2009年09月24日

『この惑星』の連載が始まる

 『この惑星』というWebマガジンでイベント・レビューの連載を始めるという予告は数日前からしてきた。
 いよいよ今日から掲載される。タイトルは「アーティストアイズ」。映像、映画、美術、音楽、演劇、取り上げるイベントのジャンルは自由でいいという。月に一回の連載、私自身楽しみにしている。次は何を取り上げようか。批評家やキュレーターや研究者の視点ではなく、アーティストが同時代のアートを語る。この運動感を重視していきたい。運動、ムーブメントという言葉は隔世の感がある。だが、私がアートに関わっているときは常に、綱領も無く形にならないムーブメントに参加しているという意識でやってきた。
 そもそも近代の芸術運動は、批評と表現がともにあった。多くの場合そこに宣言文=マニフェスト(ああこのコトバ使いたくねー)も加わるが。現在、芸術に関して宣言文を書くようなひとつの方向性は見出すことが非常に難しい。だが、近代以前のように、芸術のあり方がかなりはっきりした形で社会に根付いている時代でもない。むしろ、宣言文も書きにくいくらいばらばらな試みが、あちこちで行われているといってもいいだろう。
 こういう時代こそ、表現と批評がともになければならない。あちこちで行われているばらばらな試みに何か共通性を見出したり、似ているような事象の中に相違点を見出したりしながら、アートが何を孕んでいるのかを探して行きたい。表現と言葉をたずさえて、見えないムーブメントに参加しよう。
 この文中の『この惑星』という文字ををクリックすればそのページに飛びます。ぜひご一読ください。
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2009年09月23日

「アニメの殿堂」建設中止だってさ

 朝日新聞の朝刊によると、川端達夫文部科学相が「国立メディア芸術総合センター」の建設を中止すると発表した。ハコ物をやめてメディア芸術全体の振興策を検討しなおすよう事務方に指示したという。
 麻生政権の最後っ屁政策について云々する気はない。そもそも、せっかく元気のいいマンガやアニメが国の保護を受けてどうなるのだろうという思いがあった。
 歌舞伎のようになるのか、相撲のようになるのか。マンガやアニメやゲームはそれを求めているのか。
 国と芸術についてはよく考える必要がある。文化助成が必ずしも芸術を発展させるとは限らない。だが、芸術は多くの場合国家権力と結びつくことで継続してきた。芸術と権力の関係は、複雑で一筋縄ではいかないのだ。
 少なくとも、芸術史は権力に結びついた芸術についての物語だ。劇的な変化は国家権力とはかけ離れてところで起きたとしても、それを芸術史に飲み込み、維持発展させてきたのは権力のバックアップがあってのものだ。有形の芸術についてはこういって間違いないだろう。ルーヴル美術館を見るとそのことを思い知らされる。
 その陰で、消えて行った絵や彫刻や工芸品は膨大な量だ。有形の芸術ですらほとんどは消えていく。ましてや無形の芸術、歌や器楽や踊りはごくわずかなものだけが、かろうじて継承されながら残っている。無形の文化の継承に権力のバックアップがあることもある。それとは無縁に、民衆の中で継承されてきたものもある。
 ところで、そうして継承された歌や踊りが、本当にむかしと同じであるかは誰もわからない。
 権力と結びついた芸術が硬直し形式化しやすいことも事実だが、権力と結びつかない芸術が消えて無くなりやすいのも事実だ。もちろん、歴史の中にはどちらの例外も多々ある。
 数週間前にノーマン・マクラレンのDVDを見直したのだが、今なお新しい感動がある。イギリス生まれのノーマン・マクラレンは1941年、カナダに設立された国立映画制作庁長官の招きで、アニメーション部門の責任者として赴任する。映画を作る官庁だ。そして、たくさんの名作を作り、多くの作家を育てた。DVDの中には政府の政策の宣伝のための作品も入っている。公共CMだ。DVDを見ながら、ふと「アニメの殿堂」という言葉がちらりと頭をかすめた。マクラレンの映画はけっして権力的な作品ではない。自由で、アヴァンギャルドで、それでいたユーモラスで、多くの人が楽しめる作品だ。だが、マクラレンがカナダの国立映画制作庁に職を得ていなかったら、これほど多くの作品は残っていなかったかもしれない。少なくとも、作品の傾向はこれほど多岐に渡ることはなく、ある程度の映画制作のシステムを必要とするような作品は生まれなかっただろう。
 私が敬愛する映画作家スタン・ブラッケージは、作品数はたくさんあるが、貧乏人でも作れるようなタイプの作品だった。ただし、あの本数を作るんのは大変だったろう。生涯生活は苦しかったようである。
 国立メディア芸術総合センターとか、メディア芸術全体の振興策といわれても曖昧模糊としていて、ピンとこない。そもそもメディア芸術は文科省の管轄なのか、それとも経済産業省の管轄なのか。
 文化助成を求める声は、現代美術や音楽の世界でも昔からあった。たしかに、欧米と比べて日本の現代芸術への助成は貧弱だ。だが、欧米から来る現代美術や実験映画を見ると、年末の道路工事のように、助成金貰ったから予算消化するために創りましたといった感じの作品が多々ある。その点、日本の作品はギリギリで作られているせいか緊張感があるものも多い。助成があながち作品にいい結果をもたらすとはいえない。
 特に結論はない。この問題については、たぶんいつ書いてもこんなことになるだろう。芸術はいつの時代も矛盾真っ只中にいる。生きる原動力は矛盾であり、矛盾の凝縮こそが芸術なのだ。
posted by 黒川芳朱 at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月22日

