2009年09月14日

相倉久人パフォーマンスジョッキー『重力の復権』

 相倉久人パフォーマンス・ジョッキー『重力の復権』
日時:9月25日(金曜日)19時30分より
料金:800円(予約、当日とも)
会場:Live Space plan−B
住所:東京都中野区弥生町4−26−20モナーク中野B1
アクセス:東京メトロ丸の内線(方南町線)中野富士見町駅より徒歩7分
JR中野駅南口より京王バス、 渋谷行きか新宿駅西口行、富士高校前下車 徒歩1分
会場への連絡:03-3384-2051(公演当日のみ)
問合せ先:090-5385-9631(石原)
会場への地図等はplan-Bホームページからhttp://www.i10x.com/planb/
 
 8月は夏休みをいただいた『重力の復権』ですが、9月は上記の日程で行います。
 相倉久人さんはジャズを出発点に活動を開始し、いまや音楽のみならず様々なジャンルで活躍される批評家です。この7月に日比谷の野外音楽堂で行われた『山下洋輔トリオ復活祭』での名司会ぶりをご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 この企画が始まった1982年当時はビデオデッキがいよいよ普及し始め、一般の視聴者がテレビ局の決めるのタイムテーブルから自由になった時代でした。いまやBS、CSなどテレビのチャンネルは増え、販売およびレンタルDVDやオンデマンドさらにはYou Tube、ニコニコ動画などで、情報の選択肢は一気に広がりました。
 しかし、このパフォーマンスジョッキーの形はほとんど変わりません。生活環境の中で浴びている情報の断片をもとの文脈から引っぺがし、暗闇の中で並べかえ、その間に相倉さんのはなしがそっと差し挟まれる。それは、マルセル・デュシャンが便器を美術館に展示したことに似ているかもしれません。いわば情報のデペイズマン、置き換えです。
 それによって、情報の隠れていた姿や、見えなかった関連性などが浮かび上がってきます。
 面白い情報ではなく、情報を面白く見たい方はぜひいらしてください。
 彼女の批評家によって裸にされた情報、さえも…
 


posted by 黒川芳朱 at 23:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 重力の復権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月13日

『アコム“みる”コンサート物語』に行った

 きのう、高校の文化祭に行った後、電車を乗り継いで浦安市文化会館に『アコム“みる”コンサート物語』というイベントを見に行った。第一部が音楽と影絵のコラボレーション、そして第二部が影絵劇のという構成だ。
 影絵劇団に参加している友人がいる。影絵は映像メディアの原点だと思っているので、前々から興味があった。だが、なかなか見る機会がなかった。久しぶりに彼にあったので、今度いつ公演があるのか聞くと、9月12日にあることを教えてくれて、おまけにチケットまで用意してくれた。
 劇団の名前は「影絵劇団かしの樹」だとおそわり、さっそくホームページを見た。子供向けの公演を行っている児童演劇の総合劇団だという。今回のようなホールでの公演のほか、学校での公演も行っているらしい。また、インドネシアやソ連(おお、なつかしい)など海外でも公演を行っている。
 会場は子供づれ、あるいは子どもだけの集団がたくさんいる。私のように、中年親父が一人というのは稀だ。
 第一部はプルミエというピアノ、ヴァイオリン、チェロによる女性トリオの演奏のバックに、大きなスクリーンがあってそこに影絵が映るという趣向だ。サイレント映画の時代、映画館にはピアニストや楽団がいて、スクリーンに映る映画に合わせて生演奏をしていた。影絵というそれよりもっとプリミティブな映像と音楽のコラボレーション。太古、人人々はどのように影絵を発見し、それを見世物として楽しむようになったのだろう。映像メディアの誕生のころを想像した。
 第二部は「物語の影絵」と題して、佐野洋子の絵本『100万回生きた猫』をもとに作られた影絵劇。スクリーンの脇には先ほどのプルミエのメンバーがいて、生演奏。さらに語り手が登場し、物語を聞かせる。日本独自のサイレント映画の上映方法、弁士、楽団、スクリーンというユニットを連想させる。このコンサート、“笑顔のおてつだい「バリアフリーコンサート」”を謳っているように耳の不自由な方も楽しんでもらおうという趣旨で、語り手の隣に手話で通訳をする人がいる。
 影絵は、ホールでの公演用にかなり洗練された表現になっている。ちょっとみではDVDなどに記録されている映像をながしているのかと思うほど完成度が高い。最後に幕が開いてスクリーンの背後の様子が見えてが、それまでは本当に生なのかと思う瞬間もあった。
 この公演は、子どもあるいは家族向けとして楽しいものだったが、影絵の原初性、ライブ性、即興性に焦点を当てた、アヴァンギャルドな影絵公演はできないだろうか。
 
