2009年10月04日

時間

 引きこもった。
 昨日にひき続き勉強した。勉強の成果を聞かれると引き籠った上に口籠ってしまうのだが、家から一歩も出ずに過ごした。
 まだ暗いうちに目覚め、雨戸を開け、机に向かう。窓の外は次第に明るくなる。飯を食い、また机に向かう。机の上で過ぎてゆく遅々とした時間。外はやがて昼になり、気がつくと暗くなり始めている。
 天井と壁は外の世界を空間的に遮断するだけではなく、時間的にも遮断する。家は時間の外の時間の中をただよう箱舟。 
 おもてに流れる自然の時間。家の中の暮らしの時間。机の上を流れる勉強の時間。夕方ぐらいになると、三つの時間のずれから私の体は取り残されたように感じ始める。
 皮膚一枚、その外を流れる三つの時間とは別に、その内側を流れるもう一つの時間がある。
 四つの時間がねじれる。
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2009年10月03日

学習能力

 コンピュータについて勉強している。
 独学で、本を読みながらノートをとったりしているのだが、自分の学習能力のなさにつくづく嫌になる。
 夕方になり、きょうはあと何ページ進むかなあと参考書をめくってみた。ほぼ、きょうの終わりが見えた。これだけしか進まないのか。ああ、この分じゃあしたもたいして進まないなあ。朝はまだたっぷり時間があると思っていたのに、もうこんな時間だ。この喪失感。そう思った瞬間、小学校、中学校、高校の勉強の日々が蘇ってきた。これ、子どものときと同じじゃん。
 そもそも、ノートをとるのにやたら時間がかかる。正直に言うと、とっているそばから飽きている。ノートをとることが単純作業化してしまう。この辺の問題点をきちんと分析すれば、学習能力が飛躍的にアップするのだろうか。
 とにかくいまは、子どもの頃とまったく同じ壁に同じようにぶつかっている自分を発見して呆然としているのだ。 
 やれやれ、こんな姿学生には見せられない。
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2009年10月02日

卒業制作

 今日から創形美術学校で卒業制作のゼミが始まった。
 実はおれも30数年前に、創形美術学校で卒業制作に取り組んだ。油絵を描いた。植物が種から開花するプロセスを機械の設計図のように描きたかった。正月休み、学校が閉まって制作できなるのが惜しく同級生の渡辺君に車で、国立の学校から船橋の実家まで、キャンバスを運んでもらった。正月にそれまで描いていた絵が気に入らなくなり、ストリッパーをかけて全部絵具を剥がしてしまった。三が日が過ぎて、再び渡辺君にキャンバスを学校に運んでもらい、学校のアトリエで一気に描き上げた。ギリギリまで不安だったが、描き上げることができた。とりつかれたような日々だった。おれの中にアーティストとしてのプライドを芽生えた。
 それから数年後、今度はイメージフォーラム付属映像研究所でも卒業制作をおこなった。『セルロイドの砂漠』という映画を作った。これも不安を抱えたまま出発したが、途中からあたかも映画の方が命を持ち出したように、どんどん出来上がっていった。今のおれの原点といえる映画だ。
 芸術系の学校の卒業制作は、教師や学校から評価されるためのものというよりは、学生自身が学生から作家に変貌するためのプロセスだと思う。自分自身の未来に決着をつけるイニシエーションだ。
 学生たちの顔を見ながら、そんなことを思った。
 
