのだろうか、ちょうどいいのだろうか。
 私の高校時代、アルバムのレコードは1800円だった。その数年後2000円になり、2500円になった。これが1975年くらいだからそれから34年ほど、アルバムの値段はさほど変わっていないことになる。レコードとCDの違いはあるが。
 それに比べて本の値段はずいぶん変わった。岩波新書はその頃150円だったよなあ。
 昔の俺たちにとっての2500円と今の高校生の2500円、今のほうが相対的に2500円の価値は低いだろう。俺たちが学生の頃は買うレコードの枚数も、レコードを買う人口も少なかったように思う。いま、CDの売り上げは落ちているという。音楽配信の影響だ。だが、音楽配信が本格的になる前は、けっこうみんな音楽を買って聞いていたように思う。
 ちょっと気になったのでネットで調べてみた。社団法人日本レコード協会のデータを見ると、面白いことがわかった。俺が高校三年だったとき、1973年のシングル、アルバム、カセット、カートリッジ、オープンリール全て合わせた音楽メディアの売り上げ数は198,700千(枚・巻)、一番売れたのが1997年の480,706千(枚・巻)、直近では2008年の303,490千(枚・巻)となる。レコードあるいはCDだけの比較もできるが、音楽をどのぐらい買っているかという比較では総売上での比較が適切だろう。2008年の売り上げには音楽ビデオも入っている。
 こうしてみると1973年ごろは、やはりあまり音楽を買っていないことがわかる。一人暮らしの学生は、ステレをもっている奴のうちに集まって、レコードを聞いたもんな。ウォークマンがまだなく、ステレオを買うかラジカセで我慢するかだった。今はみんな、i-podやケータイで音楽を聴いている。みんながメディアを持っている。
 いまは、音楽がある生活が当たりまえのように感じているが、歴史的には異常なことなんだなあ。
 
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2009年10月15日

カメラを持って思うこと

 カメラは道具だが、カメラを手に持つとカメラから伝わってくるものがある。
 私はビデオカメラ、16ミリや8ミリのカメラ、写真のカメラ、デジカメなどいろいろなカメラを手にする。
 このうち、古くなるのが一番早いのはビデオカメラだ。買って1,2年するとまだそれ使ってんのという感じになる。もちろんかなり強情に使っているが、それでもいろいろと不便はある。ビデオの場合、まず録画のフォーマットが変わってしまうことがこれまでに何度かあった。民生機だとベータ、VHS、VHS−C、8ミリビデオ、Hi8、miniDV、と変化してきた。このうち私がカメラとして使ったフォーマットは、ベータ、VHS、Hi8、miniDVの4種類だ。業務用としては、UマチックとベータカムSPとDVCAMを使った。それも今では古くなっている。すぐ古くなるということは、カメラがあまり存在感を持ってこないということでもある。また、ビデオカメラは電子機器なのでそれ自体がブラックボックスであり、メカとの信頼関係が生まれにくい。
 それに対して、一番存在感をもっているのは35ミリ一眼レフのカメラだ。10代の終わりにカメラを買ってもらい、途中買い替えはあったが、フォーマットとしてはずっと使っている。じつはカメラでいろいろ遊べる余地が一番あるのがこのフォーマットだ。このカメラをもっていると安心する。だが、このフォーマットもデジタル一眼レフに押され、市場での存在感は日々薄れている。
 8ミリや16ミリの映画用カメラは、存在感があり手になじむがカメラの性能によって遊べる範囲が変わってくる。いまやほとんど使われないフォーマットだが、ビデオカメラよりはメカとしてずっと信頼感がある。たとえ世間で使われなくなっても、フィルムがあって現像ができればずっと使い続けたいと思っている人が少数だが存在する。
 デジカメは、メカというより機能という感じが強い。信頼感はなく、いつ消えてもおかしくない。
 おとといシネコンで感じたことと同質の感じを、デジカメを持って感じた。

   
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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