『聖なるうそつき』を見た

 ピーター・カソヴィッツ監督、ロビン・ウィリアムズ主演の『聖なるうそつき』を見た。面白く、いろいろなことを連想した。
 第二次世界大戦時のユダヤ人ゲットー、ナチの支配下、収容所行きの列車が来るまでの絶望的で静かな日々。ゲットー内では自殺が絶えない。住民にラジオを持つことは禁止されている。ひょんなことで司令部に入ったときラジオ放送で、ソ連軍が近くまで迫っていると知った主人公がそのことを親しい若者に教える。これが、いつの間にか彼がひそかにラジオを持っているという噂になり、ゲットー中の人々に知れ渡る。主人公は仲間たちに希望を与えるため、仕方なくラジオをもっていると嘘をつき、日々でっち上げのニュースを語る。
 ユダヤ人と希望を持つための嘘というシチュエーションは『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出す。また、戦争という極限状況でのラジオといえば『リリー・マルレーン』があった。戦時下のドイツ側の放送で流れた歌が、敵味方を超えて愛唱される。制度をはみ出していく人間、夢、想像力、嘘。
 おっといけねえ。ロビン・ウィリアムズとラジオといえば『グッドモーニング・ベトナム』があった。あれも戦場でのラジオだ。
 この映画の主人公は善意で嘘をつくわけだが、閉ざされた状況の人々に、あたかも外部の架空の組織とつながりがあるかのような嘘をつき彼らを支配した男もいる。『悪霊』のスタブローキン、そのモデルとなったネチャーエフ。
 霊界から新聞が舞い込んでくる『恐怖新聞』なんてマンガもあったな。目に見えない、耳に聞こえないか、形にならないメッセージが新聞というメディアの形をとって現れるのが面白かった。
 架空の放送というのはギリギリだなあ。主人公が少女にラジオ放送を聞かせてとせがまれ、彼女の後ろでラジオのまねをするシーンが面白い。芸達者なロビン・ウィリアムズならではだ。
 人々の希望を与えようと必死に嘘をつく主人公に、語り部とか詩人というものの原形を見た感じがする。
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2009年09月21日