posted by 黒川芳朱 at 02:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月12日

高校の文化祭に行った

 私が非常勤講師をしている某県立高校の文化祭に行った。
 この高校には普通科と芸術科があり、わたしは芸術科を中心に、普通科の生徒も数人教えている。芸術科は各学年一クラスだが、それぞれ教室で作品展を行っている。普段の授業とは違った生徒の一面を見ることができ、面白い。この子はこんな絵も描くのか、こんなメディアにも興味があるのかといったさまざまな発見がある。
 ふだんやたらにぎやかな女の子が、終電の車内でぽつんと座席に座る真っ白い人型を油彩で描いていたのが印象的だった。また、数人の生徒が合作で黒板にチョークで描いた壁画が見事だった。黒板にチョークというと線画を想像するだろうが違う。チョークをパステルのように使いこなし複雑な色彩とタッチを生かした絵である。
 また、ロビーでは3年生がライブペインティングのパフォーマンスを行っていた。写楽の首絵、ピカソの泣く女、フェルメールの真珠の首飾りの少女などを多少のアレンジも加えつつ模写している。ひとつの大画面にこれらが同時に描かれていく。最終的にどうなるのだろう。
 映像の自主制作もあった。2年生がPV2本、3年生がドラマ4本どれも面白かった。
 3年生のドラマはオムニバス作品。内容はある高校での4人の生徒を中心にしたできごとを描いている。4作品は日付がタイトルになっている。ひと作品ごとに監督は違う。4人の監督が、中心となる4人組の生徒を演じる。先生やクラスメートも出演。舞台は学校。ちょっとホラーっぽかったり、青春物だったり。いつも勉強したり生活している学校で、架空の高校生の役を演じるところがふしぎな味わいだった。役柄の部分と本人の部分が微妙に重なり合う。
 足りないところを上げればきりがないが、それが可能性だという青春のパラドクス。作ることの残酷さの中で、新しい命がもがき始めている。 
posted by 黒川芳朱 at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月11日

フィルム文化のためにできること

 きのうの終わり、唐突に「われわれは危機に慣れすぎてしまったようだ」、と書いた。感極まって見得を切ったものの、ちょっとわかりにくかったなあ。
 フィルムがなくなりそうだ、ということはずいぶん前からいわれてきた。写真界でも映画界でも。それから、あっあれが無くなった、これが無くなった、今度これが無くなるぞ、今のうちにあれを買っておかなきゃ、これを買っておかなきゃ、でも金がないなあ、ということが繰り返されてきた。
 はじめは、80年代にコダックがスーパー8(コダックの8ミリフィルム)の高感度フィルムを廃止すると発表したときだった。このときは、みんなあせった。おれももうこの世の終わりかと思ったくらいだ。その後コダックが別のタイプの高感度フィルムを出し、結果的には現在スーパー8はシングル8よりフィルムの種類は豊富になっている。
 だが、フィルムのシェアが確実に減っていることはまちがいない。カメラ屋に行くと歴然としている。フィルム用カメラのコーナーはどんどん小さくなっている。まだあればいいほうで、デジカメしか置いていない店のほうが多い。生フィルムのコーナーもどんどん小さくなっている。ない店もある。
 中古カメラ屋に行くとビックリする。フィルム用のカメラがえらく安い値段で売られている。かつて名機といわれたカメラが、こんなんでいいのとこっちが恐縮してしまうような値段なのだ。うわ、これも安い、こんなのもある、メチャメチャお買い得だ、あれも買わなきゃこれも買わなきゃ、でも金がないなあ、ということになる。
 もっとも、なかには中古の8ミリカメラをえらく高い値段で売っている店もあるが。
 そんなこんなを繰り返しているうちに、われわれは危機に慣れてきてしまっているのではないか、いつかなくなることはしかたがないと思うようになってきているのではないか、ということをあらためてきのう思ったのだ。こうしてわれわれは受け身になっていくんだなあと思い、そのことにあせった。
 「フィルム文化を存続させる会」を立ち上げたとき、存続とか保存といった保守的な姿勢でいいのかということが問題になったが、改めてそのことを問い直す必要を実感した。いや、問い直すなどといっている場合ではない。フィルムが消えていくならフィルムの価値を新しいものとして作り出していく必要がある。保存ではなく、ラディカルな存続のスタイルだ。
 おれはとりあえずその価値を映画で作る出すことを考えよう。今、この時代にフィルムで撮る新しさを創造すること、とりあえず俺にできそうなことはこれだ。                       
posted by 黒川芳朱 at 22:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月10日

