2009年10月14日

シネコン

 昨日の夜、妙典のワーナーマイカルで松本人志の『しんぼる』を見た。映画については『この惑星』の『アーティスト・アイズ』に書くのでそちらを読んで欲しい。
 それにしても、シネコンは古い映画ファンにとってはなじみにくい。別に嫌なわけではないのだが、映画を見る場所という感じがうすい。
  まず部屋がいくつかあり、スクリーンにナンバーがふられ、部屋はそのスクリーンナンバーで呼ばれる。同じスクリーンに、時間帯によって違った映画がかけられる。シネコン用語ではなく昔からある言葉だが、「スクリーンに映画をかける」という表現は面白い。掛け軸や絵を掛けるからきている表現だろうか。
 ひとつのスクリーンに一日に何本もの映画が上映されるのは、むしろ映画館の企画上映や映画祭、自主上映を思わせる。だが、それらの上映には効率からは外れることもある映画への情熱が感じられる。だが、シネコンの上映形態は効率性、機能性のほうが強い。
 映画館には独特の色、匂い、文化がある。ロードショー館であれ名画座であれ。だが、シネコンにはそれがない。伝統や歴史や文化といって古さにつながるイメージは否定している。常にぴかぴかの現在を演出している。まるでベニヤの書き割りでできたバラックのようだ。
 どことなく、東京に似ていないだろうか。
posted by 黒川芳朱 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

東京メトロ一日乗車券を使って

 今日は移動が多い。交通費だけで1000円を越す。
 東京周辺は交通網が発達して便利だ。どこでも大体電車でいける。新しい地下鉄がどんどんでき、あっこんなところにも駅ができたのかと思うことがある。だが、しばらくするとその駅がなかった頃はどんなに不便だったろうと思ってしまう。最近では新都心線、池袋から渋谷まで楽になったなー。
 だが、交通費は高い。便利なもんでついあちこち電車で行くと、小銭が減り札がへり、あれ、こんだけしかなかったっけーということになる。
 俺の場合、毎日同じところに仕事に行くわけではない。だから定期を買おうと思ってもうまくいかない。プリペイドチケット的な意味はあっても、節約にならないのだ。PASMOやSuicaは何の節約にもならない。
 で、最近愛用しているのが東京メトロ一日乗車券。710円で東京メトロ全線が乗り放題。家からだと東西線を幹線として都内は大体どこでも地下鉄で行ける。710円だと片道355円、ちょっとした田舎道のバス代くらいだ。
 それにしても、交通費はもう少し安くならないだろうか。それとも、我々は移動しすぎるのだろうか。
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 都市風景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

プロラボを探して

 数日前の話だ。昔撮ったリバーサルフィルムからダイレクトプリントをとろうと思い、以前よく利用していた銀座の日本発色に行ったら看板は残っていたが店と階上のオフィスは閉鎖していた。つぶれたのか。
 携帯で調べるとつぶれているらしい。去年の7月のことだという。ううむ。銀座の路上でのニッパッツ閉鎖に関するリサーチはそこで切り上げ。事情は家に帰ってゆっくり調べよう。
 いまはかわりのプロラボを探さなくてはならない。堀内カラーはどうかな。うん、まだ健在のようだ。でも銀座周辺にはないな。あれ、上場廃止とか言う記事もある。でもまあやってるわけだ。でも今はもっと近場を探そう。でもでもでもでも。
 CREATEはどうかな。あっ銀座にある。有楽町の駅のそばだ。都内は銀座と新宿にしか店舗はないな。じゃお世話になった渋谷はもうないのか。行ってみよう。
 行ってみてちょっと驚いた。こじんまりしている。でもでも、考えてみればラボの受付なんてこんなもんで十分か。日発の銀座の店もこんなもんだったなあ。CREATEの渋谷の店がちょっと大きかったので、小さく感じただけのこと。それよりプロラボといえばひとつの店として壁やドアで区切られたスペースの印象ばかりだったが、このCREATEは銀座ファイブというショッピングセンターの一角にあり、通路に面したオープンスペースだった。だから、プロラボというより一般のDPE屋さんのような感じだ。
 とにかく、フィルムをめぐる状況は日に日に変化している。今日、プロラボについての情報を収集したのが携帯電話だというのも象徴的だ。なにせこの携帯で、写真を撮ってメールで遅れるのだから。
 でもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでも。
 