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2009年10月01日

山崎克己紙刻繪展を見た

 創形美術学校で授業をした後、銀座のスパンアートギャラリへ山崎克己君の展覧会を見に行った。
 山崎くんは創形美術学校の友人だ。学年としては後輩に当たるのだが、年は同じ、すいどーばた美術学院という予備校でもいっしょだったはずだ。だが、彼と始めに出会ったのはまだ高校生のころ、どばたの前に通っていた石野泰之先生の画塾だった。
 そんなに昔からの知り合いなのに、微妙にすれ違っている。創形美術学校に入学した時期が違う。僕が卒業するころに彼が入学した。彼は浪人しながらがんばっていたのだ。その後もほとんど会うことなく何年もたった。そんな彼から、去年個展の案内状を貰い会場を訪れ、久しぶりに再開した。その展覧会のようすはこのブログにも書いたのを覚えている。
 そのときも書いたのだが、彼の絵は紙刻繪と名づけているように、紙に黒やバーミリオンの絵具を塗り、それを引っかいて描いていくという独特の描き方をしている。
 描いている対象は、われわれが子どもだった時代を思わせる街の風景の中のちょっと不思議な人々や動物の姿である。ガードに巨大なカタツムリが引っ付いていたり、畳屋さんの屋根の上に人力車を非違いているおっさんとそれを押している兎がいたり、洋式トイレのドアが開いていて擬人化された猫がすまして座っていたり、そんな風景だ。
 われわれが子どもだった時代というと、陳腐になってしまうのであんまりいいたくないのだが、要するに昭和30年代である。『ALLWAYS 三丁目の夕陽』である。だが、山崎くんが描く絵はそんな流行とは別に、明らかに彼のフィルターを通した風景であり、彼の中で時間をかけて醸成された絵である。正確に覚えていないのだが、タイトルに「錬肉術の」なんとかというのがあった。これは唐十郎だ。そういえば昭和20から30年代の風景と、ちょっとシュールな世界といえば唐十郎だが、山崎くんの絵はそれともまた違う。ただ、やはり何か共通のものを感じて、この言葉を使っているのだろう。
 アクリルガッッシュで紙に描いているなだが、ちょっと油絵やパステルのような質感がある。本人に聞くとやはりその辺にこだわっているらしい。油で描く気はないのか聞くと、油絵のマチエールは好きなのだが、時間がかかるのが肌に合わないらしい。このあたりが面白い。
 本人は、こういうどこにも納まらない絵を描いているのは創形にいったせいかもしれないな、と楽しそうに笑っていた。よくわかるなあ。

会期は10月3日まで、住所など詳細は以下を。
スパンアートギャラリー  http://www.span-art.co.jp/
posted by 黒川芳朱 at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月30日

大串孝二「床がない」

 きのう大串孝二さんが言っていた言葉がなかなか印象的だった。
 どんないきさつだったか忘れたが、酒が進むに連れて現代社会論のような話になってきた。まあ別に酒が進まなくても、大串さんと話しているとどっかの時点で現代社会論のような話になるのだが。
 きのうの比喩はなかなか面白かった。
 人間は大地にどかっと寝ているのが基本だ。だが、現代は壁があちこちにでき壁ばかりになっている。人間は壁によって立たされている。壁がいろいろなものを細分化し、いつの間にか足もとにほんのちょこっとしか床がなくなっている、とまあこんな話だった。正確ではないが。
 壁による再分化というのが面白い。そういわれると現代においては、いろいろなものが再分化によって、実体が存在しているかのような幻想を生み出しているような気がしてくる。真っ白い紙に細かな線をたくさん引く。そこに何か実体があるかのようなイリュージョンを生み出す。絵を描くときの基本だが、そんなことが社会的に行われているというわけだ。うーむ、うまい比喩だなあ。
 いろいろ思い当たる節がある。美術だの、映画だの、現代芸術だのというのもいろいろ細かくジャンル分けしたり分類したりすることで、あたかもそこに複雑な実体があるように見せているのではないか。だだっ広い空間にパーテーションをいっぱい建てる、中にたいして物はなくとも壁が空間を区切ることでそれが実体に見える。
 そういえば、千葉の郊外を車で走っていると「巨大迷路」という施設を時々見かける。畑の真ん中とか、だだっ広い空き地のようなところに。客は入るのかなあ。空間を壁で区切るだけでできるレジャー施設だ。現代社会はベニヤで区切られた巨大迷路か。
 そして、ポイントは床がなくなっているということだ。
 鮮明なイメージなので、ついいろいろなものに当てはめてみたくなる。あてはめては納得してしまうアナロジーの罠には気をつけよう。そういえば安倍公房に『壁』って小説があったな。
 そんなことを考えていたら、なぜかあまり好きではない歌のメロディが浮かんできた。

都会では
売れ残った
マンションが増えている
けれども
問題は足の裏
床がない
posted by 黒川芳朱 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ひろった名言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月29日