フィルムをめぐる問題

 仕事の後、夜8時から新宿のルノアールでフィルム文化を存続させる会のメンバーが集まり会合。といっても今日集まったの僕と水由章、太田曜、の3人だけだった。
 この会は、2006年に富士写真フイルム株式会社が、8ミリ映画のフィルム、シングル8の販売現像の終了を発表したことに端を発し、映像の作り手の側からフィルム文化の存続に向けたアクションを起こそうという思いで作った有志の会だ。
 シングル8には低感度のR25Nと高感度のRT200Nがという二つのタイプのフィルムがある。これを平成19年(2007年)3月をもって販売終了、現像サービスは平成20年9月思って終了、ということを発表したのだ。
 その後この会の働きかけだけでなく様々な声が富士に寄せられた結果、平成19年1月10日に「販売および現像サービス終了延期」という発表がなされた。その時、会が確認したところでは、R25Nは約5年、RT200Nは約3年ほどの延期という回答だった。
 フィルムを作り続けるということではなく、2007年の時点で製造し冷凍保存したフィルム少しずつ商品化していく。あくまで「販売終了の延期」のあのだ。そしてその保存の限界が5年、あるいは3年ということなのだ。
 そして今年(2009年)の6月、いよいよ終了時期が発表になった。R25Nが平成24年(20012年)3月、RT200Nが平成22年(2010年)5月をもって販売終了、現像は平成25年(20013年)9月に終了する。
 富士が終了する以上シングル8がなくなることは確定的になった。それを踏まえ、今後どうしていくかということは6月以前から何度か話し合っており、今日もいくつかアイディアを出しあった。だが、ここで発表できるようなことはまだ決まっていない。
 写真も含めてフィルムが急速に市場から消えていく傾向は歯止めがかかれない。だが、フィルムというものを貴重品、文化財といった位置づけでもよいので遺していくことが可能かどうか、これは映像文化にとって重要な問題だ。
 われわれは危機に慣れすぎてしまったようだ。 
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2009年09月09日