『1960年代の東京』という本を買った

 敬老の日、お袋への粗品に『1960年代の東京』(撮影:池田信)という写真集を買った。東京の街並が細かく撮影されている。
 この手の本は何冊かもっている。きょう買った本は毎日新聞社から出ているが、朝日新聞社からむかし出た『東京この30年 変貌した都市の顔 1952〜1984』という本は、題名のとおり同じ場所の52年あたりの風景と83、4年の風景を対比させている。だがこれも26年前か。
 この本はメインが航空写真だが、ところどころビルの屋上ぐらいのやや低めの位置から撮られた写真がある。昭和27年の渋谷駅前、人もまばらで車も数えるほど。高い建物といってもせいぜい3階か4階建て、ほとんど2階建てだ。昭和58年の写真と比べると、残っている建物はない。だが、建物は違うが昭和27年にも三千里薬局は建っている。
 きょう買った『1960年代の東京』はほとんど路面から撮った写真だ。より町のディティールに入っている感じがして面白い。路面が舗装されていないところが多い。遠くが見渡せる。そして、風景の中に水がたくさん写っている。そうなのだ、首都高が出来る前は東京は水の都だった。いまも川はあるが、風景の中で生きていない、死んでいる。
 ところで、この写真集を見ながらおかしな気分になった。シャッターを押すとき、おれはそれを記憶に残そうと思って撮っていない。思い出にしようなどと思っていない。新しいものを感じ、いまという瞬間にシャッターを押している。だが、それが残ることで価値が出てくる。写真のすべてとはいわないが、古いことで価値のある写真というものは確実にある。いまという瞬間を記録し、永遠に残すことができるというようなレトリックも使えるが、ギタリストがギターを弾きいまという瞬間に音を出すこととは根本的に違う。できた写真をいろいろに解釈することはできるが、やっていることは100パーセント何かのいまの姿をとどめることだ。
 だから、すべて消えてしまえと思うときがある。これから撮るもの撮るという現在形の行為にしか興味がなくなる。少なくとも、撮る行為は対象との交感の中で成り立つ。演奏にも近いライブパフォーマンスだ。
posted by 黒川芳朱 at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月20日

文章の完成とは

 やれやれ、やっとできた。きのう書いた『この惑星』の原稿のことだ。あれから推敲を繰り返し、今日の昼にやっと完成した。
 今朝の10時ぐらいから、言葉が勝手に動き出してまとまり始めた。その感覚をちょっと記述するのは難しい。そして、完成した時、達成感はやってくる。
 だが、映画や絵や立体を作ったときとは達成感が違う。映画や絵や立体は物としての手触りがある。同じ映像でもフィルムとビデオでは物質性において違いがある。フィルムは絵が物として見えるのに対して、ビデオは情報としてモニターやディスプレーでしか見れない。だが、それでも文章と比べるとずっと物質感がある。
 映画や絵や立体は、ある瞬間からそれそのものが物として自己運動をはじめ、細部がどんどんどれに吸い込まれていく感じがある。きのうも書いたように、文章も特に原稿用紙で推敲を重ねるうち、じょじょにそれ自体が自立し単語を吸い込んでいくようになる。
 だが、やはり達成感に違いがある。言葉は何処までも抽象的で、ものの手触りがない。完成に近づくにしたがって徐々にあるまとまりを形作り、無駄なものを排除し始める。そのまとまりにある種の手触りはあるが、観念とかシステムとかの手触りだ。手触りのない手触り。仮構の手触り。
 言葉はやはり宇宙から来たヴィールスか。
posted by 黒川芳朱 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月19日

推敲について

 終わらない終われない。
 あ〜〜〜〜〜終わった。いやだめだ。
 先日お知らせしたWebマガジン『この惑星』の原稿の締めきりだ。
 いや、締め切りは過ぎて伸ばしてもらったのだ。ははは。
 きのう書きあがってはいたのだが、ちょっと長くて気に入らなかった。長さだけの問題ではなく、浮かび上がらせたいものがうまく浮かび上がって来なかった。こういうときは長さという外的制約が文章を締め上げてくれることがある。
 それにしても原稿用紙で文章を書いていたときと、ワープロで書くようになってからでは推敲というものが、かなり違った体験になってきた。原稿用紙時代はとにかく時間がかかった。全文書き直したり、ごそっと文節を移動したりするのときは活かせる部分を切り張りしたり。けっこう激しく推敲するたちなので、苦労した。なぜ激しく推敲するかというと、自分が書いたものにすぐ飽きちゃうからだ。ただ、原稿用紙での推敲が時間がかかる分、文章の中に魂が入りやすかった。ちょうど、粘土で彫塑を作っている感じだ。うまくいきだすと粘土が吸い付いていくように単語が文脈に吸い付いていく。
 ワープロでは細かい字句の修正も、大幅な段落の入れ替えも簡単にできる。だが、これが罠だ。おれのようにすぐ自分の文章に飽きる人間は、書いた先から推敲したくなる。結果全然進まない。そして、文章に一貫した勢いがなくなる。メロディラインが決まらないまま、アレンジばかりあれこれいじっている感だ。レゴで何かを作っている感じにも似ている。
 いけねえ、こんなこと書いている場合じゃない。原稿書かなきゃ。
posted by 黒川芳朱 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月18日