posted by 黒川芳朱 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

『ぴあ』を探して

 さて、きのうに引き続きイベント探しだ。イベント探しに必須のものといえば『ぴあ』だ。
 むかし(10年ほど前)は毎号買っていたのだが、ここのところあまり買っていなかった。最近は必要なイベントにしか行かず、なんとなく面白そうなものを探すということをしていなかったのだ。そもそも何曜日が発売日なのかもわからなかった。久しぶりに『ぴあ』を買ったことは8月29日に書いた。買ってみたら隔週木曜日刊だった。これはむかしと同じかな。
 驚いたのは、『ぴあ』を買おうとしてずいぶんてこずったことだ。むかしは、駅の売店でもコンビにでも書店なら必ず手に入った。今は置いいているところが極端に少なくなっていた。駅の売店でまったく見かけなかった。コンビにもごくたまにしかおいていない。書店もよく探さないと見つからない。今日は鐘ヶ淵駅前のセブンイレブンで見掛け、船橋の旭屋書店で買った。
 ここ数年で、情報の集め方が大きく変化した。ひとつはフリーペーパーの存在だ。求人やアルバイト情報誌も、一応書店に置かれているが、それ以上にフリーペーパーがあちこちに置かれている。飲食店をメインに様々なお店の情報を提供するフリーペーパーもある。ただ、イベント情報の総合的な情報のフリーペーパーは見たことがない。
 そしてより大きいのは紙媒体からインターネットへの変化だ。こちらは、ピンポイントで情報を探すときには便利だ。イベントのタイトル、アーティスト名、などがわかっているときは一発で探せる。あるいは、あそこの美術館では今何をやっているのかなといったように開催場所から探すこともできる。
 ただ、ネットではなんとなくふらふら情報の中を散歩して偶然に面白いものに出会うというのが難しい。ちょっと矛盾する言い方だが、ネットのほうが目的がはっきりしていないと、本当に迷子になってしまう可能性がある。
 ネットでは、情報は上位のフォルダから下位のフォルダに分類されるように細分化される。実はこれは紙媒体でも同じなのだが、紙媒体の場合は読み手の自由度が高く、作り手の設定した分化の枠を軽々と超えてしまう。
 紙媒体の1ページにはかなり多くの情報が盛り込まれており、一瞬にしてたくさんの情報が目に飛び込んでくる。ネットの場合、情報量が多くなればなるほど、ページを上下する動き、場合によっては左右にも移動する動きが必要となってくる。紙媒体なら新聞だってページ全体を一瞬にして眺めることができる。
 また、ネットでページを変える感覚と、紙媒体でページをめくる感覚はまったく違う。紙媒体なら、指を挟んでおきページを行きつ戻りつすることも簡単だ。だが、ネットではページの移動が光通信でも一瞬間がある。前に戻ろうとするとまた時間がかかる。時間を食われる感覚はネットのほうが圧倒的に大きい。ユーザーとしての時間感覚は、紙媒体のほうがノンリニア(非直線)であり、ネットの方がリニア(直線)である。人間の持つ瞬間的な認知能力との親和性は紙媒体のほうがはるかに高い。
 本は情報の塊を手の中で操作する。ネットは情報の海に中を泳いで行く。紙媒体のほうがページ全体を眺めることも、ページを超えた比較も簡単にでき、情報の海を俯瞰から眺め易いのだ。
 ネットの場合、膨大な情報の中から狙ったものを検索で引っ張り出すことはできるが、検索するということは、曖昧なキーワードをいくつか並置するにしても探す対象がある程度決まっているので、まったくの偶然の出会いではない。
 紙媒体で情報を俯瞰していると、思ってもみない情報と出会うことがある。検索キーワードといってこちらの予測を超えた情報に。
 ネットで、デタラメなキーワードを入力して検索をかけ偶然に出てくる情報を見るという方法もあるが、ちょっと効率が悪いのでこれは完全に遊びと割り切ったほうがいいだろう。
 情報の海を俯瞰で眺める楽しみには、やっぱり雑誌の『ぴあ』が欠かせない。
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 本のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

『この惑星』でリアルを探して

 『この惑星』のアーティスト・アイズで取り上げるイベントを探して美術館めぐり。なかなかピンと来るものがない。今、この惑星にはリアルが不足しているのか、なんてね。
 そもそもこのレビューにはちょっとした条件がある。だいたい記事は月末24日ごろにアップされる。それを読んで読者が見に行こうと思えば行けるイベントが好ましい、というのがこのWebマガジンを主催している大島氏からの要望だ。まあ、例外はあってもいいのだが、まだ連載2回目なのでもう少しは原則を守ろうと思う。
 で、24日に読んで、その後1週間ほど行われているイベントとなるとかなり限られてくる。何しろ原稿を書く時間もあるので、24日をはさみ2週間ぐらいは開催されていなければならない。となると大きめの美術展か、映画といったところだ。ダンス、演劇、音楽ライブなどでその条件に合うものはなかなかない。映像も実験映画や自主上映はむずかしく一般劇場公開ものになる。
 できるだけ真新しい表現を探したいのだが、この条件に合うとなるとある程度評価が固まったものにならざるをえない。その中で、比較的新しいものということだ。ただ、何回かに1回は条件を外れても真新しいものを取り上げようと思う。
 さて、今日見たものがいまいちだったので、どうするかなあ。 
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | この惑星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