『中村宏・展』を見た

 京橋のギャラリー川船に、『中村宏・展』を見に行った。
 抑制された表現ながら力強い絵画の魅力を味わった。見ているときは単純に、うーんいい絵だなあと思っていたのだが、画廊を出て地下鉄の中でその体験を反芻しているうちに、久々に絵を見ることのリアリティを味わったのだということに気づいた。家に帰ってきた今も、その感覚はさらに増している。
 きょうび絵画にリアリティを感じることはまれだ。具象であれ、抽象であれ。いい絵だなと思うことはあっても、どこかで過去のメディアに接している感じは否めない。絵を見ることが今の事件としてひりひりと感じられることはめったにない。
 白と黒を基調にした色彩、色はほとんど使っていない。物の輪郭が太い線で描かれる。縦横に走る格子状の線が画面を覆っているが、必ずしも画面全体には及んでいない。ほとんどの作品は水平線で分割されており、線の上部が黒、下部が白で塗られている。格子状の線は白い部分には引かれているが黒い部分にはない。また、格子といっても升目は正方形ではなく、横長の長方形だ。この格子状の線と、太い輪郭線で描かれた物や人物の描写は、方眼紙に描かれた設計図や説明図を連想させる。
 この格子状の線は、絵画が平面であることをいやがうえにも強調する。そしてその中に描かれた絵柄の遠近法的な描写と落差を生み出す。絵画が平面であることと三次元空間のイリュージョンを表現しようとすること、つまり絵画の本質的な矛盾がぶつかり合う。画面上部とその他の場所に出現する黒い領域は、格子の空白地帯であり、絵画の本質的な矛盾を沈黙させる闇の領域である。
 白い面はところどころ斑のあるタッチで塗られている。格子状の線も定規で引かれたように斑のない均一な線ではなく濃淡があり、絵によっては薄くゴーストのように二重になっている。つまり一見説明図に見えながら、設計図にはありえない絵画的な幅をもっている。
 中村さんからお送りいただいた案内状には『図鑑・2 背後』という首のないセーラー服を着た女性の後姿の絵が印刷されていた。私はうかつにもドローイングかと思った。アクリル・キャンバスと書いてあるのに。だが現物を見ると、2007年の東京都現代美術館で開かれた『中村宏/図画事件1953-2007』に展示されており、私も見たことのある作品だった。どこの部屋のどこの壁にかかっていたかも覚えている。
 私の鑑賞力と記憶力がお粗末だということは棚に上げる。葉書を見た印象と、実物を見た印象はまったく違う。葉書ではモティーフを指し示すことに重点がおかれた線画のイラストレーションに見えたのだが、実物はモティーフから離れても鑑賞できる絵画としての幅をもっている。その意味でリキテンシュタインの絵画とその複製の関係に似ている。彼の絵は図版で見ると単にマンガに見えてしまうが、実物は絵画としての幅をもっていて、見ることが豊かな体験となる。
 女学生、蒸気機関車、便器など中村さんの絵画はモティーフ自体が面白くて、描かれた空間の中にひったて楽しむことができた。だが、常に絵画論を内包していた。《車窓篇》《タブロオ機械》など近年のシリーズになるにしたがって、絵画論的な色彩がより強くなってきたように思う。今回展示されている《図鑑》シリーズ、《絵図連鎖》シリーズではいっそうその傾向が強まった。特に《図鑑》シリーズは、多くのものをそぎ落とし絵画の本質をギリギリまで問い詰めている。2009年という時代に、私たちは絵画のなかにどんなリアリティを見出すことができるのか、その答えのひとつがここにある。
posted by 黒川芳朱 at 23:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月08日

カメラを持った人々

 きのうカメラに棒をつけて風呂場を盗撮した男が逮捕されたことを知ったとき、ふと考えた。見るという人間の根源的な欲求と、犯罪と、視覚芸術の曖昧な境界線について。 
 棒につけた撮影は、実験映画やビデオアートでも行われた。棒に付けたカメラは日常的な視覚の世界から一歩はなれ、身のまわりを新鮮な角度から映し出す。印象的な作品としては、トニー・ヒルの『ビュアーを持つ』がある。長い棒の先にカメラをつけ、部屋を出て、街中、ビルの屋上、浜辺などを歩く。棒を担いでいるのだがときどき立てたり振り回したりする。
 日本のビデオアートでも佐々木成明の秀作がある。棒ではなくロープにカメラをつけて振り回したビデオアートの肉体派島野義孝も忘れられない。
 どの作品も、まるで目ン玉が肉体から離れて浮遊しているような、だが重力や遠心力を濃厚に感じさせる視線の動きを定着した、どきどきする作品だ。棒やロープにつけたカメラを振り回すとただめまいがするが、そうならないための工夫が凝らされていた。
 風呂場を盗撮した男は、棒にカメラをつけて日常と違った視覚を得ようと思ったわけではなく、見つからないように覗きたかっただけだろう。もっとも、見つからないように覗くということが、日常とは違った視覚ということもできる。この男は、相手に絶対見つからず風呂場を覗くことができたら、それで満足したのだろうか。それでもカメラで撮影し、繰り返し見たいと思っただろうか。
 そういえば、むかし駄菓子屋で潜望鏡というおもちゃを売っていた。今もあるだろうか。15センチか20センチぐらいの筒の両側に鏡を付け、風景を反射させて見る。ほとんど顔の大きさと変わらないぐらいの長さなので、壁にでも隠れない限り「相手に見えないように相手を見る」という潜望鏡の役割は果たさない。だが、間接的にものを見ることはとても新鮮だった。
 鏡に風景を反射させること自体、子どもの頃は面白かった。手鏡一枚でしばらく遊んでいられた。駄菓子屋や文房具屋には、よく小さな手鏡が売られていた。
 だが、手鏡は階段などでの覗き犯の常套手段だ。いまはそれに、デジカメや携帯電話のカメラが加わる。手鏡、カメラ、これらは犯罪のために作られたわけではない。見ることへの根源的な欲望に結びついている道具だ。だからこそ犯罪とも結びつき易い。
 秋葉原通り魔事件のとき、多くの人が事件現場を写メで撮っていたということが話題になった。犯罪者ではない人々がモラルを欠いた行動に出る。
 似たような現象を目の当たりにしたことがある。横浜トリエンナーレで、田中泯さんが街頭で踊ったのを見に行った。馬車道を踊りながら移動していくのだが、駆けつけたギャラリーは泯さんのすぐそばまで寄り取り囲んだ。その距離1メートルもなく踊るスペースもない。そして一斉に写メを撮り出した。見るよりも写メなのだ。泯さんの街頭パフォーマンスは70年代から見ているが、かつての観客は必ずダンサーとの間に距離をとり、遠巻きに見ていた。また、前のほうにいる人は誰いうともなくしゃがんだり、中腰になって後ろの人が見えるようにしていた。
 カメラつき携帯電話はいまやほとんどの人が持っている道具だ。おれも重宝している。実はおれもあの時馬車道で、一瞬手がポケットにのびそうになったのだが、まわりを見て恥ずかしくなってやめた。そして、考え込んでしまった。
 そして、きのうの覗き犯。またまた考え込んでしまったのだが、今日も結論が出ないし、別に出す気もないのでここまで。
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2009年09月07日