ゆずのシングル

 金曜日なので某公立高校で授業。
 芸術科の3年生で映像の授業を選択している生徒が対象。共同制作のアニメーションが完成に近づいている。分担作業なのですでに自分の仕事が終わっている生徒は、卒業制作の企画を立て始める。
 一人の女子生徒が、ごく普通の子の日常的な世界を描いたアニーションを作りたいという。まずなんでもいから思いつくことを絵や言葉でメモしてごらんという。芸術科なのでみんな絵を描くのは得意だ。せっせと女の子の絵を描き始め、水彩色鉛筆で色を塗り始める。
 そこでちょっとアドバイス。この子の年齢は? 家族構成は? 得意学科は? 苦手な学科は?などと質問してみる。するとうーん、高校2年生、お父さんとお母さんと弟がいる、数学が億位で音楽が苦手、などと答えながらキャラクターを作り始めた。もうひとり卒制の企画を考えていた子が煮詰まり、この子のキャラクター設定に付き合いだす。面白そうに2人でおしゃべりしながらメモをしていく。
「うんと普通っぽい子がいいんだ」
「お父さんの仕事はリーマンだよね」
「ちょっとお金持ち」
「彼氏は中学のときちょっと付き合いそうになった子がいるんだけど、うまくいかなくて、それ以来いない」
「あー普通っぽい」
 だんだんはまってきたようだ。
 そこで私がどんな音楽が好きなのかと質問。
「ゆず」
「あー、普通だね、いいね」
私がさらにどのぐらい好きなのか聞くと「どのぐらいって…」と困っているので、「たとえばCD何枚もってるの」と聞く。
「シングル3枚」
「普通、普通」
 つまりものすごく好きなわけではないらしい。シングル3枚のうち、2枚はTUTAYAで買った中古だという。でも日曜日には何をしているかというとゆずを聞いている。
 ここで私ははっとした。
 私の周りは音楽好きばかりで、シングルを3枚しか持っていない人はいない。だが、世の中には確かにこういう人もいるはずだ。ましてや高校生なら小遣いも限られている。
 
 ここでタイムスリップ。
 ふりかえってみると、父も母も音楽を聴く習慣がなかった。父は若いころは三味線を弾き長唄か何かをやっていたらしいが、レコードを聴くようなことはしなかった。時々ラジオはかけっぱなしにしていたが、かけっぱなしなので特に音楽を聴いていたわけでもない。母はしょっちゅうでかい声で鼻歌を歌っているが、これまた音楽鑑賞などしない。そんなわけでうちにはステレオがなかった。
 ただし、中学のころ英語のソノシートを聞くためにポータブルステレオ買ってもらった。ちゃんと、スピーカーは二つあった。中学のころからラジオの深夜放送を聴き、音楽も聴くようになった。高校生になって、初めてレコードを買った。ジョン・レノンの『ジョンの魂』だ。そのあと『イマジン』を買い、それからビートルズを集めだした。ビートルズはラジオで聞いていたが、レコードを買ったのはジョンのソロのほうが先だ。
 レコードを集めだしたころは少ないレコードを繰り返し聴いたな。
 