石原志保・踊り場作業4「否連続―non-continuity」を見た

 某公立高校で授業。ひょんなことで生徒たちにこのブログが見つかり大騒ぎ。あらら。
 授業終了後、夜の8時から中野富士見町のplan-Bで石原志保さんの踊りを見た。踊りの具体的な描写は避け、見ながら感じ考えたことを書く。
 顔や体の表情が刻々と変わる。まるで表情という皮膚を剥いでいくように。だが、顔で表情を作っているわけではない。むしろ実際の表情は変わらないぐらいだ。変わっているのは、見ている俺の中に浮かんでくる言葉なのだ。言葉はサングラスのように視野を染め上げる。だが、言葉が浮かぶのは人間として当然のことだろう。浮かんできた言葉から自由になるように見続けること、見る楽しみはここにある。
 しばらく見ているうちに、「ずれ」という言葉が浮かんできた。様々な「ずれ」が眼の前で起きているようだ。
 この「ずれ」は失敗を意味してはいない。運動が起これば、当然そこにずれや摩擦が起きる。集団での演奏や演劇などのアンサンブルは、「ずれ」の応酬ともいえる。様々なのものが入り込む余地でありゆらぎでもある。
 「ずれ」という言葉が浮かんだあとに、要素という言葉が浮かんできた。要素と要素の間に「ずれ」が生じる。「ずれ」という言葉は要素という言葉を前提に用意させようとする。だが、果たして要素などあるのか。すべては運動であり、「ずれ」こそが実体ではないのか。要素とは仮想のものではないかという思いが浮かぶ。要素という言葉は消え、五感はさまざまな「ずれ」を感じる。この「ずれ」を自分のうちで編纂すること。このとき、自分がその場で起きている出来事に加わっていく。
 踊りを見ることが鑑賞にはならず、運動として成立した夜だった。
 振り付けの田中泯さん、恩師の美術家高山登さん、スーザン・ソンタグの翻訳書が出たばかりの木幡和枝さんとも久しぶりに話すことができた。  
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月08日

『柳井嗣雄展』を見た

 台風だったが、間一髪、私の乗った電車は目的地まで遅れながらも走った。その一本あとの電車から止まったらしい。5分ほど遅れて学校に駆け込む。だが、一人しか学生が来ない。だよな、山手線内回り外回りとも止まってるんだもの。池袋も人通りが少ない。台風の中、登校した熱心な学生相手に個人レッスン。授業終了後、銀座に向かう。家まで帰る電車はまだ復旧していないので、ちょうどいい。友人の展覧会に行こう。
 柳井嗣雄君の展覧会が、二つの画廊で開かれている。ギャラリーヴィヴァンではドローイングが、VIVANT ANNEXEではインスタレーションが展示されている。二つの画廊は名前からもわかるように、同じ系列だ。 柳井君は繊維を使うアーティストで、今回のインスタレーションも針金に繊維をまきつけ、有機的な感じの構造物を作っている。また、ドローイング作品の和紙も自分で漉いたものだという。インスタレーション案内状の写真を見て大きな作品かと思っていたのだが、意外なことに小さな作品だった。自己組織化する繊維の密度と針金で作られたラフな構造が、小さいけれど広がりのある形態を成立させていた。
 しゃがんで見たり、離れて見たりしたかったのだが、画廊が狭くていろいろな角度、視点から見られなかったのが残念だ。
 ドローイングも、小さいけれど広がりのある空間を形成していた。抽象的な絵だが、和紙は単なる支持体ではなく、墨とアンサンブルする楽器のようだった。
 こちらも小さな画廊で、驚いたことに、万華鏡の専門店(販売している)でもあるらしい。ちょっと見た範囲では2、3万円する立派な万華鏡もあったが、もっと高価なのあるのだろう。柳井君の作品を見に行って万華鏡を見るとは予想もしていなかったので面白かった。
 ただ、柳井作品はもう少し見たかったなあ。腹七分ぐらいの感じだ。
posted by 黒川芳朱 at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月07日