盗撮男が捕まった

 ヤフーニュースを見ていたら、「棒にカメラを付け、風呂を盗撮」という見出しが眼に飛び込んできた。さっそくクリックすると、奈良で38歳の青果店員が捕まったらしい。何でも約60センチの棒にカメラをつけ、風呂場の窓に伸ばし女子高生を盗撮したのだ。なんでも13年やっていたという。
 13年前ということは、当然ミニDVだな。8ミリかもしれない。VHSやベータのフルカセットのビデオカメラ時代では重くてこんな芸当はできない。8ミリビデオでハンディカムが登場し、撮影時の機動性はぐっとアップした。
 ビデオカメラが小型化し普及するにしたがって、カメラと犯罪の親和性も上がってきている。
 ビデオカメラと犯罪者のドッキングを強く意識したのは、宮崎勤事件である。あれいらい、街中で撮影するときはかなりまわりの眼を意識するようになった。
 撮ることといわゆる迷惑行為の関係は、一度きちんと考えようと思いつつ、まだ果たせていない。
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2009年09月06日

『鴻池朋子展』を見た

 東京オペラシティアートギャラリーに『鴻池朋子展 インタートラベラー神話と遊ぶ人』を見に行った。展示に工夫が凝らされていて面白かった。
 入場料1000円を払い会場に入ると、長い廊下の途中に左側に入る口がある。入ってみると襖絵がある。襖の真ん中が空いており次の部屋が見える。次の部屋は薄い紗幕で遮断されているが、一部がめくれ上がっている。そこから入ればいいようだ。紗膜に包まれた空間に入ると、椅子ぐらいの高さの台のうえに、箱状のものが置かれている。中を見ると絵だ。同じものがいくつもあり、螺旋形をなしている。端から見ていくと絵物語になっている。鉛筆画でタイトルにあるとおり神話的な世界だ。その部屋の一角にはモニターが置かれ、絵物語と共通するキャラクターのアニメーションが流れている。
 次の部屋へは赤い幕を潜り抜けて入っていく。単に作品が並んでいる展示室ではなく、一部屋一部屋がインスタレーションとしても成立しており、それぞれの部屋がひとつの世界を作っている。
 世界めぐり、この展覧会を見ることはロールプレイングゲームのように、私たちがいくつもの世界を旅することなのだ。インタートラベラーとはそういうことのようだ。
 しっかりした描写力に支えられた幻想絵画の魅力。絵画のキャラクターをアニメーションやインスタレーションに展開する巧みさ。
 私が面白かったのは、ボルヘスの『砂の本』を思わせる絵物語『焚書―World of Wonder』と、大きな本にアニメーションを映写する『ミミオ―オデッセイ』、そして鏡をちりばめた巨大な赤ん坊の頭部が回転する『赤ん坊』だった。『赤ん坊』はミラーボールが赤ん坊の頭の形をしていると思えばよい。そこに光を当て、部屋いっぱいに反射光が回転する。ただし、頭部なので球体のように均一な面ではなくでこぼこがあり、そこに貼り付けた鏡の断片も大きさがまちまちであるため、反射光が複雑な動きをし、星の等級のようにふしぎな遠近感を作り出す。
 これらの作品を楽しみながら、だが気になったことがある。神話というものが小さくなってしまったような気がしたのだ。神話はおおむね世界生成と消滅の物語である。たとえそれが恋物語であったとしても、世界生成と消滅の物語をなぞるような物語である。壮大な物語もくりかえすことで小さくなっていく。神話はいま、マンガやアニメやゲームや映画の中に様々な意匠をこらして存在する。
 いま神話は私たちの生活と地続きではなく、私たちは神話(起源)から完全に切り離されて存在している。だから、神話を観念的に求めるのかもしれない。
 これは鴻池朋子の問題ではない。いまの時代のリアリティの問題だと思う。
 