 ここで生徒の設定した普通の女子高生に話はもどる。名前はサエコと決まった。
 世の中には酒を飲む人、煙草を吸う人、スポーツが好きな人、スウィーツが好きな人などさまざまな嗜好がある。酒は好きだけれどたくさんは飲まないという人もいる。スポーツ好きもプロ並みの本格派もいれば、たまにキャッチボールをするだけで満足する人もいる。
 そう考えると、3枚のゆずのシングルを繰り返し聞くことで、満足できる女子高生もいるだろう。私や私の周辺とあまりに隔たりがあったため、シングル3枚と聞いたときは思わず笑ってしまったが、虚をつかれた思いだ。
 日曜日の午前、サエコはゆずを聞きながら何を見ているんだろう。何を感じているんだろう。どんな気持になるんだろう。充実しているんだろうな。
 生徒の作品がどうなるか楽しみだ。
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2009年09月17日

『ゴーギャン展』に行ってきた

 竹橋の近代美術館に『ゴーギャン』展を見に行った。
 開館時間の少し前、9時50分に着いたが、すでにチケット売り場には長蛇の列。といっても5分ほどで購入できたが、ちょっと気がめげる。
 気を取り直して中に入ると、混んではいるが鑑賞に支障はない。
 今回の目玉は、なんといってもボストン美術館蔵の遺作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』だ。正直言ってこの作品の鑑賞には、あまりいい展示状態ではなかった。
 この絵は縦139.1cm、横374.6cmと横に長い。広い展示室にこの絵が置かれ、鑑賞スペースはロープで絵に対して平行に二つに区切られている。
 絵に近いほうのスペースは、絵に平行に三列ほど人が並ぶことができる。ここでは観客は移動しながら鑑賞する。近くで見ることはできるが、照明が反射して見にくい部分がある。画面右から三分の一ぐらいのところにいる赤い服を着た二人の女は、そもそも暗めの色調なので沈んでいる上に反射が被ってしまう。
 後ろのスペースは止まってじっくり鑑賞することができる。だが、前の移動する人の姿が絵に被り、全体を一望することはできない。画面下半分は人の移動で見えたり見えなかったり。
 この絵は全体に暗い色調で、色彩が立ってくる絵ではない。また、思索的な絵なので、移動しながら見るよりは、じっとしてあちことと画面の中を視線を泳がせるように見たほうが愉しめる。そういう意味では、今回の会場のコンディションはちょっと厳しかった。せめて後ろの席に段差があり、前の人が被らずに全体を一望できると良かったのだがないものねだりかな。オリジナルに触れたことで満足しよう。 
 後ろのスペースに立って眺めながら、絵の前を通り過ぎる人々に目を移すと「この人たちは何処から来たのか この人たちは何者か この人たちは何処へ行くのか」という言葉が浮かんだ。おれもその一人なんだけどね。
 ほかに面白かったのは、ゴーギャン自身が書いたタヒチ滞在記『ノアノア』の連作版画だ。『ノアノア』ほ岩波文庫にも入っている。その中に挿入されている版画に摺りの違う三つのヴァージョンがあった。当然版木は同じで、ゴーギャン自身の摺ったもの、友人のルイ・ロアが摺ったもの、四男のポーラ・ゴーギャンが摺ったもの。岐阜県美術館所蔵の数点とボストン美術館所蔵の数展を並べて展示することでその違いが明らかになった。これがおなじ版画かと思うほど印象が違う。ゴーギャンの自摺りは闇の深さを表現しようとしているかのようであり、ルイ・ロア版は色彩のコントラストが激しく、ポーラ・ゴーギャン版ではモノクロで版木のディティールまで再現され鉛筆画のようだ。版画という複製芸術で、これほどの違いが出ることがとても興味深い。
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2009年09月16日