藤山貴司さんのこと

 久しぶりに大串孝二さんと会った。来年の9月に開催される画家藤山貴司さんの新作展で、僕と大串さんでパフォーマンスをやらないかというお誘いを藤山さんの奥さん、麻美さんから受けた。そこで3人で会ったのだ。
 なぜ本人ではなく奥さんかというと、藤山貴司さんは去年の8月に亡くなっている。彼が亡くなる前に作っていた作品を、麻美さんは遺作展ではなく新作展として発表したいというのだ。僕と大串さんのパフォーマンスも麻美さんの発案である。彼は素晴らしい大画面の絵画を描きつづけたが、死の直前に作った作品は不思議な立体作品だ。
 麻美さんは、僕らのパフォーマンスも、オマージュではなく、藤山さんを生きた作家として扱って欲しいという。これには大賛成だ。
 かつて、スタン・ブラッケージの回顧展を日本で開催したとき、私は実行委員の一員として『リスポンドダンス』という、さまざまなアーティストが自分の作品をとおしてブラッケージとの対話するという企画を担当した。アーティストに交渉するに当たって、オマージュではなく本気の対話をしてください、対決でもかまいませんと説得した。
 このパフォーマンスを単なる追悼の儀式にするつもりはない。なんらかの形で藤山貴司という画家を浮かび上がらせなくては意味がない。表現を通した藤山貴司論を展開したい。これが有名人同志なら見る人の中にある程度の予備知識もあり、イメージを膨らませ易いかもしれない。だが、さほど有名ではない優れた画家へ、さほど有名ではないパフォーマーがどう対話を試みるか難問だ。
 一年あるが、さっそく考えよう。 
posted by 黒川芳朱 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月28日

空気が読めないと語る人

 おそらくおなじ会社の人なのだろう、電車の中で人の噂話をしている人たちを見かけた。彼らは共通の知人について、あれこら批評している。中の一人が、結局彼は空気が読めないんだと語った。だが、その人の言うことを聞いていると、ピントがずれているのは空気が読めていないと語っている当人で、噂されている人は普通の人のように感じられる。そもそも、電車の中で大声で他人の噂をしている時点で、空気が読めてないわけだが。
 似たような言葉に「常識がない」というのがある。あの人は常識がないなどという。だが、これもそういっている当人の話を聞くと、どっちが常識がないんだか怪しくなってくる。
 結局、人はそれぞれ自分勝手な常識というものを想定しているようだ。常識というと、ある程度普遍性をもった共通認識のように思うが、実は私たち一人一人がもっている常識とは、非常に個人的なものかもしれない。もし、世界中の人の頭の中の常識を見てみると、歪んだ考えばかりかもしれない。
 人は自分の考え方、感じ方からなかなか逃れることはできない。そんなことを電車の中で考えた。
posted by 黒川芳朱 at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月27日

手塚治虫作品集を見た

 久しぶりに手塚治虫の実験的な短編アニメーション作品集を見た。夜中、無性に見たくなり2時間通してみた。
 収録作品は『ある街角の物語』『人魚』『しずく』『展覧会の絵』『ジャンピング』『おんぼろフィルム』、さらに『おす』『めもりい』の二作品もごく短い抜粋が入っている。また、手塚治虫のインタビューも収録されており、たっぷりと手塚ワールドに浸った。
 私が感じる手塚漫画の特徴は、作品がかもし出す感情の豊かさだ。ひとつの作品に笑いもペーソスも勇敢さもかわいらしさもある。さまざまな感情が込められている。シリアスなストーリーの漫画にもユーモアがある。場合によってはストーリーの雰囲気を壊すのではないかと思われる「おむかえでごんす」とか、「ひょうたんつぎ」といったキャラクターが登場する。そういった手塚作品の特徴は、これらのアニメーションにも感じられる。
 だが、漫画との違いも大きい。私は自分の人格の何パーセントかは手塚治虫の影響で形成されたと思っている。小学校のときは毎月『少年』をとっており『鉄腕アトム』は雑誌掲載時にリアルタイムで読んでいた。中学に入って『COM』をとるようになり、『火の鳥』もリアルタイムで読んだ。だが、こういった漫画の手塚治虫と短編アニメーションの手塚治虫では明らかに違う。短編アニメーションには、漫画にはない異質なものが混じっている。
 まず、手塚治虫といえばその巧みなストーリー作りに特徴がある。ストーリーがしっかりとあるので、さまざまな遊びや実験が可能になる。だが、これらの短編アニメーションにはそれほど強いストーリー性はない。はっきりとストーリーがあるのは『人魚』、ストーリーらしきものがあるのは『ある街角の物語』だ。ストーリーに重点はないが、ショートショート的な意味での「オチ」があるのは『しずく』である。つまり、これらのアニメーションはストーリーに頼らずに作品を構築しているのだ。こういった作品は手塚作品としては珍しい。
 また、絵柄が実に多様な実験を行っている。漫画でこれほど多様な絵柄は見たことがない。実は手塚治虫のインタビューでその秘密は語られている。手塚治虫はこれらの作品で、全体の枠はきめるが細かい部分はアニメーターに託しているという。絵コンテを描いて、あとはアニメーターにお任せということも多かったという。そして、そこでそのアニメーターの作家性が出てくることをよしとしていたらしい。手塚治虫は、若いアニメーターを育てるというサービス精神、というようなことをいっていたが、それが面白い結果を生んだと思う。『ある街角の物語』のモダンデザインふうの様々なポスター。『展覧会の絵』のスタイルや時代を異にするたくさんの絵画。なかには今で言う「ヘタウマ」のような絵画もあった。これらは各アニメーターが、様々な実験をこらした結果だろう。『しずく』の渇きの表現も絵として面白い。
 夜中に見たのでやや朦朧として気持ちよい中での鑑賞だったが、これらの作品については今度じっくり考えてみたい。 
posted by 黒川芳朱 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月26日