posted by 黒川芳朱 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月05日

『タイムマシン』の時間表現

 きのう『ふしぎな少年』を思い出したことで、急に映像における時間表現についてあれこれ考え始めた。
 きのうも書いたが、時間が止まると人間やものの動きが止まる、ということが幼稚園児のおれにはよくわからなかった。たしか7歳年の離れた姉に説明してもらったのだが、どう説明されたのか覚えていない。
 だが、わからなかった理由は今でもはっきりしている。時間が止まるという状態をみたことがなかったからだ。誰も見たことがない。となると、時間やそれが止まっている状態をなんらかの比喩で考えなくてはならない。幼稚園児には、そもそも時間というものがよくわかっていなかったのに、それをさらに何かに置きかえて考えるなんてむずかしかった。
 当時は誰もが時間の中にしか存在していなかったのだ。
 いま子どもに時間が止まるってどういうことと聞かれたら、DVDをポーズにすればよい。時間の早送りもできるし、逆再生にすれば時間をさかのぼることもできる。ビデオやDVDという時間の模型を手に入れことによって、われわれは時間を外から眺めることができるようになったのだ。
 そういえば、と思いジョージ・パルの『タイムマシン』をビデオラックから引っ張り出した。1959年の作品だ。この映画のタイムトラベルのシーンが面白い。時間という目に見えないものをユーモラスに映像化している。
 まず、タイムマシンなので空間的にはまったく動かないのに、自動車のような本体の後ろに風車のようなものが付いていて、タイムトラベルのレバーを倒すと回転を始める。なんだろう。この風車の回転は、時計のように循環する時間のアナロジーなのだろうか。それとも、単に運動感を出すための、ウゴイテルゾーという表現なのだろうか。ご丁寧にこの時シャンデリアや棚などの家具が少し揺れる。時空のねじれだろうか。
 はじめ主人公はおっかなびっくり少しレバーを倒す。まわりの物が少しぼやけすぐにはっきり見える。映像技法的にはピン送り、ピントがボケてまた合う。室内は何も変わっていない。だが時計の針がずいぶん進んでいるし、ろうそくがずいぶん減っている。
 天窓の外を雲が流れ、太陽が急速に移動し、星が移動し、朝焼けで太陽が現れ、といった変化を繰り返し、花が急速に咲く。今となっては時間表現の定番ともいえる映像だが、当時とても斬新だったことを思い出す。
 面白いのは研究室の窓から見える向かいの家が洋服屋で、ショーウィンドウの中に立つマネキンの服装がどんどん変化することだ。着せ替えているシーンも何回もある。主人公は未来の服に「あれがドレスか」とあきれ、「マネキンが気に入った。私と同じで変わらないから」と共感を示す。太陽と花という自然現象でなく、人間の社会の変化をえがくモティーフがマネキンと服装というのはなかなかユーモラスで的確なアイディアだ。そして、実際の社会の歴史的な変化は、未来のある時点で主人公が家を出て町の人と会話する中で明らかになる。
 絵画にしろ映画にしろ、映像メディアは見えないものを見えるように表現しようとしてきた。それは見えないものを擬人化したり物や動物に置き換えるアレゴリーという表現だったり、先ほどのろうそくの長さで時間を表現するように見える物の差異で見えないものを表現するやり方だった。
 そこには当然無理もあるし、風車の回転のように一見それらしく見えるが実は関係ないものを、比喩を借りていたりすることも多々ある。ツッコミを入れながらこういってイメージをひとつひとつ丁寧に見ていくと面白い。 
posted by 黒川芳朱 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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