きのう大串孝二さんが言っていた言葉がなかなか印象的だった。
どんないきさつだったか忘れたが、酒が進むに連れて現代社会論のような話になってきた。まあ別に酒が進まなくても、大串さんと話しているとどっかの時点で現代社会論のような話になるのだが。
きのうの比喩はなかなか面白かった。
人間は大地にどかっと寝ているのが基本だ。だが、現代は壁があちこちにでき壁ばかりになっている。人間は壁によって立たされている。壁がいろいろなものを細分化し、いつの間にか足もとにほんのちょこっとしか床がなくなっている、とまあこんな話だった。正確ではないが。
壁による再分化というのが面白い。そういわれると現代においては、いろいろなものが再分化によって、実体が存在しているかのような幻想を生み出しているような気がしてくる。真っ白い紙に細かな線をたくさん引く。そこに何か実体があるかのようなイリュージョンを生み出す。絵を描くときの基本だが、そんなことが社会的に行われているというわけだ。うーむ、うまい比喩だなあ。
いろいろ思い当たる節がある。美術だの、映画だの、現代芸術だのというのもいろいろ細かくジャンル分けしたり分類したりすることで、あたかもそこに複雑な実体があるように見せているのではないか。だだっ広い空間にパーテーションをいっぱい建てる、中にたいして物はなくとも壁が空間を区切ることでそれが実体に見える。
そういえば、千葉の郊外を車で走っていると「巨大迷路」という施設を時々見かける。畑の真ん中とか、だだっ広い空き地のようなところに。客は入るのかなあ。空間を壁で区切るだけでできるレジャー施設だ。現代社会はベニヤで区切られた巨大迷路か。
そして、ポイントは床がなくなっているということだ。
鮮明なイメージなので、ついいろいろなものに当てはめてみたくなる。あてはめては納得してしまうアナロジーの罠には気をつけよう。そういえば安倍公房に『壁』って小説があったな。
そんなことを考えていたら、なぜかあまり好きではない歌のメロディが浮かんできた。
都会では
売れ残った
マンションが増えている
けれども
問題は足の裏
床がない