レッドカーペットで見たピース

 しばらく前に、『レッドカーペット』という番組で見たピースというコンビが気になってしかたがない。その時は、「想像してごらん」という言葉がキーワードになっているネタをやっていた。このネタの正式名称は知らないが、面白かった。
 ひとりがスパルタ教師風のいでたちで登場し、「最近の若い奴は想像力が足りないんだ。今日は先生をお呼びしているからちゃんと創造する様に」という。そこで『イマジン』がかかり、ジョン・レノン風の男が登場し「想像してごらん○○な○○を」という。それに対してスパルタ教師がツッコミを入れる。面白いのは、想像してごらんといわれると本当にこっちが想像してしまう点だ。だから、ボケとツッコミといっても、通常のボケとツッコミではなく、想像してごらんといわれて想像して自分に対するツッコミという感じが新鮮だ。気になるもうひとつの理由が、オチのもって行きかたが独特なので、他ではどんなオチなのかが「想像できない」からだ。
 気になってネットで検索してみると、コントも漫才もやっているらしい。いまのところ単独DVDは出ていないようだ。出たら、ぜひ見たい。
 
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月25日

授業とPLAN−B

 某専門学校にて授業。講座名は「ノンリニア編集」。まあ、いまさらノンリニアとつける必要もないのだが、かつての名前が踏襲されている。
 今日の授業内容は先週撮影した素材を使い、イマジナリーラインや対話の編集、アクションつなぎなどを編集しながら学ぶというもの。おなじ素材で、微妙にタイミングをずらしニュアンスの違いを実感する。敏感に反応する学生もいれば、ピンと来ない学生もいる。敏感に反応する学生が必ずしも伸びるとは限らない。卒業生を見ても、在学中は一見鈍そうで物分りの悪かった学生がのびていたりする。このへんが人間の複雑で面白いところ。もうひとつ、教師をやってわかったことは才能がある奴やセンスのいい奴は実は腐るほどいるということ。それを伸ばしたり継続出来る人間が少ないということだ。
 午前と午後でふたクラスの授業を終え、PLAN−Bへ。今日は相倉久人さんの『パフォーマンスジョッキー 重力の復権』。きょうは入りがギリギリになりそうだったので、実はきのうの夜機材のセッティングはしておいた。
 17時半に着き、掃除。素材の頭だしなど軽く準備。相倉さんは18時入りの予定だが若干遅れてぎみ。新宿からバスでみえるのだが、この時間中野通りはえらく混むことがある。到着、やはり「大渋滞だよ」とのこと。私も何度も中野通りの渋滞は経験したことがある。歩けばなんということもない距離がまったく進まず、かといってずっと歩くとそれはとんでもなく時間がかかるし、にっちもさっちも行かなくなる。バスや車の車窓から見る風景は、そのときはえらくあせって入るからそんな風に感じる余裕はないのだが、後になって思い出すとと見慣れた町がニュアンスを一変していて面白い。
 きょうのパフォーマンスジョッキーは、想像、妄想、嘘といったことがテーマ。本番前の打ち合わせは時間ギリギリになったが、本番は滞りなく終了。その後、お客さんを交えて茶飲み話。
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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