BGMについて

 おととい銭湯のことを書いた。そのせいか思い出したことがある。
 繰り返しになるが、学生時代銭湯が好きだった。天井が高く、男湯と女湯は壁で区切られているものの、湯気が昇っていく上のほうには壁がなく、空間はひとつになっている。エコーのかかった中に手桶の音がカランコロンと響く。そして誰もが自然に裸で振舞う解放感のある空間が好きだった。
 思い出したのは、あのエコーがかかった話し声と、手桶のカランコロンという音響空間に、レゲエがかかっていたらいいなと思っていたことだ。
 だいたい、公共空間やお店のBGMはうざい。亀井のおっさんではないが、都市の犯罪の何パーセントかは街中でかかっているBGMのせいだと言いたくなる。もちろん何のデータもないが、なぜこんなことをいうかといえば、俺自身が街中の音楽にいらいらして犯罪を起こしたくなるからだ。もちろん僕は理性的な人間だからそんなことはしないけどね。
 職場にBGMというのも考え物だ。嫌いな音楽だと仕事もしたくなくなる。かといって、その音楽止めてというと職場の人間関係を損なってしまう。正直いって閉口したこともたびたびだ。とにかく、嫌いなもんは嫌いだから。
 でも、銭湯にレゲエってアイディアはわれながら気に入った。これはすごくいいんじゃないだろうか。みんな素っ裸で、I&Iだね。
posted by 黒川芳朱 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 体感音楽論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

亀井静香と天竺五郎

 亀井静香金融・郵政担当相が、また物議をかもしている。
 大企業について「日本で家族間の殺人が増えているのは、日本型経営を捨てて、人間を人間として扱わなくなったからだ」といったというのだ。傑作なのは経団連の御手洗会長に「そのことに責任を感じなさい」といい、御手洗会長が「私どもの責任ですか」と答えたという。
 テレビでは識者だかコメンテーターだかが、大臣なんだからこういう発言で受けを狙わないでいただきたいといっていた。そうかね。
 おれはまったく違った場面を思い出した。80年代だったろうか。おれも運営に関わっているライブスペースPLAN−Bに、役者の天竺五郎さんが住み着いていたことがある。おれは学生のころ、状況劇場の紅テントの中で、可笑しなテンポでまわりにちょっとした歪みを作り出す天竺さんの姿を、あんぐりと口をあけて見ていた。「なにをおっしゃる、のぐつぃさん」、その天竺五郎である。
 で、その頃PLAN−Bのスケジュールを管理したり、カレンダーを作ったりしていた斎藤君(おととしまでPLAN−Bにいた斎藤君ではない)という青年がいた。彼は、天竺さんに心酔していた。ここからは、その斎藤君に聞いた話である。
 あるときPLAN−Bに、当時発行されていた「ぴあ」ではない方の情報誌が取材に来た。某シティーロードって言うんだけどね。パフォーマンススペースについての取材だった。斎藤君が対応し答えている脇に天竺さんもいた。
 編集者は相手が天竺さんと知り、「今の小劇場演劇はどうしてこうなっちゃったんでしょうね」といったような事を聞いたらしい。すると、天竺さんはその編集者を指差し、「お前が悪い!」といった。編集者が面くらい「わ、わたくしですか」と答えると、天竺さんはさらに畳み掛けるように「そうだ、お前だ!」といったという。
 天竺さんはずっと前に亡くなっているし、斎藤君が今どこにいるわからないので、確認しようがない。事実確認ができないので、これは事実ではなく、PLAN−Bで行われた芝居だと思ってもらってもいい。
 さて、このことについて何かコメントしようか。
 いや、やめておこう。説明不足は百も承知だが、説明したくねえことだってあんのさ。
posted by 黒川芳朱 at 20:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月05日

スペンサー・チュニックのニュースを見た

 夕方テレビを見ていたら、ニュース番組でちょっと珍しい映像を見た。
 写真家のスペンサー・チュニックが、フランスのぶどう園で700人の男女をオールヌードで撮影したというニュースだ。ボカシが入っていたが、壮観だった。画面には、「あくまで芸術です」というテロップが、しつこいほど入った。まあ、テレビだからな。場合によっては苦情の電話もガンガンかかるだろうなあ。
 できあがった写真は、ぜひ見てみたい。できるだけでかい画面でプリントしたらすごいだろうなあ。壁一面とか。いやらしさはまったくないだろうなあ。
 裸、あるいは性というのは不思議なものだ。学生時代、銭湯が好きだった。何が好きだったかというと、その空間が好きだった。それなりに広くて、お湯や水があって、たくさんの人が何の恥じらいもなく裸でいる。いくら同性ばかりだとはいえ、街中や職場で裸になれといわれたら抵抗があるはずだ。だが、銭湯ではそれがない。銭湯だから何の恥じらいもなくなる、そのスイッチの切り替わり具合が面白い。これが文化というものの不思議なところだろうか。
 いうまでもなく人間は裸で生まれてきたし、大人になっても本来自分に備わっているものは裸の体しかない。そのくせ文明社会では裸は猥褻視される。場合によっては時の大臣に「最低の人間だ」といわれ、あとから訂正されたりする。
 人間本来の姿が、文明社会では猥褻あるいは野蛮なものとみなされ、それでいて、より文化的な芸術だと許される。このパラドクス。人間と人間が作り上げた文明は、矛盾の塊だ。
 それにしても、スペンサー・チュニックの写真みたいなあ。
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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