『メカスの映画日記』を読みながら

 『この惑星』というWebマガジンにイベント情報を書くことになった。映像、映画、美術、音楽、演劇ジャンルを固定せず、自由に書いていいという。書くに当たって念頭にあるのは、いまリアルなものとは何かということだ。写実ということではなく、いまというものをヒリヒリ感じられるかということに重点を置いて書いていきたい。
 そんなこともあって、ジョナス・メカスの『メカスの映画日記』を本棚から引っ張り出しペラペラめくってみる。この本は、メカスが『ヴィレッジ・ボイス』に書いた「ムーヴィ・ジャーナル」というコラムをまとめた本だが、そこには新しい映画を求めるメカスの初々しく痛切な気落ちが刻み付けられている。
 1959年、今から50年前、メカスはこう記している。
 「われわれは、たとえ完璧ではなくとも、より自由な映画を求めている。―古い世代には望むべくもないが―若い映画作家だけでも荒々しく、アナーキーに自分の殻を打ち破り、真に脱皮していけばよいのだ! 形式的な映画感覚を完全に錯乱させる以外には、、この凍てついた映画制度を破壊する道はない」。
 この、新しい映画への激しい希求の骨格をなしているのは、こんな言葉だ。
 「私は地方主義者だ。それがありのままの私だ。私は常にどこかの場所に所属している。どこへでもいいから私を置き去りにしてみたまえ。渇いた、生き物などまったくいない、死に絶えた、そこで暮らしたいと思う人など一人としていないような不毛の土地に―私はそこで育ち始め、瑞々しくふくらむだろう」。
 メカスはリトアニアからの移民だ。アメリカに生まれ育った人ではない。その彼が自分は地方主義者だと宣言している。地方とは自分自身がいる場所のことだ。自分自身のいる場所で生きることで、はじめて世界にも働きかけることができる。「私には、いまとここしかない」とも書いている。
 メカスは単に新規な映画を求めているのではなく、いまここに生きることと密接につながったものとして新しい映画を求め、その結果、自分自身も映画を作ることに向かった。
 メカスがこれを書き出した50年前と違い、新しさはそこかしこに溢れているようだ。新しいことはやりつくされ、もはや表現の飽和状態だという人もいる。本当にそうだろうか。50年前であってももうすべてがやりつくされた感はあったはずだ。私たちは毎日新しく生まれ変わっている。だとしたら、そんな私たちにとってリアルの表現は日々新たに作りださなければなるまい。
 いま、新しい表現を求めるとき、やはり私も私の立ち位置からしか出発できないし、すべきでもないだろう。
 イベント情報の連載が始まったらこのブログで通知します。ぜひお読みください。
posted by 黒川芳朱 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | この惑星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

映像編集について

 今日はある専門学校で授業。講義名はノンリニア編集。
 使用するのはAvidという編集ソフトだが、ソフトの使い方を教えるだけではなく映像編集の文法のようなものも教える。この学校で受け持っているのはCGの勉強をしている学生たちなので、映画を学んでいる学生とは少し意識が違う。そのへんの、学生の興味の違いも教えていて戸惑ったり面白かったりするところだ。
 今日はアクションつなぎやセリフの編集を学ぶための素材を撮影した。学生たちにちょっとした演技(というほどでもないが)をさせて、学生どうし撮影する。今日撮った素材をもとに、来週編集をする。
 映画の文法といってもかなりルーズなもので、どこまで普遍性があるかは疑わしい。よく、音楽は国境を越えるとか、映画は国境を越えるといった言い方があるが、これもかなり疑わしい。映画は何日もあるいは何年もの出来事を90分とか、2時間とかに圧縮して描く。当然そこには時間や空間の省略がある。編集の仕事のひとつは、この時間と空間の省略をいかに実現するかにある。あるときは観客に意識させないように、あるときは省略していることを強調して。では、編集は誰にでも通じる普遍的な感覚に基づいているのだろうか。
 テレビドラマにこんなシーンがあった。主人公が家のドアを開けて出かける。次のシーンでは、さっきの男がバーのドアを開けて入ってくる。よくある時間と空間の省略法だ。ある高名な映画評論家のご母堂様はそれを見て、「この人の家は便利だね。ドアを開けるとすぐバーになる」といったという。この話は示唆的だ。映画の編集というものが、そう信じられているほど感覚的なものではなく、慣習化した説話の方法の場合もある。
 実は私の家はあまり映画を見に行く習慣がなく、高校生ぐらいまでは年に1、2本しか映画を見ることはなかった。高校生になって、よく映画を見るようになったが、はじめのころは映画の見方がわからなかった。その、省略法についていけず、違和感を持ったことを思い出す。
 現在の映画の文法は、サイレント映画の時代にハリウッドを中心に作られた。つまりそれは、ある種の方言である可能性がある。
 そして時々想像する。今の映画の文法がある種の方言だったら、まったく違った映画の文法もありうるはずだと。
 
 
 
posted by 黒川芳朱 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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